今月の国立能楽堂の主催公演のテーマは、「能の故郷・近江」で、最初の曲が、能・観世流「白鬚」。劇中劇のような間狂言・大蔵流「道者」が演じられる、2時間20分、休憩なしの凄い舞台であった。
事前に、勉強しようと、岩波講座・能・狂言を見ても、角川の「能を読む」を見ても載っていない。
いくら、沢山、能狂言の本を探しても、無駄で、インターネットで多少知識を得て、結局、能楽堂に行って、プログラムを読んで俄か勉強した。
観世流と金春流のみの現行曲で、上演自体がまれだと言うことだが、実際に、この舞台を観て、非常に感激した。
この能の舞台は、琵琶湖の西岸の、比良山の麓近くにある白鬚神社である。
近江最古の大社と言うのだが、随分昔、琵琶湖一周ドライブの時に、立ち寄る機会があった筈だが、近江路へはかなり通いながら、訪れたことはない。
琵琶湖に浮かぶ、朱色の湖中鳥居の写真は、良く見ている。
この能は、
お釈迦さまが、仏法を流布するために飛行中に琵琶湖のあたりに目を止めて、滋賀の浦に糸を垂れている老人に、仏法結界の地にしたいので譲って欲しいと言う。
老人は、仏法結界の地になれば釣をするところがなくなると断ったので、お釈迦さまは諦めて帰ろうとしたところに、薬師如来が現れて、自分は太古からこの所の主であり、この老人はそれを知らないのだが、早くここで仏教を開きなさい。五百年仏法を守護しましょう。と誓い合って、二仏は東西に分かれて去った。と言う話が核になっている。
この老人が、白鬚明神となる。
当然、能であるから、前場は、勅使(ワキ/宝生欣哉)の前に、漁夫(前ツレ/観世淳夫)を伴った漁翁(シテ/観世銕之丞)が現れて、白鬚明神の威光を崇め、天下太平の世を賞賛し、前述の明神の縁起を語って消えて行く。
間狂言は、白鬚明神に仕える勧進聖(オモアイ/山本泰太郎)が、社の屋根葺き替えの勧進に船に乗って湖上を行く。道者たちの乗る船に合って、説得するが、道者たちは、勧進の要請に応えない。怒った聖が呪文を唱えると、鮒(アドアイ/東次郎)が出現して怒り狂ったので、驚いた道者たちは、着ていた着物を脱いで勧進すると、喜んだ鮒は、船の綱を咥えて曳いて行く。
後場は、勅使を慰めようと、白鬚明神(シテ/銕之丞)が現れて、夜遊の舞楽を奏する。雲居が輝くと、天灯を持った天女(後ツレ/谷本健吾)が現れ、湖水が鳴動すると、龍灯を持った龍神(後ツレ/長山桂三)が現れて、灯明を神前に供えて舞を舞う。去り行く両神を見送って、白鬚明神は、太平の御代を寿ぐ。
正面に一畳台が置かれて、その上に作り物の社が据えられた。
銕之丞師が、前場の漁翁で登場して、ラストシーンでこの社に消えて行き、間狂言中に、この作り物の中で、着替えて、後場の白鬚明神に代わって現れる。
また、舞台左右に、二艘の舟の作り物が置かれて、間狂言で、聖と道者たちとの舞台となる。
演者の数もかなり多く、間狂言だけでも35分の長丁場であり、コミカルタッチからスペクタクルな面白い芝居が演じられており、狂言が能と互角に渡り合っている凄い舞台である。熱演を続ける聖の泰太郎や船頭(アドアイ)の山本則重たちに華を添えるべく、80歳直前の人間国宝東次郎が、面をつけて舞台に突進して登場し、舞台で跳ね上がって舞台に激しく着地し派手な舞を舞う、この迫力は、流石である。
先代の観世銕之丞の「ようこそ能の世界へ―観世銕之亟 能がたり」を読んでから、銕之丞家に興味を持って、当代の観世銕之亟師の舞台を観続けており、更に、当代の著書「能のちから―生と死を見つめる祈りの芸能」を読んで、一層、ファンとなったのであるから、今回の「白鬚」は、私にとっては、大変な期待の舞台であった。
前回の「石橋」では、激しい息遣いが印象に残っているのだが、今回の後シテ白鬚明神では、長時間の、舞楽を模したと言う「楽」を、茗荷悪尉の面をつけて鳥兜姿で重厚かつ優雅に淡々と舞い続ける姿は、崇高でさえあり、素晴らしかった。
脇正面前列から見上げていたので、この狩衣・反切を着した容貌魁偉な姿を見て、場違いだとは思うのだが、何となく、ケネス・ブラナーのハムレットの舞台の父王の亡霊姿を思い出していた。
天女と龍神が灯明を捧げて登場し、作り物の社で端座する白鬚明神の前で舞うのだが、赤装束の龍神と奇麗な天女が登場するだけでも、一気に舞台が華やぐのだが、白鬚明神の楽と言い、素晴らしく優雅な舞台で、静的な前場と、芝居仕立ての間狂言、そして、この見せて魅せる後場と、起承転結、バリエーションの利いた能狂言の面白さが結晶した舞台で、2時間半近い時間を忘れていた。
私の様な初歩で表層的な鑑賞しかできない鑑賞者は、どうしても、舞台で舞い演じている能楽師の動きばかりに目を奪われてしまうのだが、今回は、囃し方の凄さ素晴らしさや、地謡方の底力にも感激しきりであった。
面は、前シテが笑尉、後シテが茗荷悪尉、天女が万媚、龍神が黒鬚、
私は、学生時代から古社寺を廻り続けて、仏像を熱心に鑑賞し続けて来ているので、文楽の首や、能狂言の面にも、興味を持って見ているのだが、今回の舞台の面は、非常に興味深かった。
欧米の教会や寺院でも、素晴らしい仏像や彫刻などを随分見てきたが、日本の彫刻には独特な味があって、能狂言は、その素晴らしい面をつけて生身の能楽師が命を吹き込んで演じるのであるから、はるかに素晴らしいのである。
さて、お釈迦さまが、老人に断られて、しおしおと退散すると言う話も、何となく、童話めいて面白いし、お釈迦さまの開いた仏法結界が神社と言う神仏混交の大らかな世界。翁のように精進潔斎と言わないまでも、一種神性めいた能狂言の面白さも、このあたりにあるのかも知れない。
とにかく、白鬚は殆ど演じられることのない稀曲だと言うのだが、良い機会を得たと思っている。
事前に、勉強しようと、岩波講座・能・狂言を見ても、角川の「能を読む」を見ても載っていない。
いくら、沢山、能狂言の本を探しても、無駄で、インターネットで多少知識を得て、結局、能楽堂に行って、プログラムを読んで俄か勉強した。
観世流と金春流のみの現行曲で、上演自体がまれだと言うことだが、実際に、この舞台を観て、非常に感激した。
この能の舞台は、琵琶湖の西岸の、比良山の麓近くにある白鬚神社である。
近江最古の大社と言うのだが、随分昔、琵琶湖一周ドライブの時に、立ち寄る機会があった筈だが、近江路へはかなり通いながら、訪れたことはない。
琵琶湖に浮かぶ、朱色の湖中鳥居の写真は、良く見ている。
この能は、
お釈迦さまが、仏法を流布するために飛行中に琵琶湖のあたりに目を止めて、滋賀の浦に糸を垂れている老人に、仏法結界の地にしたいので譲って欲しいと言う。
老人は、仏法結界の地になれば釣をするところがなくなると断ったので、お釈迦さまは諦めて帰ろうとしたところに、薬師如来が現れて、自分は太古からこの所の主であり、この老人はそれを知らないのだが、早くここで仏教を開きなさい。五百年仏法を守護しましょう。と誓い合って、二仏は東西に分かれて去った。と言う話が核になっている。
この老人が、白鬚明神となる。
当然、能であるから、前場は、勅使(ワキ/宝生欣哉)の前に、漁夫(前ツレ/観世淳夫)を伴った漁翁(シテ/観世銕之丞)が現れて、白鬚明神の威光を崇め、天下太平の世を賞賛し、前述の明神の縁起を語って消えて行く。
間狂言は、白鬚明神に仕える勧進聖(オモアイ/山本泰太郎)が、社の屋根葺き替えの勧進に船に乗って湖上を行く。道者たちの乗る船に合って、説得するが、道者たちは、勧進の要請に応えない。怒った聖が呪文を唱えると、鮒(アドアイ/東次郎)が出現して怒り狂ったので、驚いた道者たちは、着ていた着物を脱いで勧進すると、喜んだ鮒は、船の綱を咥えて曳いて行く。
後場は、勅使を慰めようと、白鬚明神(シテ/銕之丞)が現れて、夜遊の舞楽を奏する。雲居が輝くと、天灯を持った天女(後ツレ/谷本健吾)が現れ、湖水が鳴動すると、龍灯を持った龍神(後ツレ/長山桂三)が現れて、灯明を神前に供えて舞を舞う。去り行く両神を見送って、白鬚明神は、太平の御代を寿ぐ。
正面に一畳台が置かれて、その上に作り物の社が据えられた。
銕之丞師が、前場の漁翁で登場して、ラストシーンでこの社に消えて行き、間狂言中に、この作り物の中で、着替えて、後場の白鬚明神に代わって現れる。
また、舞台左右に、二艘の舟の作り物が置かれて、間狂言で、聖と道者たちとの舞台となる。
演者の数もかなり多く、間狂言だけでも35分の長丁場であり、コミカルタッチからスペクタクルな面白い芝居が演じられており、狂言が能と互角に渡り合っている凄い舞台である。熱演を続ける聖の泰太郎や船頭(アドアイ)の山本則重たちに華を添えるべく、80歳直前の人間国宝東次郎が、面をつけて舞台に突進して登場し、舞台で跳ね上がって舞台に激しく着地し派手な舞を舞う、この迫力は、流石である。
先代の観世銕之丞の「ようこそ能の世界へ―観世銕之亟 能がたり」を読んでから、銕之丞家に興味を持って、当代の観世銕之亟師の舞台を観続けており、更に、当代の著書「能のちから―生と死を見つめる祈りの芸能」を読んで、一層、ファンとなったのであるから、今回の「白鬚」は、私にとっては、大変な期待の舞台であった。
前回の「石橋」では、激しい息遣いが印象に残っているのだが、今回の後シテ白鬚明神では、長時間の、舞楽を模したと言う「楽」を、茗荷悪尉の面をつけて鳥兜姿で重厚かつ優雅に淡々と舞い続ける姿は、崇高でさえあり、素晴らしかった。
脇正面前列から見上げていたので、この狩衣・反切を着した容貌魁偉な姿を見て、場違いだとは思うのだが、何となく、ケネス・ブラナーのハムレットの舞台の父王の亡霊姿を思い出していた。
天女と龍神が灯明を捧げて登場し、作り物の社で端座する白鬚明神の前で舞うのだが、赤装束の龍神と奇麗な天女が登場するだけでも、一気に舞台が華やぐのだが、白鬚明神の楽と言い、素晴らしく優雅な舞台で、静的な前場と、芝居仕立ての間狂言、そして、この見せて魅せる後場と、起承転結、バリエーションの利いた能狂言の面白さが結晶した舞台で、2時間半近い時間を忘れていた。
私の様な初歩で表層的な鑑賞しかできない鑑賞者は、どうしても、舞台で舞い演じている能楽師の動きばかりに目を奪われてしまうのだが、今回は、囃し方の凄さ素晴らしさや、地謡方の底力にも感激しきりであった。
面は、前シテが笑尉、後シテが茗荷悪尉、天女が万媚、龍神が黒鬚、
私は、学生時代から古社寺を廻り続けて、仏像を熱心に鑑賞し続けて来ているので、文楽の首や、能狂言の面にも、興味を持って見ているのだが、今回の舞台の面は、非常に興味深かった。
欧米の教会や寺院でも、素晴らしい仏像や彫刻などを随分見てきたが、日本の彫刻には独特な味があって、能狂言は、その素晴らしい面をつけて生身の能楽師が命を吹き込んで演じるのであるから、はるかに素晴らしいのである。
さて、お釈迦さまが、老人に断られて、しおしおと退散すると言う話も、何となく、童話めいて面白いし、お釈迦さまの開いた仏法結界が神社と言う神仏混交の大らかな世界。翁のように精進潔斎と言わないまでも、一種神性めいた能狂言の面白さも、このあたりにあるのかも知れない。
とにかく、白鬚は殆ど演じられることのない稀曲だと言うのだが、良い機会を得たと思っている。
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