若いつもりでいても、ふと、何かの時に、若い時とは違うと言う気持ちが、脳裏を横切ることがある。
大概は、体の変調である。
老いの兆候の現れは、歯目足と言うのだが、先日、意識したのは足の衰えである。
急に、足がひきつった感じがして、その後、暫くの間、足が萎えたような感じで、歩くのが苦しくて億劫になってきた。
丁度、散歩だけでは、健康を保つにも問題があると思って、趣味と実益を兼ねて、電動自転車を買って、カメラを携えて、あっちこっち、少し足を伸ばそうと思っていた矢先である。
近くの自転車店に行って、試乗を試みたのだが、昔のように、足が敏捷に動かなくて、不安になってしまった。
結局、良く分からないうちに、多少、フットワークが悪くなったかなあと思う程度で、元に戻ったが、足の衰えは、避けがたいような気がした。
階段なども、上げた筈の足が十分でなくてつんのめることがあるのも、その所為かも知れない。
もう一つは、歯の方で、長い間、虫歯とは殆ど縁がなかったのだが、先日、何時の間にか奥歯に穴が空いているのに気付いて愕然とした。
32本あった歯の4番目の補修で、上に義歯を被せるようで、歯科に通っている。
目の方は、ブルーベリー愛用のお蔭か、問題なく、読書には、今のところ一切不自由はない。
問題と言えば、何かの拍子に、近くを見るためにメガネを外した時に、メガネがなくてもそれ程不自由がないので、置き忘れて、何処に置いたか探すのに苦労することがあるくらいである。
いずれにしろ、同年の友人たちと話している限りにおいては、それ程、歯と目については、遜色ないようなので、安心している。
先日、CT検査を実施して、全く問題なかったので、当分は、健康上大丈夫なようで、これも、ほっとしている。
不思議にも、歳を取ると、指の指紋が薄くなって消えて行くのに気付いた。
昔、簡単にできていた、紙縒りを織り辛くなって感づいたのだが、同時に、握力が弱くなってきたのか、持ったはずのものを落としたりすることが多くなった。
ところで、意識の方は、これとは逆に、何故か、若い時には、無我夢中で生きていた感じなので、じっくりと人生を噛みしめながら生活する余裕がなかった所為か、老年に達してからの方が、冴えているような気がしている。
向上意欲も、知りたい勉強したい美しいものに接したいと言う気持ちは、はるかに、高揚している感じで、寸暇を惜しんで、新しいものに接しようと挑戦を続けている。
恐らく、人を想う気持ちも、衰えることはないであろうし、どんどん、湧き上がってくる生きがいを完遂したいと言う気持ちが高揚すればするほど、残された時間が、惜しくて惜しくて仕方がなくなる。
尤も、いくら向上意欲があっても、世間から引退して関わりを持たなくなってしまった今では、所詮、自己満足であって、何にも役に立たない。
それでも、そのような生き方をして生きたい、絶えず、向上し続けようと思って生きている、そんな自分でいたいと言う気持ちである。
何故だか良く分からないのだが、歳を取る、人生において年輪を重ねる、と言うことは、それ程、悪いものではないと言う気持ちになっている。
無機の原子や分子などが集まって自分と言う人間が生まれ出でて、自分と言う意識を持って生きていると言う、奇跡中の奇跡。
「我思う、ゆえに我あり」と言うような難しいことではなく、自分と言う意識を持った人間が生まれ出でて、現に、生きていると言うことが不思議で不思議で仕方なく、その自分が、何時か死んでしまって、この世から消えてしまう。
この奇跡中の奇跡で生を受けた自分を、大切に生きたいと言う気持ちが、益々、強くなってくる、歳を取ることも悪いことではないのである。
大概は、体の変調である。
老いの兆候の現れは、歯目足と言うのだが、先日、意識したのは足の衰えである。
急に、足がひきつった感じがして、その後、暫くの間、足が萎えたような感じで、歩くのが苦しくて億劫になってきた。
丁度、散歩だけでは、健康を保つにも問題があると思って、趣味と実益を兼ねて、電動自転車を買って、カメラを携えて、あっちこっち、少し足を伸ばそうと思っていた矢先である。
近くの自転車店に行って、試乗を試みたのだが、昔のように、足が敏捷に動かなくて、不安になってしまった。
結局、良く分からないうちに、多少、フットワークが悪くなったかなあと思う程度で、元に戻ったが、足の衰えは、避けがたいような気がした。
階段なども、上げた筈の足が十分でなくてつんのめることがあるのも、その所為かも知れない。
もう一つは、歯の方で、長い間、虫歯とは殆ど縁がなかったのだが、先日、何時の間にか奥歯に穴が空いているのに気付いて愕然とした。
32本あった歯の4番目の補修で、上に義歯を被せるようで、歯科に通っている。
目の方は、ブルーベリー愛用のお蔭か、問題なく、読書には、今のところ一切不自由はない。
問題と言えば、何かの拍子に、近くを見るためにメガネを外した時に、メガネがなくてもそれ程不自由がないので、置き忘れて、何処に置いたか探すのに苦労することがあるくらいである。
いずれにしろ、同年の友人たちと話している限りにおいては、それ程、歯と目については、遜色ないようなので、安心している。
先日、CT検査を実施して、全く問題なかったので、当分は、健康上大丈夫なようで、これも、ほっとしている。
不思議にも、歳を取ると、指の指紋が薄くなって消えて行くのに気付いた。
昔、簡単にできていた、紙縒りを織り辛くなって感づいたのだが、同時に、握力が弱くなってきたのか、持ったはずのものを落としたりすることが多くなった。
ところで、意識の方は、これとは逆に、何故か、若い時には、無我夢中で生きていた感じなので、じっくりと人生を噛みしめながら生活する余裕がなかった所為か、老年に達してからの方が、冴えているような気がしている。
向上意欲も、知りたい勉強したい美しいものに接したいと言う気持ちは、はるかに、高揚している感じで、寸暇を惜しんで、新しいものに接しようと挑戦を続けている。
恐らく、人を想う気持ちも、衰えることはないであろうし、どんどん、湧き上がってくる生きがいを完遂したいと言う気持ちが高揚すればするほど、残された時間が、惜しくて惜しくて仕方がなくなる。
尤も、いくら向上意欲があっても、世間から引退して関わりを持たなくなってしまった今では、所詮、自己満足であって、何にも役に立たない。
それでも、そのような生き方をして生きたい、絶えず、向上し続けようと思って生きている、そんな自分でいたいと言う気持ちである。
何故だか良く分からないのだが、歳を取る、人生において年輪を重ねる、と言うことは、それ程、悪いものではないと言う気持ちになっている。
無機の原子や分子などが集まって自分と言う人間が生まれ出でて、自分と言う意識を持って生きていると言う、奇跡中の奇跡。
「我思う、ゆえに我あり」と言うような難しいことではなく、自分と言う意識を持った人間が生まれ出でて、現に、生きていると言うことが不思議で不思議で仕方なく、その自分が、何時か死んでしまって、この世から消えてしまう。
この奇跡中の奇跡で生を受けた自分を、大切に生きたいと言う気持ちが、益々、強くなってくる、歳を取ることも悪いことではないのである。