今月の歌舞伎座の舞台は、猿之助と海老蔵、市川家の舞台である。
既に代替わりして大分経つこともあって、堂々たる舞台を見せて観客を楽しませている。
まず、今回観たのは、夜の部で、『荒川の佐吉』、それに、壽三升景清の歌舞伎十八番の内『鎌髭』と『景清』。
しみじみと感動させてくれる真山青果の新歌舞伎「荒川の佐吉」は、猿之助の佐吉の絶品の舞台で、二年前に新橋演舞場で通しで演じられた壽三升景清の二つの演目は、正に、成田屋の一八番で、海老蔵が團十郎ゆかりの素晴らしい舞台を見せてくれた。
「荒川の佐吉」は、正真正銘の芝居そのもので、蜷川シェイクスピア戯曲でも素晴らしいキャラクターを演じてきた猿之助の新境地を見たような思いの、感動的な舞台であった。
「江戸絵両国八景」と言うタイトルがついている 真山青果の「荒川の佐吉」だが、その美しい詩情豊かなイメージを感じさせてくれるのは、幕切れの夜明け前の桜が満開の薄暗い向島の土堤の茶屋のある風景で、目が見えない姉の乳飲み子を見捨てて出奔してしまったお八重(米吉)との、しみじみとした再会シーンである。
今回は、猿之助と米吉だったが、その前は、染五郎と梅枝、そして、仁左衛門と孝太郎の万感胸に迫る美しいシーンであった。
「侠客の世界をのし上がった男の潔い生き様を描いた真山青果の名作」と言うことで、この後、佐吉は、自分を認めて後見役を務めようとした相模屋政五郎(中車)が、惜しいなあと言って止めるのを振り切って、鍾馗(猿弥)の二代目継承を棒に振って旅立って行く。
いくら苦労して、泣きの涙で手塩にかけて育てたにしても、大店の跡取りとなった盲目の卯之吉にとって、育ての親が万年三下奴の自分であることが邪魔になると慙愧の思いで去って行く佐吉の姿は、あの第三の男やペペルモコのような名画のラストシーンのような懐かしさと愛しさが滲み出ていて感動的である。
真山青果は、この「荒川の佐吉」を、十五代目羽左衛門に「最初はみすぼらしくて哀れで、最後に桜の花の咲くような男の芝居がしたい」言われて書いたと言う。
十五代目羽左衛門は、当時最高の美男子役者として有名だっと言うから、私は、二度、素晴らしい仁左衛門の佐吉を観ているのだが、これが、現在の決定版なのであろう。
Youtubeで、”片岡仁左衛門・千之助 「荒川の佐吉」ダイジェスト”と言う感動的な映像が見られるが、 8分一寸のトップシーンの寄せ集めだが、雰囲気は痛いほど分かる。
さて、今回の猿之助の佐吉だが、頼りなくてだらしのない、しかし、どこか男気のあるチンピラ三下奴が、連れ去られようとして必死にしがみ付く盲目の卯之吉を守ろうと、切羽詰まって相手の一人を手斧で切り倒して、「人間、捨て身になれば恐いものなんかない」と開眼する佐吉の男の軌跡を、青虫が華麗なアゲハチョウに脱皮するように、実に丹念に丁寧に演じ切っていて爽快である。
大詰めの「両国橋付近、佐吉の家」での、政五郎が丸惣の女将となったお新(笑也)をともなってやってきて、卯之助をお新に返してやってくれと佐吉を説得シーンは、この歌舞伎の最大の山場であろう。腹を空かせて泣く赤子を貰い乳に夜道を彷徨う虚しさ悲しさ、破れた着物を縫えずに紙縒りで結ぶ辛さ、主を失ったしがない三下奴の盲目の子育ての血の滲むような苦しさを断腸の悲痛で語るも、卯之吉の安泰な将来を説得されて、手放す決心をする。
恐らく等身大の演技で、誠心誠意努めたのであろうが、これが実に素晴らしくて、本来の天性の素質もあろうが、抜群の発声術を駆使した語り口で、芝居に引きずり込み、本心の吐露であるから、私など比較的鈍感な聴衆でも、感動感動であった。
実に、上手い。
この舞台では、中車、猿弥、笑也、門之助と言った劇団ゆかりの役者が重要な脇役を占めていたが、座頭役者の貫禄十二分である。
海老蔵は、佐吉の親分仁兵衛を切って縄張りを奪って佐吉に殺される成川郷右衛門を演じており、颯爽とした格好の良い侍ぶりで絵になっていて、華を添えている。
中車の親分ぶりも、中々堂に入っていて良く、観客の拍手から言っても、今や、大歌舞伎俳優の貫禄である。
笑也は、この舞台では、謝って泣いてばかりいる役だが、華があり、また、猿弥の貫禄と凄みは抜群。
米吉の女形は、一番可愛くて綺麗だと思っているのだが、ここ数年大変な進境で、今回は、かなり重要なお八重を演じており、情緒も豊かになった。
上手いと思ったのは、佐吉の唯一の友・相棒とも言うべき大工辰五郎の巳之助で、三津五郎の雰囲気が出てきた感じで、末が楽しみである。
海老蔵が紡ぎ出した壽三升景清の通し狂言は、2年前の正月、新橋演舞場で見ている。
最もポピュラーな『景清』のほかに『関羽』『解脱』『鎌髭』を連ねた4部構成で、今回は、その内、『鎌髭』と『景清』が演じられた。
景清は、「悪七兵衛」と呼ばれた源平合戦で勇名を馳せた平家側の勇猛果敢な武士なのだが、実在したものの生涯に謎の多い人物で、平家物語に出て来る、合戦で、源氏方の美尾屋十郎の錣(しころ 兜の頭巾の左右・後方に下げて首筋を覆う部分)を素手で引きちぎったという「錣引き」が有名で、古典芸能の格好のキャラクターとして、近松門左衛門が、「出世景清」を書くなど、色々な世界に登場している。
能の「景清」は勿論、文楽や落語などでも「景清」は演じ語られているのだが、描く主題やストーリーが、まちまちなのが面白い。
能の「景清」は、盲目となり、日向国へ流されていた景清を、尾張国熱田の遊女との間に生まれた一人娘人丸が鎌倉から日向国宮崎へ訪ねて来る話。
歌舞伎の「日向嶋景清」は、このストーリーを展開しており、しっとりした人間模様が描かれていて、この方が芝居になっている。
「鎌鬚」は、景清(海老蔵)が、源氏の武将三保谷四朗(左團次)のところへ乗り込んで行き、鬚を剃って貰うべく頼むので、首を掻く絶好の機会だと、大鎌で掻こうとするも不死身の景清には通用せず、縄にかかるべく来た景清は、自ら身を差し出して、猪熊入道(市川右近)に縄にかかって都へ引かれて行く。
「景清」は、六波羅の牢に入れられ尋問するも口を開かないので、岩永左衛門(猿弥)が、妻阿古屋(笑三郎)と娘を呼び拷問しようとするが通じない。そこへ、秩父庄司重忠(猿之助)が現れて誠意を尽くすと、景清が、源氏の無能さを世に知らしめ天下泰平の世を作るのだと語ったので、重忠は、頼朝も全く同じ考えだと言ったので、景清は復讐の念を捨てる。
ストーリーがあってない様な、とにかく、荒唐無稽な話(?)をでっちあげて繋ぎ合わせて、華麗で豪快な、スペクタクルシーンを繰り広げて、成田屋が、隈取をして凄い衣装を身につけて登場し、絵になる素晴らしい大見得を切り続けるのであるから、観客は熱狂する。
この錦絵が、巷の人気を集めて、市井を賑わわせて、その錦絵を持った冨山の薬売りが、全国津々浦々まで流布させて、江戸の文化や流行が広がって行く。
前の壽三升景清のポスターを見れば分かろうと言うもの。
今回のエビをバックにしたラストシーンは、歌舞伎美人の写真を借用する。
とにかく、荒事の典型とも言うべき、海老蔵の展開する勇壮華麗なスペクタクルシーンと錦絵を彷彿とさせる大見得の数々を楽しむ絶好の舞台である。
ただ、今回の舞台と関係があるのかないのか知らないが、鎌倉山から険しい化粧坂を下る途中に景清の土牢が残っているが、豪快な舞台の雰囲気とは全く違うのが興味深い。
しっとりとして泣かせる2時間以上の「荒川の佐吉」の後に見る成田屋の荒事の世界も、非常に面白い趣向である。
既に代替わりして大分経つこともあって、堂々たる舞台を見せて観客を楽しませている。
まず、今回観たのは、夜の部で、『荒川の佐吉』、それに、壽三升景清の歌舞伎十八番の内『鎌髭』と『景清』。
しみじみと感動させてくれる真山青果の新歌舞伎「荒川の佐吉」は、猿之助の佐吉の絶品の舞台で、二年前に新橋演舞場で通しで演じられた壽三升景清の二つの演目は、正に、成田屋の一八番で、海老蔵が團十郎ゆかりの素晴らしい舞台を見せてくれた。
「荒川の佐吉」は、正真正銘の芝居そのもので、蜷川シェイクスピア戯曲でも素晴らしいキャラクターを演じてきた猿之助の新境地を見たような思いの、感動的な舞台であった。
「江戸絵両国八景」と言うタイトルがついている 真山青果の「荒川の佐吉」だが、その美しい詩情豊かなイメージを感じさせてくれるのは、幕切れの夜明け前の桜が満開の薄暗い向島の土堤の茶屋のある風景で、目が見えない姉の乳飲み子を見捨てて出奔してしまったお八重(米吉)との、しみじみとした再会シーンである。
今回は、猿之助と米吉だったが、その前は、染五郎と梅枝、そして、仁左衛門と孝太郎の万感胸に迫る美しいシーンであった。
「侠客の世界をのし上がった男の潔い生き様を描いた真山青果の名作」と言うことで、この後、佐吉は、自分を認めて後見役を務めようとした相模屋政五郎(中車)が、惜しいなあと言って止めるのを振り切って、鍾馗(猿弥)の二代目継承を棒に振って旅立って行く。
いくら苦労して、泣きの涙で手塩にかけて育てたにしても、大店の跡取りとなった盲目の卯之吉にとって、育ての親が万年三下奴の自分であることが邪魔になると慙愧の思いで去って行く佐吉の姿は、あの第三の男やペペルモコのような名画のラストシーンのような懐かしさと愛しさが滲み出ていて感動的である。
真山青果は、この「荒川の佐吉」を、十五代目羽左衛門に「最初はみすぼらしくて哀れで、最後に桜の花の咲くような男の芝居がしたい」言われて書いたと言う。
十五代目羽左衛門は、当時最高の美男子役者として有名だっと言うから、私は、二度、素晴らしい仁左衛門の佐吉を観ているのだが、これが、現在の決定版なのであろう。
Youtubeで、”片岡仁左衛門・千之助 「荒川の佐吉」ダイジェスト”と言う感動的な映像が見られるが、 8分一寸のトップシーンの寄せ集めだが、雰囲気は痛いほど分かる。
さて、今回の猿之助の佐吉だが、頼りなくてだらしのない、しかし、どこか男気のあるチンピラ三下奴が、連れ去られようとして必死にしがみ付く盲目の卯之吉を守ろうと、切羽詰まって相手の一人を手斧で切り倒して、「人間、捨て身になれば恐いものなんかない」と開眼する佐吉の男の軌跡を、青虫が華麗なアゲハチョウに脱皮するように、実に丹念に丁寧に演じ切っていて爽快である。
大詰めの「両国橋付近、佐吉の家」での、政五郎が丸惣の女将となったお新(笑也)をともなってやってきて、卯之助をお新に返してやってくれと佐吉を説得シーンは、この歌舞伎の最大の山場であろう。腹を空かせて泣く赤子を貰い乳に夜道を彷徨う虚しさ悲しさ、破れた着物を縫えずに紙縒りで結ぶ辛さ、主を失ったしがない三下奴の盲目の子育ての血の滲むような苦しさを断腸の悲痛で語るも、卯之吉の安泰な将来を説得されて、手放す決心をする。
恐らく等身大の演技で、誠心誠意努めたのであろうが、これが実に素晴らしくて、本来の天性の素質もあろうが、抜群の発声術を駆使した語り口で、芝居に引きずり込み、本心の吐露であるから、私など比較的鈍感な聴衆でも、感動感動であった。
実に、上手い。
この舞台では、中車、猿弥、笑也、門之助と言った劇団ゆかりの役者が重要な脇役を占めていたが、座頭役者の貫禄十二分である。
海老蔵は、佐吉の親分仁兵衛を切って縄張りを奪って佐吉に殺される成川郷右衛門を演じており、颯爽とした格好の良い侍ぶりで絵になっていて、華を添えている。
中車の親分ぶりも、中々堂に入っていて良く、観客の拍手から言っても、今や、大歌舞伎俳優の貫禄である。
笑也は、この舞台では、謝って泣いてばかりいる役だが、華があり、また、猿弥の貫禄と凄みは抜群。
米吉の女形は、一番可愛くて綺麗だと思っているのだが、ここ数年大変な進境で、今回は、かなり重要なお八重を演じており、情緒も豊かになった。
上手いと思ったのは、佐吉の唯一の友・相棒とも言うべき大工辰五郎の巳之助で、三津五郎の雰囲気が出てきた感じで、末が楽しみである。
海老蔵が紡ぎ出した壽三升景清の通し狂言は、2年前の正月、新橋演舞場で見ている。
最もポピュラーな『景清』のほかに『関羽』『解脱』『鎌髭』を連ねた4部構成で、今回は、その内、『鎌髭』と『景清』が演じられた。
景清は、「悪七兵衛」と呼ばれた源平合戦で勇名を馳せた平家側の勇猛果敢な武士なのだが、実在したものの生涯に謎の多い人物で、平家物語に出て来る、合戦で、源氏方の美尾屋十郎の錣(しころ 兜の頭巾の左右・後方に下げて首筋を覆う部分)を素手で引きちぎったという「錣引き」が有名で、古典芸能の格好のキャラクターとして、近松門左衛門が、「出世景清」を書くなど、色々な世界に登場している。
能の「景清」は勿論、文楽や落語などでも「景清」は演じ語られているのだが、描く主題やストーリーが、まちまちなのが面白い。
能の「景清」は、盲目となり、日向国へ流されていた景清を、尾張国熱田の遊女との間に生まれた一人娘人丸が鎌倉から日向国宮崎へ訪ねて来る話。
歌舞伎の「日向嶋景清」は、このストーリーを展開しており、しっとりした人間模様が描かれていて、この方が芝居になっている。
「鎌鬚」は、景清(海老蔵)が、源氏の武将三保谷四朗(左團次)のところへ乗り込んで行き、鬚を剃って貰うべく頼むので、首を掻く絶好の機会だと、大鎌で掻こうとするも不死身の景清には通用せず、縄にかかるべく来た景清は、自ら身を差し出して、猪熊入道(市川右近)に縄にかかって都へ引かれて行く。
「景清」は、六波羅の牢に入れられ尋問するも口を開かないので、岩永左衛門(猿弥)が、妻阿古屋(笑三郎)と娘を呼び拷問しようとするが通じない。そこへ、秩父庄司重忠(猿之助)が現れて誠意を尽くすと、景清が、源氏の無能さを世に知らしめ天下泰平の世を作るのだと語ったので、重忠は、頼朝も全く同じ考えだと言ったので、景清は復讐の念を捨てる。
ストーリーがあってない様な、とにかく、荒唐無稽な話(?)をでっちあげて繋ぎ合わせて、華麗で豪快な、スペクタクルシーンを繰り広げて、成田屋が、隈取をして凄い衣装を身につけて登場し、絵になる素晴らしい大見得を切り続けるのであるから、観客は熱狂する。
この錦絵が、巷の人気を集めて、市井を賑わわせて、その錦絵を持った冨山の薬売りが、全国津々浦々まで流布させて、江戸の文化や流行が広がって行く。
前の壽三升景清のポスターを見れば分かろうと言うもの。
今回のエビをバックにしたラストシーンは、歌舞伎美人の写真を借用する。
とにかく、荒事の典型とも言うべき、海老蔵の展開する勇壮華麗なスペクタクルシーンと錦絵を彷彿とさせる大見得の数々を楽しむ絶好の舞台である。
ただ、今回の舞台と関係があるのかないのか知らないが、鎌倉山から険しい化粧坂を下る途中に景清の土牢が残っているが、豪快な舞台の雰囲気とは全く違うのが興味深い。
しっとりとして泣かせる2時間以上の「荒川の佐吉」の後に見る成田屋の荒事の世界も、非常に面白い趣向である。