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冒頭から、ユニクロの柳井正社長が、
「バブル崩壊」より「自己保身」が、今や「彷徨う難破船」となってしまった日本の問題。バブル崩壊後も世界第2位のGDPを維持してきたことへの楽観論と、景気対策を国に頼めばお金が湯水のごとく出て来て、公共事業に関連する人々はとりあえずひと息つけると言う惰性、言い換えれば自己保身が育んだ過剰とも言うべき日本人の故なき「自信」が、日本を「国家の滅亡」が危惧される状態にまで追い込んでしまった。
「政治大嫌い」の僕が、もう黙ってはいられない、
と言って、謂わば、日本国の将来を憂いて警鐘を鳴らし続けているもっと過激な大前研一氏と激論を展開しているのが、この本「この国を出よ」。
この本で語られている危機意識や日本の将来については、これまで何度も、このブログで論じているので、蛇足は止めて、
「これからの日本のために必須のこと」として、2人の意見が一致したのが、「次世代を担う人材を育てる教育改革」だと言うことなので、この問題を中心に、コメントしてみたい。
斜陽産業であり不況産業の最たる衣料品販売業で、ユニクロ現象、ユニクロデフレとまで言われながらも、イノベーションを追及して新境地の開拓に鎬を削って戦い抜くことによって、成長失敗、成長失敗を繰り返しながら、快進撃を続けてきたユニクロの経営戦略については、周知の事実であろうが、
グローバル化は最大のビジネスチャンスとばかり、日本が三つも四つもあるような巨大な中国市場や、日本が「失われた20年」で無為徒食で惰眠を貪っていた間に、計り知れない潜在成長力を持ったアジア市場に打って出て業域を拡大できるのも、追い込まれた地方の小さな小売業で有ったればこそで、成長の止まった日本には期待せず、日本を飛び出して新しい市場を開拓する以外に生きる道はないと言う。
「慣れない海外は不安だ」と言う恐怖心を払拭して、企業活動に置いてはホームなど存在せず、すべての市場がホームだとする国境を感じさせない”オール・ホーム”企業を目指さなければならないと主張する。
「自分の国にチャンスがなければ国外へ出る」 これが、洋の東西、時代を問わず、人間を突き動かしてきた本能で、国や民族、宗教の違いが常に緊張と対立を生み、戦争を繰り返してきた欧亜では、生きるために母国を飛び出すことは常識であり日常茶飯事であったと説くのは大前研一氏。
オランダに居た時、最大のグローバル建設会社の社長の息子が、デルフト工科大学を素晴らしい成績で卒業した超エリートながら、身内は入社禁止で、オランダでも不況で職がないので、インドネシアへ行って仕事を探すのだと、ケロッと語ってくれたのを思い出す。
さて、次世代を担う人材教育だが、
戦後、日本が工業化社会で高度成長するためには、従順で均質な学力レベルを持った人材を大量生産する教育が必要だったが、最早時代遅れで、
少子高齢化と人口減少で国内マーケットがやせ細る中、グローバル化する経済の波に乗って世界に出て行くことが、日本の「稼ぐ力」を高め、明るい未来を描く条件になる筈であるから、将来を見通す洞察力を持った「ビジョナリ―・リーダー」を要請する教育が絶対必要だと言う。
どんな企業や組織からも欲しがられる人財で、今や世界の教育はグローバル化した経済活動に対応したものがスタンダードとなっているので、激化する国際競争でメシを食べて行ける武器となる「英語力」「IT]「ファイナンス」の3種の神器をすべて駆使してリードできる、リーダーシップのある問題解決型の人材を育成する教育に力を入れるべきだと言うのである。
大前研一氏は、過激にも、
「自分に投資して「稼ぐ力」を強化しようと考えず、安定した大企業に勤めてそつなく出世の階段を上り、安定した生活を送りたいと言う国内安定志向の人間は、これからの時代には、”不良在庫”となる。」と言う。
ところが、毎年、学卒の就職運動時期になると、各メディアが挙ってアンケートするのが、学生たちの就職希望企業のランキングだが、大前研一氏が指摘する”不良在庫”候補者を求める企業ばかりが、上位にランクされている。
我々が学生の頃には、謂わば、特別な企業や組織は別だが、殆どの会社どこにでも就職できた時代とは違って、苦しい時代だからこそ安定志向(?)なのかも知れないが、全くパラダイムが変ってしまって、競争の激烈なグローバル経済社会になってしまっている以上、これらの不良在庫予備軍は、成長の機会を摘み取られて去勢されるだけの虚しい組織に未来を託す、飛んで火にいる夏の虫になると言うことであろうか。
その前に、大前氏は、
「文科省は、教育の顧客である企業や「競争相手」となる世界の方を見ようとせず、企業が採用したくなる学生を卒業させようとはしない。企業の”品質管理”と言う意味では、落としたくなるような人ばかりを卒業させている。」
新卒の就職率が92%に低下したと大騒ぎして、残る8%に補助金を付けて就職支援するのが民主党の「成長戦略」の目玉だが、会社をいくつ受けても落ちるような人を税金で助けると言う発想自体がナンセンスで、恐らく勉強を死ぬ気でやってこなかったのだろうから、放って置けばよい、とも言っている。
大前説に一理あったとしても、私自身は、文科省の教育は兎も角、猫も杓子も大企業に就職出来たバブル時代と違って、あまりにも不幸な失われた20年で、多くの若き人材に就職や活躍の機会を与えられずに、人世を棒に振らせた日本社会の無為無策の罪は計り知れないと思っている。
さて、私自身の考えだが、日本の大学教育の質の向上が必須で、グローバル化だと思っている。
日本の政治経済社会が内向きで、変化を嫌う若者だらけの「日本病」が蔓延しているとするのなら、9月入学で驚いているようではダメで、まず、真っ先に大学を完全に国際化して、広く門戸を世界に開放して、根本的に大学制度なり組織を改編することが有効なのではないかと思うのである。
風穴を開けて、硬直化して麻痺している学閥とボス・システムを吹き飛ばし、グローバル水準に至らない不良在庫教授や学者の多くを駆逐することが必須であり、第一、若い学生たちの目の色が変わって来る筈である。ウィリアム・スミス・クラークの「Boys, be ambitious(少年よ、大志を抱け)」効果を再現させることである。
異文化異文明の遭遇こそが、人間を触発して向上意欲を促進するのであって、このことは、文化文明は辺境から伝播するとしたトインビーの「挑戦と応戦」論で証明済みである。
海外から優秀な教授や学者を積極的に招聘するのであるから、授業は日本語でも英語でも自由に出来るようにして、若者そのものをグローバル化することが先決で、そうすれば、それ以前の小中高教育も、期せずして、必然的にこれに対応して、日本の教育システムが根底から変わってくる。
大分前に、京大のビジネス・スクールの設立当時に、カリキュラムを見せて貰って、現状のグローバル・ビジネスに十分対応できないのではないかと、コメントしたことがあるのだが、文科省の認可条件だと言うことであった。
私が学生の頃、京大にも経済学科はあったが、その後、ウォートン・スクールで学んでみて、経営学そのものの質および量の差が途轍もなく大きいのに気付いて唖然としたのだが、高等教育は、やはり、アメリカで受けるべきだと痛切に実感した。
いずれにしても、カリキュラムは別としても、私が学生であった時には、日本の場合、授業科目とは殆ど関係のない、時には全く役に立たないような授業を自由に行っていたし、恐らく、今現在でも、授業内容をチェックする訳ではなく、完全に教授に一任されている筈なので、大学で教える授業にはかなり自由度と幅があるので、自由に任せて、大学を運営すれば良いのである。
その場合には、世界最古の大学であるボロニア大学が、学生主導で教授を自分たちで選定したと言う趣旨に則って、学生による教授の評価システムをビルトインすべきは当然であろうと思う。
時代の潮流に触発されて、学問の質、量ともに異常に拡大し、賞味期限が短縮して来ているので、肝心要の教授の切磋琢磨と能力の涵養が必須なのである。
「バブル崩壊」より「自己保身」が、今や「彷徨う難破船」となってしまった日本の問題。バブル崩壊後も世界第2位のGDPを維持してきたことへの楽観論と、景気対策を国に頼めばお金が湯水のごとく出て来て、公共事業に関連する人々はとりあえずひと息つけると言う惰性、言い換えれば自己保身が育んだ過剰とも言うべき日本人の故なき「自信」が、日本を「国家の滅亡」が危惧される状態にまで追い込んでしまった。
「政治大嫌い」の僕が、もう黙ってはいられない、
と言って、謂わば、日本国の将来を憂いて警鐘を鳴らし続けているもっと過激な大前研一氏と激論を展開しているのが、この本「この国を出よ」。
この本で語られている危機意識や日本の将来については、これまで何度も、このブログで論じているので、蛇足は止めて、
「これからの日本のために必須のこと」として、2人の意見が一致したのが、「次世代を担う人材を育てる教育改革」だと言うことなので、この問題を中心に、コメントしてみたい。
斜陽産業であり不況産業の最たる衣料品販売業で、ユニクロ現象、ユニクロデフレとまで言われながらも、イノベーションを追及して新境地の開拓に鎬を削って戦い抜くことによって、成長失敗、成長失敗を繰り返しながら、快進撃を続けてきたユニクロの経営戦略については、周知の事実であろうが、
グローバル化は最大のビジネスチャンスとばかり、日本が三つも四つもあるような巨大な中国市場や、日本が「失われた20年」で無為徒食で惰眠を貪っていた間に、計り知れない潜在成長力を持ったアジア市場に打って出て業域を拡大できるのも、追い込まれた地方の小さな小売業で有ったればこそで、成長の止まった日本には期待せず、日本を飛び出して新しい市場を開拓する以外に生きる道はないと言う。
「慣れない海外は不安だ」と言う恐怖心を払拭して、企業活動に置いてはホームなど存在せず、すべての市場がホームだとする国境を感じさせない”オール・ホーム”企業を目指さなければならないと主張する。
「自分の国にチャンスがなければ国外へ出る」 これが、洋の東西、時代を問わず、人間を突き動かしてきた本能で、国や民族、宗教の違いが常に緊張と対立を生み、戦争を繰り返してきた欧亜では、生きるために母国を飛び出すことは常識であり日常茶飯事であったと説くのは大前研一氏。
オランダに居た時、最大のグローバル建設会社の社長の息子が、デルフト工科大学を素晴らしい成績で卒業した超エリートながら、身内は入社禁止で、オランダでも不況で職がないので、インドネシアへ行って仕事を探すのだと、ケロッと語ってくれたのを思い出す。
さて、次世代を担う人材教育だが、
戦後、日本が工業化社会で高度成長するためには、従順で均質な学力レベルを持った人材を大量生産する教育が必要だったが、最早時代遅れで、
少子高齢化と人口減少で国内マーケットがやせ細る中、グローバル化する経済の波に乗って世界に出て行くことが、日本の「稼ぐ力」を高め、明るい未来を描く条件になる筈であるから、将来を見通す洞察力を持った「ビジョナリ―・リーダー」を要請する教育が絶対必要だと言う。
どんな企業や組織からも欲しがられる人財で、今や世界の教育はグローバル化した経済活動に対応したものがスタンダードとなっているので、激化する国際競争でメシを食べて行ける武器となる「英語力」「IT]「ファイナンス」の3種の神器をすべて駆使してリードできる、リーダーシップのある問題解決型の人材を育成する教育に力を入れるべきだと言うのである。
大前研一氏は、過激にも、
「自分に投資して「稼ぐ力」を強化しようと考えず、安定した大企業に勤めてそつなく出世の階段を上り、安定した生活を送りたいと言う国内安定志向の人間は、これからの時代には、”不良在庫”となる。」と言う。
ところが、毎年、学卒の就職運動時期になると、各メディアが挙ってアンケートするのが、学生たちの就職希望企業のランキングだが、大前研一氏が指摘する”不良在庫”候補者を求める企業ばかりが、上位にランクされている。
我々が学生の頃には、謂わば、特別な企業や組織は別だが、殆どの会社どこにでも就職できた時代とは違って、苦しい時代だからこそ安定志向(?)なのかも知れないが、全くパラダイムが変ってしまって、競争の激烈なグローバル経済社会になってしまっている以上、これらの不良在庫予備軍は、成長の機会を摘み取られて去勢されるだけの虚しい組織に未来を託す、飛んで火にいる夏の虫になると言うことであろうか。
その前に、大前氏は、
「文科省は、教育の顧客である企業や「競争相手」となる世界の方を見ようとせず、企業が採用したくなる学生を卒業させようとはしない。企業の”品質管理”と言う意味では、落としたくなるような人ばかりを卒業させている。」
新卒の就職率が92%に低下したと大騒ぎして、残る8%に補助金を付けて就職支援するのが民主党の「成長戦略」の目玉だが、会社をいくつ受けても落ちるような人を税金で助けると言う発想自体がナンセンスで、恐らく勉強を死ぬ気でやってこなかったのだろうから、放って置けばよい、とも言っている。
大前説に一理あったとしても、私自身は、文科省の教育は兎も角、猫も杓子も大企業に就職出来たバブル時代と違って、あまりにも不幸な失われた20年で、多くの若き人材に就職や活躍の機会を与えられずに、人世を棒に振らせた日本社会の無為無策の罪は計り知れないと思っている。
さて、私自身の考えだが、日本の大学教育の質の向上が必須で、グローバル化だと思っている。
日本の政治経済社会が内向きで、変化を嫌う若者だらけの「日本病」が蔓延しているとするのなら、9月入学で驚いているようではダメで、まず、真っ先に大学を完全に国際化して、広く門戸を世界に開放して、根本的に大学制度なり組織を改編することが有効なのではないかと思うのである。
風穴を開けて、硬直化して麻痺している学閥とボス・システムを吹き飛ばし、グローバル水準に至らない不良在庫教授や学者の多くを駆逐することが必須であり、第一、若い学生たちの目の色が変わって来る筈である。ウィリアム・スミス・クラークの「Boys, be ambitious(少年よ、大志を抱け)」効果を再現させることである。
異文化異文明の遭遇こそが、人間を触発して向上意欲を促進するのであって、このことは、文化文明は辺境から伝播するとしたトインビーの「挑戦と応戦」論で証明済みである。
海外から優秀な教授や学者を積極的に招聘するのであるから、授業は日本語でも英語でも自由に出来るようにして、若者そのものをグローバル化することが先決で、そうすれば、それ以前の小中高教育も、期せずして、必然的にこれに対応して、日本の教育システムが根底から変わってくる。
大分前に、京大のビジネス・スクールの設立当時に、カリキュラムを見せて貰って、現状のグローバル・ビジネスに十分対応できないのではないかと、コメントしたことがあるのだが、文科省の認可条件だと言うことであった。
私が学生の頃、京大にも経済学科はあったが、その後、ウォートン・スクールで学んでみて、経営学そのものの質および量の差が途轍もなく大きいのに気付いて唖然としたのだが、高等教育は、やはり、アメリカで受けるべきだと痛切に実感した。
いずれにしても、カリキュラムは別としても、私が学生であった時には、日本の場合、授業科目とは殆ど関係のない、時には全く役に立たないような授業を自由に行っていたし、恐らく、今現在でも、授業内容をチェックする訳ではなく、完全に教授に一任されている筈なので、大学で教える授業にはかなり自由度と幅があるので、自由に任せて、大学を運営すれば良いのである。
その場合には、世界最古の大学であるボロニア大学が、学生主導で教授を自分たちで選定したと言う趣旨に則って、学生による教授の評価システムをビルトインすべきは当然であろうと思う。
時代の潮流に触発されて、学問の質、量ともに異常に拡大し、賞味期限が短縮して来ているので、肝心要の教授の切磋琢磨と能力の涵養が必須なのである。
6月末には渡米予定で、フィラデルフィアでの住居も決まりました。
本ブログ記事を読ませていただき、感じるところが多くありましたが、優秀なエリート人材は、国外にどんどん出るべきですね。教育体制・教育内容がそれほど違うのであれば、なおさらです。
今の日本の政治は稚戯に等しいひどいもので、経済の足を引っ張っているところ大です。日本には『リーダー』は育たないのでしょうか?