今月の歌舞伎では、やはり、期待は、藤十郎の「封印切」であった。
もう殆どの歌舞伎役者が東京に本拠を移してしまったので、こてこての上方訛りで、正統派(?)の上方版の近松門左衛門の芝居が演じられるのは、今後期待薄で、文楽だけになってしまうであろう。(尤も、これも時間の問題ではあるが。)
5年前に、京都南座で行われた藤十郎の「封印切」(残念ながら、NHKの放映しか見られなかった)にいたく感激して、レビューを書いたのだが、今回も、最も得意芸の演じ納めということであろうか、藤十郎が、一世一代の公演と言う意気ごみであるから、期待して余りある舞台であった。
南座の舞台では、忠兵衛は藤十郎だが、梅川は秀太郎、井筒屋おゑんは玉三郎、丹波屋八右衛門は仁左衛門であったが、今回は、秀太郎がおゑんにまわり、梅川は扇雀、八右衛門は翫雀で、槌屋治右衛門が我當と言うオール上方役者による封印切であった。
この封印切で重要な役割を演じるのは、治兵衛を封印切りに追い込んで行く八右衛門で、南座の仁左衛門の胸のすく様なハイテンポの畳み掛けるような、藤十郎の治兵衛との丁々発止の対話が面白かったが、今回の翫雀の八右衛門の嫌がらせの限りを尽くしたねちねちした語り口も、正に、関西やなあと思えて興味深かった。
この歌舞伎の封印切を見ていて、いつも思うのは、近松門左衛門の浄瑠璃本と、そして、それを忠実に舞台化している文楽と、八右衛門の扱い方が、大きく違っていて、このキャラクターの差が、芝居の印象をかなり変えてしまっていることである。
まず、原作では、四代目竹本越路大夫が、八右衛門について語った「実際に友人思いの、人情のある男で、忠兵衛よりも一回り大きな人物。悪人ではない」と言うように、この「封印切」の舞台でも、忠兵衛のことを思って、遊郭や梅川から忠兵衛を遠ざけようとして井筒屋にやって来て忠兵衛のことを、50両の返金の代わりに焼き物の鬢水入れをよこした話を暴露したり悪く言ったのだが、それを立ち聞きして、頭にきた忠兵衛が、八右衛門に挑みかかって、金を返すために封印を切ってしまう、と言うことになっている。
そして、梅川の身請けを争うのは、八右衛門ではなく、田舎の大人である。
ところが、歌舞伎では、冒頭で、治右衛門が、井筒屋に来て、八右衛門に身請けが決まったと述べ、その後、、八右衛門が、身請けの金を持ってきてケリを付けようとして、金を持っていることを良いことに悪口雑言の限りを尽くして治兵衛の悪口を言う。悪人扱いに変わってしまっているのである。
このようなストーリー展開になると、非常に、黒白がはっきりとして来て、おゑんが嫌って徹底的に罵倒するように、八右衛門が悪玉になれば成るほど、治兵衛の悲劇が浮き彫りとなり、封印切りへと一直線に上り詰めることとなる。
八右衛門としては、元々、人の金しか持ち合わせのない飛脚問屋の治兵衛を苛め抜けばよいのであるから、大阪弁で、どんどん、テンションを上げて鉄砲玉のように悪口雑言をはいて追い詰めて行くと言うこととなり、このあたりの語り口は、やはり、関西オリジンの仁左衛門は非常に上手いし、翫雀などは、大師匠である親父の藤十郎を相手に思う存分捲し立てて本領発揮、気持ち良いくらいである。
もう一つ興味深い差は、封印を切るタイミングである。
歌舞伎の場合には、治兵衛は、親からもらった300両を持っていると言って懐に手を入れたので、八右衛門が、300両持っているのなら見せてくれ、音を聞かせてくれと追い詰めたので、火鉢の縁を叩いたり手荒く扱った拍子に封印が切れてしまう。
ところが、文楽の方では、激昂した治兵衛が、懐に手を突っ込んで金を引き出そうとした時に、八右衛門が、その金は、公金であることを知っているので制止して、逆上せずに届けろと意を尽くして叱るのだが、女郎衆の前で言われ男が立たぬと封を切って叩きつける。
それを見た梅川が涙を流して階段を駆け下りて来て、八右衛門の方が道理、私のため故忝いが、あなた一人なら身を売ってでも養って見せるのに、人の金に手を付けるなど情けないとかき口説く。
茫然自失の治兵衛が、これを受けて、この金は、養子に来た時の持参金で他所に預けていたものだと言ったので、一件落着で、皆が納得し、八右衛門は金を受け取って帰り、梅川も喜びはしゃぐ。
しかし、二人になった時、治兵衛は、梅川に向かって、わっと泣き伏す。
悲劇の幕明けである。
私は、近松オリジナルの文楽バージョンの方が好きで、前述の梅川の口説きのシーンなど、感激しきりである。
大坂女の健気さ強さ逞しさと言うこともあるが、梅川は最下級の遊女ということだが、実に情の深い生き様が清々しく、この文楽版の方が、はるかに、梅川の魅力を浮き彫りにしているように思うのである。
歌舞伎の方は、治右衛門が、八右衛門に身請けが決まったと言ったのに対して、治兵衛と添いたいので待って欲しいと懇願するところなど中々良いのだが、文楽の梅川の口説きのシーンの方が、梅川の生き様をすべて表出していて素晴らしく、前に観た簑助の梅川が忘れられない。
ところで、歌舞伎の舞台の冒頭で治兵衛が訪ねて来て、おゑんが、奥座敷に導いて梅川と会わせて語らせるしっぽりとしたシーンが、中々、絵になって面白く、三人の醸し出す雰囲気が上方歌舞伎の色合いを色濃く滲ませていて、この歌舞伎の創作は中々良い。
また、八右衛門が、切った封印の切れ端を、手拭いを落としたふりをして、ほくそ笑んで、持ち逃げる蛇足とも言うべきシーンは、歌舞伎ならではのサービスであろうか。
余談だが、何故、治兵衛が封印を切ったのか、近松の原作では、
”随分堪へてみつれども、友女郎の真中で、かはいい男が恥辱を取り、そなたの心の無念さを、晴らしたいとおもうより、ふっと銀に手をかけて、もう引かれぬは男の役、・・・”と言っており、縋り付いて泣いたので、梅川が、はあと震ひ出し、声も涙にかきくれてわなわな震えながら、何が命が惜しいものか、二人して死にましょう覚悟を決めてくださいと言う。
どこまでも、治兵衛は優柔不断で好い加減、梅川は健気で芯の強い女なのであろう。
藤十郎の治兵衛は、一寸イメージが違うが、平静を装うと必死に堪えながら、翫雀の軽妙な追い打ちに煽られて、徐々にテンションが上り詰めて行く心の軌跡の微妙な表現が実に上手い。
一直線に煽る翫雀に、メリハリをつけながら芝居にリズムを刻んでいて、流石に、人間国宝である。
とにかく、80歳を超えた大長老と思えない若さ華やかさ、あの瑞々しい芸はどこから生まれてくるのか、もっともっと、近松を演じて芸の神髄を継承して欲しい。
扇雀の梅川は、先月の山科閑居の父子共演の素晴らしい舞台の再現とも言うべきか、耐える薄幸のヒロインを、しみじみとした余韻を残しながら演じていて、感動的である。
我當と秀太郎は、登場するだけで、雰囲気十分であり、舞台が一気に充実して、上方歌舞伎では、なくてはならない存在と言うべきで、私など、和事の舞台では、是非観たいと思って、何時も楽しみにしている。
もう殆どの歌舞伎役者が東京に本拠を移してしまったので、こてこての上方訛りで、正統派(?)の上方版の近松門左衛門の芝居が演じられるのは、今後期待薄で、文楽だけになってしまうであろう。(尤も、これも時間の問題ではあるが。)
5年前に、京都南座で行われた藤十郎の「封印切」(残念ながら、NHKの放映しか見られなかった)にいたく感激して、レビューを書いたのだが、今回も、最も得意芸の演じ納めということであろうか、藤十郎が、一世一代の公演と言う意気ごみであるから、期待して余りある舞台であった。
南座の舞台では、忠兵衛は藤十郎だが、梅川は秀太郎、井筒屋おゑんは玉三郎、丹波屋八右衛門は仁左衛門であったが、今回は、秀太郎がおゑんにまわり、梅川は扇雀、八右衛門は翫雀で、槌屋治右衛門が我當と言うオール上方役者による封印切であった。
この封印切で重要な役割を演じるのは、治兵衛を封印切りに追い込んで行く八右衛門で、南座の仁左衛門の胸のすく様なハイテンポの畳み掛けるような、藤十郎の治兵衛との丁々発止の対話が面白かったが、今回の翫雀の八右衛門の嫌がらせの限りを尽くしたねちねちした語り口も、正に、関西やなあと思えて興味深かった。
この歌舞伎の封印切を見ていて、いつも思うのは、近松門左衛門の浄瑠璃本と、そして、それを忠実に舞台化している文楽と、八右衛門の扱い方が、大きく違っていて、このキャラクターの差が、芝居の印象をかなり変えてしまっていることである。
まず、原作では、四代目竹本越路大夫が、八右衛門について語った「実際に友人思いの、人情のある男で、忠兵衛よりも一回り大きな人物。悪人ではない」と言うように、この「封印切」の舞台でも、忠兵衛のことを思って、遊郭や梅川から忠兵衛を遠ざけようとして井筒屋にやって来て忠兵衛のことを、50両の返金の代わりに焼き物の鬢水入れをよこした話を暴露したり悪く言ったのだが、それを立ち聞きして、頭にきた忠兵衛が、八右衛門に挑みかかって、金を返すために封印を切ってしまう、と言うことになっている。
そして、梅川の身請けを争うのは、八右衛門ではなく、田舎の大人である。
ところが、歌舞伎では、冒頭で、治右衛門が、井筒屋に来て、八右衛門に身請けが決まったと述べ、その後、、八右衛門が、身請けの金を持ってきてケリを付けようとして、金を持っていることを良いことに悪口雑言の限りを尽くして治兵衛の悪口を言う。悪人扱いに変わってしまっているのである。
このようなストーリー展開になると、非常に、黒白がはっきりとして来て、おゑんが嫌って徹底的に罵倒するように、八右衛門が悪玉になれば成るほど、治兵衛の悲劇が浮き彫りとなり、封印切りへと一直線に上り詰めることとなる。
八右衛門としては、元々、人の金しか持ち合わせのない飛脚問屋の治兵衛を苛め抜けばよいのであるから、大阪弁で、どんどん、テンションを上げて鉄砲玉のように悪口雑言をはいて追い詰めて行くと言うこととなり、このあたりの語り口は、やはり、関西オリジンの仁左衛門は非常に上手いし、翫雀などは、大師匠である親父の藤十郎を相手に思う存分捲し立てて本領発揮、気持ち良いくらいである。
もう一つ興味深い差は、封印を切るタイミングである。
歌舞伎の場合には、治兵衛は、親からもらった300両を持っていると言って懐に手を入れたので、八右衛門が、300両持っているのなら見せてくれ、音を聞かせてくれと追い詰めたので、火鉢の縁を叩いたり手荒く扱った拍子に封印が切れてしまう。
ところが、文楽の方では、激昂した治兵衛が、懐に手を突っ込んで金を引き出そうとした時に、八右衛門が、その金は、公金であることを知っているので制止して、逆上せずに届けろと意を尽くして叱るのだが、女郎衆の前で言われ男が立たぬと封を切って叩きつける。
それを見た梅川が涙を流して階段を駆け下りて来て、八右衛門の方が道理、私のため故忝いが、あなた一人なら身を売ってでも養って見せるのに、人の金に手を付けるなど情けないとかき口説く。
茫然自失の治兵衛が、これを受けて、この金は、養子に来た時の持参金で他所に預けていたものだと言ったので、一件落着で、皆が納得し、八右衛門は金を受け取って帰り、梅川も喜びはしゃぐ。
しかし、二人になった時、治兵衛は、梅川に向かって、わっと泣き伏す。
悲劇の幕明けである。
私は、近松オリジナルの文楽バージョンの方が好きで、前述の梅川の口説きのシーンなど、感激しきりである。
大坂女の健気さ強さ逞しさと言うこともあるが、梅川は最下級の遊女ということだが、実に情の深い生き様が清々しく、この文楽版の方が、はるかに、梅川の魅力を浮き彫りにしているように思うのである。
歌舞伎の方は、治右衛門が、八右衛門に身請けが決まったと言ったのに対して、治兵衛と添いたいので待って欲しいと懇願するところなど中々良いのだが、文楽の梅川の口説きのシーンの方が、梅川の生き様をすべて表出していて素晴らしく、前に観た簑助の梅川が忘れられない。
ところで、歌舞伎の舞台の冒頭で治兵衛が訪ねて来て、おゑんが、奥座敷に導いて梅川と会わせて語らせるしっぽりとしたシーンが、中々、絵になって面白く、三人の醸し出す雰囲気が上方歌舞伎の色合いを色濃く滲ませていて、この歌舞伎の創作は中々良い。
また、八右衛門が、切った封印の切れ端を、手拭いを落としたふりをして、ほくそ笑んで、持ち逃げる蛇足とも言うべきシーンは、歌舞伎ならではのサービスであろうか。
余談だが、何故、治兵衛が封印を切ったのか、近松の原作では、
”随分堪へてみつれども、友女郎の真中で、かはいい男が恥辱を取り、そなたの心の無念さを、晴らしたいとおもうより、ふっと銀に手をかけて、もう引かれぬは男の役、・・・”と言っており、縋り付いて泣いたので、梅川が、はあと震ひ出し、声も涙にかきくれてわなわな震えながら、何が命が惜しいものか、二人して死にましょう覚悟を決めてくださいと言う。
どこまでも、治兵衛は優柔不断で好い加減、梅川は健気で芯の強い女なのであろう。
藤十郎の治兵衛は、一寸イメージが違うが、平静を装うと必死に堪えながら、翫雀の軽妙な追い打ちに煽られて、徐々にテンションが上り詰めて行く心の軌跡の微妙な表現が実に上手い。
一直線に煽る翫雀に、メリハリをつけながら芝居にリズムを刻んでいて、流石に、人間国宝である。
とにかく、80歳を超えた大長老と思えない若さ華やかさ、あの瑞々しい芸はどこから生まれてくるのか、もっともっと、近松を演じて芸の神髄を継承して欲しい。
扇雀の梅川は、先月の山科閑居の父子共演の素晴らしい舞台の再現とも言うべきか、耐える薄幸のヒロインを、しみじみとした余韻を残しながら演じていて、感動的である。
我當と秀太郎は、登場するだけで、雰囲気十分であり、舞台が一気に充実して、上方歌舞伎では、なくてはならない存在と言うべきで、私など、和事の舞台では、是非観たいと思って、何時も楽しみにしている。