千葉から鎌倉に移転して来たので、新しい住環境がどういうものか、雰囲気などを知りたくて、町内会の総会に出てみた。
私自身、前に、町内会の副会長を務めたことがあるので、多少、興味を持って、色々な話を辛抱して聞いていたのだが、何処も同じだと言う印象が強かった。
出席者は、住人の10%以下なのだが、出ている人の大半は、新旧やそれ以前の役員経験者や、とにかく、このような会合が好きな世話好きな人であったり、一言言いたいと言った御仁であって、義理で出てくるような人もいないので、結構、議論が弾む。
これまでの経緯や町内会の歴史を知らないので、あまりよく分からない話もあったが、面白かったのは、住居表示を実施するかどうかで、今頃論争していることである。
30数年前に開発された住宅地でありながら、住居表示を実施せずに来たので、○○丁目と言う表示ではなく、旧町名の地番がそのまま街区の住所になっていて、不都合だと言うことで、もう少し気の利いた町名に代えたいと言う思惑もあるのであろう。
以前に、住民のアンケートを取ったら、賛成が過半数に達せず、鎌倉市も熱心でなかったので、頓挫したと言うのである。
老齢化の影響もあるのだろうが、特に不都合を感じている訳ではないし、今更、住居表示が変われば、連絡や諸手続等面倒で煩わしいと言う思いがあって、無関心な人が多いのであろうが、若くて元気な新役員が、実施に頑張ると息巻いていた。
ウイキペディアによると、日本の住居表示は1962年5月10日に施行された住居表示に関する法律に基づいており、町をわかりやすくしたり、郵便物を配達しやすくすることを目的にした制度である。と言うことであるが、これは、日本の住所表示が、面で表示する街区方式を取っているためで、欧米やかっての中国のような道路方式だと、こういう問題は起こらない。
道路方式だと、典型的な場合には、まず、道路名があって、シティ・ホールに近いところから、道路の一方は基数、反対側は偶数で、順番に番号が打たれて、交差点で道を跨ぐと、次から101番台から数字を打つと言った調子で、道路名さえ分かれば、住所はすぐに分かる。
ところが、日本では、どうも、住居や建物が建ったところから番地を打って来たようで、一番地の横に十三番地があったりすると言う、面での住居表示の弊害が出て来て、全く、分かり難い。
今では、グーグルアースのお蔭もあり、番地を打てば住所が分かるが、私の学生の頃には、家を探すのが大変であった。
ところで、日本の新しい住居表示が良いのかどうかだが、前の千葉の住所は新しい住居表示で、○○丁目○○番地○○号であったが、40番地もあって、道を聞かれても、どこが何番地か分からなくて困ったことがあった。
欧米流の道路方式のように、1、100、200、と言った調子で、シティ・ホールから連番で住居表示がなされておれば良く分かるのだが、面で、40番地も左右に分散されれば、13番地がどこにあるのか分かるわけがないのである。
それに、日本には、大都会はともかく、地方や田舎には、路上に住居地図がないので、住所探しが大変である。
もう、何十年も前になるのだが、サウジ・アラビアに行った時に驚いたのだが、どうも、道路名などなかったようで、日本のように面で住所を考えていたのではないかと思った。
いずれにしろ、住所がないので、郵便はすべて私書箱で、実際には、何処に所在するのか分からないのである。
乗らなかったのだが、タクシーに乗ると、目ぼしい建物やモニュメントを目当てに道を示すのだと友人は言っていたが、遊牧民のベドウィン民族には、移動が当然であったから、住所などと言う認識は希薄なのであろうと、かってに考えていたのだが、文化の違いは面白い。
今では、日本でも、殆どの道に名前が付けられているのだが、道の文化の欧米やスケールの大きな都市計画で条里制をひいた中国と違って、自分たちの領域だけに道をひいて住居や城を構えながら面で領域を広げて行った日本の文化の特異性と言うのは、大変興味深いと思っている。
非常に錯綜していて合理的ではなくてコントロールが難しいのだが、このあたりの発想の違いが、日本の製造業の擦り合わせの文化を生み、非常に芸術性の高い匠の技を生み出して来たのではないかと、思ったりしている。
私自身は、日本の場合には、いくら、住居表示を実施しても、一列に番号を打てるならいざ知らず、右へ曲がったり時計回りに回ったりして番号を打つ限り、多少は分かり易くなったとしても、やはり、道路方式には叶わないと思っている。
私自身、前に、町内会の副会長を務めたことがあるので、多少、興味を持って、色々な話を辛抱して聞いていたのだが、何処も同じだと言う印象が強かった。
出席者は、住人の10%以下なのだが、出ている人の大半は、新旧やそれ以前の役員経験者や、とにかく、このような会合が好きな世話好きな人であったり、一言言いたいと言った御仁であって、義理で出てくるような人もいないので、結構、議論が弾む。
これまでの経緯や町内会の歴史を知らないので、あまりよく分からない話もあったが、面白かったのは、住居表示を実施するかどうかで、今頃論争していることである。
30数年前に開発された住宅地でありながら、住居表示を実施せずに来たので、○○丁目と言う表示ではなく、旧町名の地番がそのまま街区の住所になっていて、不都合だと言うことで、もう少し気の利いた町名に代えたいと言う思惑もあるのであろう。
以前に、住民のアンケートを取ったら、賛成が過半数に達せず、鎌倉市も熱心でなかったので、頓挫したと言うのである。
老齢化の影響もあるのだろうが、特に不都合を感じている訳ではないし、今更、住居表示が変われば、連絡や諸手続等面倒で煩わしいと言う思いがあって、無関心な人が多いのであろうが、若くて元気な新役員が、実施に頑張ると息巻いていた。
ウイキペディアによると、日本の住居表示は1962年5月10日に施行された住居表示に関する法律に基づいており、町をわかりやすくしたり、郵便物を配達しやすくすることを目的にした制度である。と言うことであるが、これは、日本の住所表示が、面で表示する街区方式を取っているためで、欧米やかっての中国のような道路方式だと、こういう問題は起こらない。
道路方式だと、典型的な場合には、まず、道路名があって、シティ・ホールに近いところから、道路の一方は基数、反対側は偶数で、順番に番号が打たれて、交差点で道を跨ぐと、次から101番台から数字を打つと言った調子で、道路名さえ分かれば、住所はすぐに分かる。
ところが、日本では、どうも、住居や建物が建ったところから番地を打って来たようで、一番地の横に十三番地があったりすると言う、面での住居表示の弊害が出て来て、全く、分かり難い。
今では、グーグルアースのお蔭もあり、番地を打てば住所が分かるが、私の学生の頃には、家を探すのが大変であった。
ところで、日本の新しい住居表示が良いのかどうかだが、前の千葉の住所は新しい住居表示で、○○丁目○○番地○○号であったが、40番地もあって、道を聞かれても、どこが何番地か分からなくて困ったことがあった。
欧米流の道路方式のように、1、100、200、と言った調子で、シティ・ホールから連番で住居表示がなされておれば良く分かるのだが、面で、40番地も左右に分散されれば、13番地がどこにあるのか分かるわけがないのである。
それに、日本には、大都会はともかく、地方や田舎には、路上に住居地図がないので、住所探しが大変である。
もう、何十年も前になるのだが、サウジ・アラビアに行った時に驚いたのだが、どうも、道路名などなかったようで、日本のように面で住所を考えていたのではないかと思った。
いずれにしろ、住所がないので、郵便はすべて私書箱で、実際には、何処に所在するのか分からないのである。
乗らなかったのだが、タクシーに乗ると、目ぼしい建物やモニュメントを目当てに道を示すのだと友人は言っていたが、遊牧民のベドウィン民族には、移動が当然であったから、住所などと言う認識は希薄なのであろうと、かってに考えていたのだが、文化の違いは面白い。
今では、日本でも、殆どの道に名前が付けられているのだが、道の文化の欧米やスケールの大きな都市計画で条里制をひいた中国と違って、自分たちの領域だけに道をひいて住居や城を構えながら面で領域を広げて行った日本の文化の特異性と言うのは、大変興味深いと思っている。
非常に錯綜していて合理的ではなくてコントロールが難しいのだが、このあたりの発想の違いが、日本の製造業の擦り合わせの文化を生み、非常に芸術性の高い匠の技を生み出して来たのではないかと、思ったりしている。
私自身は、日本の場合には、いくら、住居表示を実施しても、一列に番号を打てるならいざ知らず、右へ曲がったり時計回りに回ったりして番号を打つ限り、多少は分かり易くなったとしても、やはり、道路方式には叶わないと思っている。