熟年の文化徒然雑記帳

徒然なるままに、クラシックや歌舞伎・文楽鑑賞、海外生活と旅、読書、生活随想、経済、経営、政治等々万の随想を書こうと思う。

ロバート・D・カプラン著「地政学の逆襲」(2)「スラム化した都市化」

2016年07月11日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   先に、ヒズボラなどの準国家の集団が、国家内部で紛争を起こして、國際危機の元凶となり、世界の治安維持に大変な問題を引き起こしていることについて考えてみた。

   何故、原理主義的なイスラムの過激集団など、中近東を起点にした準国家の集団が勢いを増し、テロリストたちを世界中に拡散し続けるのか。

   まず、アジアの現状認識が大切である。
   人口が増え、ミサイルの射程距離が伸びている所為で、アジアは益々「閉所恐怖症」が強くなっている。
   ICTや軍事技術など科学技術の発展によって、アジアがその工業力に見合った軍事力を身につけるにつれて、アジア大陸は、まさに、縮小するチェス盤になり、有事あれば一触即発、ミスや誤算の余地がなくなりつつある。
   加えて、コンピュータウイルスや核・細菌爆弾などの「破壊的技術」が、現状を混乱・一変させ、現在の優位を屈返し、新しいスキルを養い、新たな戦略を生み出し、不確実性が増すので、既存の秩序は揺らぎ、危機に陥る。
   ミサイルと大量破壊兵器がアジアに拡散し、「貧者の核兵器」やその他の破壊的技術が勢力を得て、核兵器保有国を含む貧困国が犇めく狭い空間は、正に、アメリカの西部開拓時代を彷彿とさせて、世界の勢力バランスを一変させようとしている。と言うのである。

   さて、もっと深刻な問題は、21世紀は、メガシティが地理の中心となると言う現実。
   各国政府は、ミサイルや近代的で外向き志向の軍隊によって力を高める一方、貧しい生活環境や物価の周期的な高騰、水不足、住民の声に応えられない公共サービスなどに悩まされる人口過密のメガシティは、民主主義と過激主義との温床になる。
   将来の都市部の人口増の大半は発展途上国、特にアジアとアフリカに集中し、現代は、世界人口の多くの割合がスラム環境で暮らす時代である。と言うのである。

   アラブ人の多くは、無秩序に広がった人口過密な荒廃した都市の人混みの中に暮らしていて、見知らぬ他者に揉まれて暮らす都市生活の人間味のなさから、激しい宗教的感情が生まれ出る。
   イスラム過激派は、過去半世紀にわたって北アフリカと中近東圏全体で進行中の都市化の物語の一部であり、2011年にアラブの諸政権を転覆させた急進的な民主化要求デモも、都市化に一因があった。と言う。

   過密都市が犇めき、各国のミサイルの射程距離が重なりあい、グローバルなメディアに煽られたこれらイスラム圏では、噂や半端な真実が衛星チャメルを介して高速で飛び交い、群衆を激高させ、その群衆が、
   ツイッターやフェイスブックなどのソーシャルメディアを通して力を手に入れ、権威に挑戦して破壊活動に突進する。
   カギを握るのは、群衆で、群衆、あるいは、暴徒の中にさえいれば、危険と孤独を免れる。民族主義、過激主義、民主主義への切望は、すべて、群衆が生まれる過程の副産物であり、孤独から逃れたいと言う気持ちの表れである。見知らぬ人々の寄り集まりで人間関係の希薄な新興都市、特に、そのスラムでは、貧苦に喘ぎながら夢も希望も失った個人の激しい渇望が吹き荒れる。

   広大で貧しい過密都市を統治する重圧で、国家運営がかってないほど厄介となり、硬直化した独裁政権が崩壊し、新しい民主主義が生まれても脆弱で定着しない、
   その隙をついて、前述した、「国家は重荷であるので、統治する責任を負わずに権力だけを求める無国籍の権力」「準国家の集団」が、暗躍して国家を操作し、更に、最先端のICT技術を駆使して洗脳したテロ要員を、世界中に派遣して騒乱を起こす。

   ここで、重要なのは、アラン・B・クルーガーの「テロの経済学」で、ブックレビューしたように、「テロリストは貧しく教育なしはウソ」で、
   ”政治的暴力やテロリズムに対する支持が、教育水準が高く世帯収入も高い人々の間で多くなっている。
   テロリストは、出身母体の人口全体に比べ、教育水準が高く富裕階層で、貧困家庭の出身である傾向はない。”と言う現実を忘れてはならない。

   先のバングラでのテロ事件で、犯人が高学歴の富裕層だったと言うのが話題になったが、革命分子を、ICT革命を駆使して、瞬時に地球を駆け巡るソーシャルネットワークや衛星通信ネットワークを通して洗脳して訓練育成するのであるから、当然なのであろう。
   これに加えて、エスタブリッシュメントの構築した政治経済社会システムが、格差の異常な拡大など民主主義を根底から崩し始めている現実に激高して、目覚めた(?)若者たちが、秩序を破壊してリセットしようとしているのだと言う。

   イスラム原理主義の脅威や サミュエル・P. ハンチントン「文明の衝突」など宗教や文化の対立が問題となることが多いのだが、私は、むしろ、欧米エスタブリッシュメントが構築した現状のグローバル秩序に対する反発であって、民主主義なり資本主義なり、或いは、自由主義なり、制度疲労して危機的な状態に陥った制度に対するアンチテーゼの胎動だと言う気がしている。
   ムーアの法則で、幾何級数的に進化発展するICT革命や科学技術の進歩が、止められない以上、メガシティへの都市化、マルサスの予言が頭を擡げ始めたスラム化の進行は、どうしようもないのかも知れないが、営々と築き上げてきた人類の英知が、文化文明を守ってくれることを祈るのみである。

   それでは、このような世界の潮流を如何に、制御して乗り切るのか。

   イスラム世界でも、昔の農村は、拡大家族のしきたりや習慣の自然な延長線上に、宗教があって、家族を繋ぎ留め、若者たちが犯罪に手を染めないようにするために、公序良俗を維持し続けていた。
   しかし、イスラム教徒たちは、都市に移住するうちに、スラムの匿名性の中に投げ込まれ、過激な民族主義と厳格でイデオロギー性の強い宗教の蔓延の中で、孤独と疎外感の中で生きなければならなくなった。と言うのである。

   話は、一気に飛ぶのだが、私は、大学に入った時に、丁度、日本経済が絶頂期にあり、経済学部で勉強するテーマを、経済成長と景気循環に決めて、ずっと、このテーマを追い続けて勉強してきた。
   しかし、今になって、果たして、人類、と言うよりも、我々庶民にとって、経済成長による文化文明の発展が、良いことなのかどうか、考え始めるようになっている。
   もっともっと、人間を大切にして、生きる喜びをかみしめながら日々を送る生活を求めて、政治経済社会を作り直す必要があるのではないかと思い始めたのである。
   昔はよかったと言う気持ちはないが、この五月に訪れて津和野への車窓から見た田園風景の美しさを思い出して、これこそが、本物ではないかと思っている。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする