熟年の文化徒然雑記帳

徒然なるままに、クラシックや歌舞伎・文楽鑑賞、海外生活と旅、読書、生活随想、経済、経営、政治等々万の随想を書こうと思う。

ニューヨーク紀行・・・10 ニューヨーク市街散策

2008年02月14日 | ニューヨーク紀行
   ニューヨークの街を何の目的もなく散策するのは4年ぶりである。
   行ったことがなかったので、グリニッジ・ビリッジとソーホーの雰囲気を感じたくて、とりあえず、ワシントン広場の傍のニューヨーク大学に向かった。
   ピーター・ドラッカーがいたので一時留学先として考えたが、その時既にクレアモント大学に移っていたのが分かったので止めたことがあって、多少興味があった。
   その後、ウォール街に出て、あのあたりを散策して、帰りにミッドタウンの5番街を歩こうと思っていた。
   サブプライム問題で、アメリカ経済が不況に突入するかどうか心配されているが現状はどうなのか、多少、街の雰囲気から察知できたらと言う気持ちもあった。

   ニューヨーク大学は、全く街の中の大学で、キャンパスと言う感じはなく、街の中に一部は並んで寄り集まっているが、あっちこっちに散在している。
   キャンパス地図はあっちこっちにあるが、とにかく、セクリティなど全くない感じで、誰でも何処からでも建物に入り込める感じで、大都会のマンモス大学と言うところである。
   ブックショップに立ち寄って、経済の本を探そうと思ったが、教科書関係が大半で、一般書籍のコーナーは貧弱であり、ほかに衣料品や文具雑貨等のコーナーがあり雑然としていた。
   結局、ミッシュランのグリーン・ガイド「ニューヨーク版」を買って外に出て、隣のワシントン広場に行った。
   大統領就任100周年記念に建てたワシントン・アーチが入口にあるが、真冬の為に人も少なく、殺風景なので、まっすぐに南の方向に歩いて、ソーホーに向かった。

   ソーホーに入ると、一挙にファッション性が増す感じで、ユニークな飾り付けをした婦人用のファッションの店や、アトリエ、アンティークショップ、それに、店構えから雰囲気の変わったレストランなどが、あっちこっちにあって、街路に、ゼブラの模様に塗ったクラシックな車が止まっているなど、夜には灯りがついて賑やかななるのだろうと思って歩いていた。
   ブロードウエーに出たが、プラダとブルーミングデールがあるくらいで、多少カメラの被写体になるようなビルがあったが、普通の町並みであった。
   今でも少しはアーティスト達が住んでいて活躍しているようだが、はっきり目的を持って訪れる人にはソーホーは楽しいのかも知れない。
   ロンドンのピンク・ゾーンのある歓楽街ソーホーとは全く違ったイメージの街である。

   ロウアー・マンハッタンは、まず、ワールドセンターの跡地に行った。板塀が張り巡らされて、外も内もあっちこっちで工事中で、4年前と雰囲気が変わっていなかったので、素通りして、トリニティ教会に入ったが、ミサ中であった。
   ウォール街をまっすぐに東に下りてニューヨーク証券取引所の前に行った。以前のようにバリケードを張った機動隊はいなくなっていたが、一般の入場は不可能なので、隣のワシントン大統領の像が立つフェデラル・ホールに入って小休止した。

   他の目ぼしい所は前回見て歩いたし、ビジネスでない限りウォール街には用がないのでそのまま踵を返したが、大通りにマクドナルドがあったので喉の渇きを癒す為に入った。
   ウォール街と言っても、ロンドンのシティと同じで、金融を中心としたビジネス街だが、普通の生活空間も同居していて、マクドナルドの客は、他と変わらず子供づれの一般市民で賑わっていた。
   ところでコーヒーだが、スターバックスに戦いを挑むべく新しく高級指向を試みたとか言われていたが、コップのデザインを変更したのか、まず PREMIUM ROAST COFFEE とロゴが入って、FRESH BREWED CUSTOM BREND RICH BOLD AND ROBUST と麗々しく大書されていた。テイストは、多少マイルドで無難になった感じである。

   ミッドタウンに向かい、久しぶりにグランド・セントラル駅に降り立った。
   ヨーロッパのターミナル駅にも結構建築的にも重要な美しいターミナル駅があるが、このニューヨークの駅は、ワシントンの駅と同じ様に群を抜いて立派な美しい駅だと思う。
   オルセーなど、素晴らしい美術館になっているが、あのワシントン駅でも重要な国の式典が行われたりしている。
   日本には、欧米の駅舎のように美しく立派な広大なホールを持った駅がないのが寂しいが、混む一方にも拘わらず、まだ、駅中ビジネスに力を入れようと言うのだから、発想が貧しいのかも知れない。

   そのまま歩いて、5番街に入って、北方向に歩いた。
   セント・パトリック大聖堂に入った。ケルナ・ドームを模したと言う巨大な建物だが、やはり、歴史が150年程度では、ヨーロッパの大聖堂や教会と比べてどこか荘厳さにも重厚さにも雰囲気が欠ける。
   この大聖堂から北側には、トランプ・タワーまで、世界の名だたる高級店が軒を連ねており、世界最大の高級ショッピング街である。
   前回のニューヨーク散歩では、いくつかの店に入ったが、今回は前を素通りしただけだが、不況の所為か、心なしか、客が入っているような雰囲気ではなかったような気がした。
   私が名前を知らないような店では、結構、派手なセールを行っていたが、流行っている感じでもなかった。

   バーンズ&ノーブルの大きな店があったので、アメリカのベストセラーがどうなのか見ようと思って中に入った。
   グリーンスパンの「THE AGE OF TURBULANCE 波乱の時代」が、20%ディスカウントのワッペンが貼られて山積みにされていた。
   この書店の中に、スターバックスの店舗があって、本を持ちこんで読んでいる人もいた。
   私もゆっくりとしたかったが、その日は、METの「ワルキューレ」が、早く開幕するので、諦めてホテルに帰った。
   ニューヨークの街頭で、アメリカの経済状況について何かを感じようとしたのだが、ただの散策では何も分からなかったと言ったところであろうか。
   特に、変わった印象は何もなかった。
   
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新日本フィル定期公演・・・マルク・アルブレヒト「英雄の生涯」

2008年02月13日 | クラシック音楽・オペラ
   R・シュトラウスの交響詩「英雄の生涯」がメインの演奏会だったが、冒頭のワーグナーの歌劇「さまよえるオランダ人」序曲から、重厚なドイツ音楽に始まり、20世紀の音楽ながら非常に繊細で美しいアンリ・デュティユーのチェロ協奏曲「はるかなる遠い国へ」など、非常に感銘深いコンサートであった。
   このチェロ協奏曲だが、かすかに蠢くようなシンバルの響きに載せて独創チェロが歌いだす最初から、非常に魅惑的なサウンドで、ボードレールのアイデアの具現化だと言うことのようだが、ドビュッシーに似た絵画的な音楽がどこか懐かしさを感じさせた。
   独奏チェロを演奏したルートヴィッヒ・クヴァントは、非常に端正でオーソドックスな演奏でありながら、繊細で語りかけるようなサウンドが心地好かった。
   ロストロポーヴィッチやフルニエ、ヨーヨーマなどと言った奏者のようなカリスマ性はないが、そんなサウンドが愛されるのであろう、聴衆の温かい拍手に、バッハの無伴奏チェロ組曲第6番「サラバンド」で応えていた。
   ベルリン・フィル定期で、エッシェンバッハの指揮で、このチェロ協奏曲を演奏して絶賛を博したと言うことだが、さもあらんと思う。これを知って、クヴァントをソリストに選んだのは、アルブレヒトだと言うことである。

   「英雄の生涯」は、リヒャルト・シュトラウスの最後の交響詩だが、ベートーヴェンの交響曲第3番「英雄」を意識した作品であろうが、スケールの大きな壮大な曲である。
   ただでさえ、シュトラウスの曲は、大編成のオーケストラで、それに、金管木管、打楽器が大活躍するので、若い頃最初に聴いた時には、派手で騒がしいと言った感じがして拒絶反応の方が強くて、オペラ「薔薇の騎士」を観るまでは、正直な所、好きになれなかった。
   ところが、長い年月の間に、コンサートやオペラで、「ドン・ファン」「ティル・オイゲン・シュピーゲルの愉快な悪戯」「ツアラトゥストラはかく語りき」、それに、「アルプス交響曲」「家庭交響曲」や「エレクトラ」「サロメ」と聴いたり観たりしているうちに、少しづつ取り付かれてしまったのであろうか。
   コンサート・マスター崔文洙の「英雄の妻」のイメージを奏でるソロ・ヴァイオリンの甘美なサウンドにうっとりして聞き惚れ、アルブレヒトのタクトがおさまると大きな拍手をしていたのだから、音楽とは不思議なものである。
   
   前回のハウシルトのブルックナーもそうだが、ドイツ人指揮者の独墺音楽の演奏はやはり素晴らしくて、今回のアルブレヒトは、特に、ワーグナーやシュトラウスを得意としていると言うから、素晴らしい解釈によるサウンドを新日本フィルから引き出してくれたのであろう。
   しかし、オペラを主体に結構欧州各地でかなりレパートリーの広い演奏活動しており器用なようで、フランス人のデュティユーのチェロ協奏曲も実に感動的に演じていて好感を持った。

   ところで、この日は、振り替え鑑賞で、何時もの一階真正面後方の定席ではなく、3階前方左席に割り当てられ、伸び上がらないと(後がないのでいくらでも可能)第一ヴァイオリン後方などオーケストラの一部が視界から切れてしまう席なのだが、殆ど真下に指揮者やソリストが至近距離で鑑賞出来るなど、非常に興味深い経験をした。
   新日本フィル定期のトリフォニー・シリーズは、2夜連続なので、都合が悪ければ振り替えてくれるシステムなので、これが、結構重宝している。
   前述のチェロ協奏曲には、マリンバやシロフォン、グロッケンシュピール、タンバリンなど変わった打楽器や、チェレスタやハープなどが登場していて、これらの演奏を楽しむことが出来て面白かったので、音楽には見る楽しみもあることをあらためて感じた。
   
   2008~9定期の更新案内が来ている。
   もう15年も続けていて、いつもならすぐに更新するのだが、元々、小澤征爾指揮のコンサートがプログラムに必ずあったので定期会員になっており、昨年から小澤征爾の出演が消えてしまった新日本フィルの定期なのでどうするか、一つで十分だとすると、N響や都響の方が魅力的なので変更するか思案中である。
   新日本フィルで、是非聴きたいと思うのは、アルミンクのコンサート形式のオペラ公演だけで、今年は、シュトラウスの「薔薇の騎士」なので魅力はあるが、小澤のコンサートと同じで、その時にチケットを買えば良いとも思っている。
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ニューヨーク紀行・・・9 フィラデルフィア美術館

2008年02月12日 | ニューヨーク紀行
   私には外国でのミニ故郷が四つある。サンパウロとフィラデルフィアとアムステルダムとロンドンである。
   2年以上住んだ所だが、夫々に思い出が染み付いていて無性に懐かしくなることがある。
   しかし、その中でも最も懐かしいのは、何故か、一番最初に住んだ異国の地であり、最初の一年は家族と離れて住んで勉強に明け暮れて苦労した所為か、フィラデルフィアである。
   特に、始めてクリスマス休暇にペン大の学生のチャーターしたヨーロッパ学生帰国便に便乗して家族と共に欧州旅行して帰って来た時に、窓から見えたフィラデルフィアの灯が無性に懐かしくなって胸が締め付けられるような思いをしたのを鮮明に覚えている。

   今回もニューヨーク旅行の最終日に、フィラデルフィアを訪れた。
   少し遅れてホテルを発ち、それに、列車が1時間以上遅れたので、結局、フィラデルフィアには4時間しか滞在出来ず、フィラデルフィア美術館とわが母校ペンシルヴァニア大学のキャンパスを訪れてウォートン・スクールの中を歩くのがやっとであった。
   昼少し前に着いて時間があれば、是非にもレストラン・ブックバインダーに出かけてイセエビの料理を食べたかったが、果たせなくて残念であった。
   ウォートン時代にハレの日に出かけるご馳走であり、その後何度か訪れているが、前回は改装中で果たせず、今回こそと思っていたのである。

   ニューヨークから長距離特急のアムトラックで1時間半ほど走り、古びて廃墟のような工場地帯を過ぎてスクルキュル川の谷間に差し掛かると、川向こうにフィラデルフィアの高層ビル群のスカイラインが現れて、川を渡ると岸辺に大きなギリシャ風の建物が見える、これが、フィラデルフィア美術館である。
   間もなく地下にもぐり真っ暗な駅構内に滑り込むと30番街ペン・ステーションである。

   今回は、駅に着くと直ぐにタクシーに乗り込んで美術館を目指した。
   最初にこの美術館に行ったのは、フィラデルフィアに来てすぐで、大学院の授業が始まる少し前の暑い夏の盛りであった。
   私がこの美術館で一番良く覚えているのは、この口絵写真のセザンヌの208×249センチの大きな「大水浴」とルーベンスの「プロメチュース」の絵で、その他に、ゴッホの「ひまわり」やルノアールの女性像、それに、クールベやコローのエキゾチックな女性の肖像などが記憶に残っており、私にとっては、初めての本格的な外国の美術館での芸術鑑賞であった。
   その後メトロポリタンやワシントン、ボストンなどのアメリカの美術館を巡ることになるのだが、フィラデルフィアにいた時には時々訪れて、帰り道に、ロダン美術館に立ち寄るのが楽しみであった。あの上野にある大きな地獄門は、こことパリとの3箇所しかなく、懐かしかった。

   34年ぶりの訪問なので印象は薄くなってしまっており、小高い丘の上に聳える美術館へは裏正面から入場するの忘れていて、タクシーが坂道を上り詰めて着いた瞬間一挙に沢山の思い出が蘇ってきた。
   2階に上がって回廊伝いに反対側に回ってバルコニーに出ると、正面の噴水を越えて一直線に大きな道路が貫いていて、街の中心であるペンシルヴァニアの建設者ウイリアム・ペンの銅像を頂上に頂いたシティ・ホールが見える。その左右に高層ビルが並ぶフィラデルフィアの全貌が見渡せて、静かなので、一枚のパノラミックな絵画を見ているような感じがした。
   昔は、この正面の道路が虹のようにまっすぐに極彩色に塗られていて美しかったが、これはロッキーの映画でスタローンが走っているシーンで出て来ていた。

   この日の美術館には、殆ど客が来ておらず、全く静かで私一人の貸切のような雰囲気であった。
   それに、室内が明るくてガラスの入った額が少ない上に、何の障害もなく目の前に絵画があるので、正に絵の具の凹凸まで鑑賞でき、偉大な画家達の息づかいが聞えるようであった。

   このセザンヌの「大水浴」は、やはり、この美術館の至宝なのであろう、奥まった独立した展示室の真正面に飾られていて、左右にマイヨールの女性のブロンズ裸像が対置され、周りに印象派やルソーの絵画が並べられている。
   絵の具のない白地の部分も残されているかなり雑な感じがする絵画だが、正三角形の構図に描かれた女性たちの醸しだす躍動感やリズム感が実に爽やかである。
   この美術館にある沢山の印象派及びその前後のフランス絵画が、やはり圧巻で、無造作に並べられているので有り難味が半減する。日本での展示には行かなかったが、多くの鑑賞者を楽しませたのであろう。
   
   結局、この日は、西洋主体の絵画部門を一回りしただけで、他の部門には行けずに出ざるを得なかったが、日本の部屋などあったような記憶があり訪れられなかったのが一寸残念であった。
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ニューヨーク紀行・・・8 MET:ワーグナー「ワルキューレ」

2008年02月11日 | ニューヨーク紀行
   METのこのオットー・シェンク演出の「ワルキューレ」は、最近、3回観ている。
   ジークリンデのデボラ・ヴォイトとウォータンのジェイムス・モリスは最近の2回、ジークムントは、前の2回はドミンゴで、今回はクリフトン・フォービスだが、指揮者も、ワレリー・ギルギエフ、サー・アンドリュー・デイヴィス(東京)、今回は話題のロリン・マゼールと変わっていて、勿論、ブリュンヒルデもフリッカも全部入れ替わっているが、とにかく、圧倒的なワーグナー楽劇の魅力全開の素晴らしい舞台であり、その度毎に感激して観ている。
   それまでに観ていたロイヤル・オペラも含めてワルキューレの舞台が、非常に抽象的で時にはモダン過ぎて違和感を感じていたのだが、このMETのギュンター・シュナイダー=シームセンのセットとデザインは、多少クラシックだが、非常にリアルかつ幻想的で、あのノイシュバインシュタイン城のルートウィッヒの世界と相通ずる空間を現出していて、それに、指揮者や歌手が超一流と来ているから文句なしのオペラなのである。それでも、満席になることは殆どなかったようである。

   今回のワルキューレの最大の話題は、隣のニューヨーク・フィルの音楽監督で超ど級の指揮者であるロリン・マゼールが、45年ぶりにMETのピットに入ることで、初日の1月7日の公演では熱狂的な歓迎を受けたと言い、私の観たのは28日の公演であった。
   マゼールは、自身でもオーケストラ指揮者だと言っておりこの方面で卓越した名声を博しているが、かって、ベルリン・ドイツ・オペラとウィーン国立歌劇場の総監督であったし、スカラ座を筆頭に世界のヒノキ舞台で多くのオペラを振っており、私も、何十年も前に「ローエングリン」を観ているが、オペラでのキャリアも大変なものである。
   余談だが、METとNYFとの相性が悪いのか、ニューヨーク・フィルの音楽監督でMETで振ったのは「ファルスタッフ」のバーンスティンだけで、ピエール・ブーレーズもクルト・マズアもMETで指揮をしたことがない。

   ニューヨーク・タイムズのアンソニー・トマシーニが、マゼールとレヴァインを比較して、特に、最後のブリュンヒルデの眠りとウォータンの告別のモチーフのところで、レヴァインは途切れることなく流れるように演奏するが、マゼールはフレーズ毎にドラマチックなポーズを取ってメリハリをつけながら弦セクションに物語を語らせており、解説的ではあるが観客を熱狂させる説得力のある解釈だと言っている。
   何れにしろ、マゼールが一人でカーテンコールで舞台に立った時、オーケストラの楽員たちが熱狂的な賞賛の拍手を送っていたと報じている。

   オーケストラ席前方だったので、マゼールの指揮振りが良く見えたが、何十年も前と同じできびきびしたタクト捌きが小気味良かったが、もう77歳。
   8歳でニューヨーク・フィルを指揮し、9歳でストコフスキーに呼ばれてフィラデルフィア管を指揮し、11歳でトスカニーニに認められてNBC交響楽団を指揮したと言う途轍もなき神童が、まだ、第一線で驚異的な指揮振りを披露しているなど信じ難いほどだが、マゼールのワーグナーに再び遭遇出来て正に幸運であった。
   
   ジークムントのフォービスは、一昨年小澤征爾が振る予定だった東京のオペラの森公演ヴェルディの「オテロ」でタイトルロールを歌った歌手で、是非彼のワーグナーを聴きたいとブログに書いたが、期せずして実現し、素晴らしくパンチの利いた張りのある美しいヘルデンテノールのジークムントを聴いて、ドミンゴに劣らぬ感激を味わうことが出来て幸せであった。

   ジークリンデのヴォイトは、ドミンゴとの絶妙な舞台で夙に名声を博しており、今やワーグナー・ソプラノの第一人者であり、後半のプログラムである「トリスタンとイゾルデ」でイゾルデを歌うことになっている。
   これについては実際の舞台を見たいが叶わないのでMETライブビューイングで辛抱せざるを得ないが、鑑賞出来るだけでも有難いと思っている。
   とにかく、ヴォイトのジークリンデはドミンゴとの共演が圧倒的な印象で、今でも素晴らしい歌声が耳に残っている。
   ジークリンデの歌う「冬の嵐は過ぎ去り」、ジークムントの「君こそは春」に続く第一幕の終わりの愛の二重唱の何と素晴らしいこと、そして、第二幕の別れを直前にした二人の二重唱の何と崇高なこと。
   リストの娘コジマを友人のハンス・フォン・ビューローから奪って妻にしたワーグナーだから書けた愛のニ重唱かも知れないと思いながら、トリスタンとイゾルデの音楽を思い出す。

   何と言っても、今回のワルキューレの素晴らしさは、ジェイムス・モリスのウォータンであろう。19年もウォータンを歌い続けて今や61歳、とにかく、風格のある威風堂々とした圧倒的なウォータンで、観客が熱狂するのも無理はない。
   大地を揺るがすような朗々とした歌声で、燃え盛る大地を的にブリュンヒルデに最後の別れを告げる「さようなら、勇ましい娘よ」を歌い、周りに火をつけて、「魔の炎の音楽」をバックに舞台から消えて行く、この最後のシーンを観るだけでも値打ちのある素晴らしいウォータンである。

   第三幕の「ワルキューレの騎行」の音楽の後、鎧姿で登場するブリュンヒルデのライザ・ガスティーンもキャリアを積んだワーグナー・ソプラノで、これまで、ジークリンデも歌っており、イゾルデも演じている。
   父親ウォータンのモリスと堂々と対峙する素晴らしいブリュンヒルデで、ヴォイトとは一寸違った張りのある力強いソプラノのきらめきが印象的であった。

   ウォータンの妻フリッカを歌ったメゾ・ソプラノのミカエラ・デヤング、フンディングを歌った若いロシアのバス・ミカエル・ペトレンコの存在感も大変なもので、8人のワルキューレ達も達者で、休憩を入れて5時間の舞台を終えても興奮冷めやらず、底冷えのするニューヨークの深夜も気にならないほどであった。   
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二月大歌舞伎・・・幸四郎の「熊谷陣屋」

2008年02月10日 | 観劇・文楽・歌舞伎
   今月の歌舞伎は、松本白鸚二十七回忌追善興行で、高麗屋の世界が展開されている。
   白鸚が名声を博した舞台を、幸四郎が「祗園一力茶屋の場」の大星由良之助と「熊谷陣屋」を、そして、吉右衛門が、積恋雪関扉」の関守関兵衛(実は大伴黒主)を演じ、未来の高麗屋を指向して染五郎の「春興鏡獅子」の小姓弥生が華を添えている。
   
   興味深かったのは、夜の部の「口上」で、幸四郎の進行で進められた、吉右衛門と染五郎に、雀右衛門と松禄が加わった身内の舞台であったが、NHKでも放映していたが、幸四郎が父白鸚の思い出を語っていた。
   優しい父として、病院で、婚約時代に母が巡業先にバレンタイン・チョコレートを送った話を懐かしそうに何処へだったかと話していたら「松江だ」と寝ていた白鸚が声を出したので、母が娘のように喜んで嬉しい顔をしたこと。女には、特に優しかったと幸四郎は付け加えた。
   我慢強かった話は、当時麻酔のなかった病院で麻酔なしに手術した父に、「大変だったでしょう」と聞いたら、「分からない」と答えたので「何が分からないのですか」と聞き返したら、「人間が何処まで痛みに耐えられるのか分からない」と答えたと言うのである。NHKでは、慶応病院と言っていたが、麻酔なしとは信じられないが、そんな時代が、破竹の勢いで経済成長街道まっしぐらに進んでいた日本にもあったのである。
   私の歌舞伎鑑賞歴は、ずっと若い頃にはあるが、実質は、ロンドンのジャパンフェステイバルの時からなので、残念ながら、白鸚の舞台は観ておらず、映画とテレビの世界しか知らない。

   さて、「熊谷陣屋」であるが、仁左衛門や吉右衛門の熊谷を観ているが一番機会の多いのは、この幸四郎の熊谷である。
   2年前にも観ていて、その時は、幸四郎の大仰なアクションに多少違和感を感じたのだが、TVで観ていると白鸚の方が遥かにオーバー・アクションで、結局、古典としての歌舞伎の世界を、どうしても芝居の鑑賞に近い形で観ようとしている自分の方に問題があるのだろうと気付いた。
   去年の吉右衛門の熊谷から少し見方を変えて見てから、大分理解が違ってきているのだが、とにかく、敦盛の最後の悲痛な逸話を皇位継承権を持った後白河法皇のご落胤と言う設定で、天下の勇将熊谷をして自分の息子を身替りにして殺害させるのであるから正に慟哭の極みの物語なのである。
   平家物語では、敦盛の父に遺品や手紙を届けるなど人間熊谷直実の無常人生を語っているが、戦記物語でありながら、人情の機微が随所にあってやはり語りの文学である。

   幸四郎は、60も半ば、やや体重が増したのか身体に重みが出てきて重厚さが増してきた感じで、一つ一つ噛み締めながら感情移入をコントロールし、最後の無常を噛み締めて「送り三重」の憂いを帯びた三味線の音を背にして花道を去って行く姿に一挙に凝縮して昇華させる。
   客席に向かって、「十六年はひと昔・・・夢だ、アァ」。右手を宙にかざしてうなだれた頭におろして慟哭し、顔を両手で覆う。波乱万丈の人生が一挙に総決算されて裸の人間に戻った人間熊谷の生き様を、幸四郎はこの最後の台詞に万感の思いを込めて演じ切る。

   この熊谷陣屋で、実に悲運の限りを魅せるのが、熊谷の奥方相模だが、運命の悪戯とは言え、討たれたと思って慰めていた敦盛の母・藤の方(魁春)と一瞬にして運命が逆転して、熊谷が示した首がわが子と知って動転して仰け反り軒下に転げ落ちる。小次郎の首を抱きしめながら旧主の役に立ったのは何かの因縁と咽び泣きながらかき口説く姿は、正に断腸の悲痛。人間国宝芝翫の至芸は正に感動的で、過去2回とも幸四郎熊谷の相手を務めており、涙を誘う。
   文楽では、動転してのたうつ相模を熊谷が髪を引っ掴んで軒下に蹴落とすが、芝翫は、身体全体で悲痛の限りを訴える。

   幸四郎の前回の舞台で、変わった主なキャストは、義経が團十郎から梅玉に、堤軍次が高麗蔵から松禄へと交代したが、弥陀六も段四郎そのままで、雰囲気はそのままの感じの熊谷陣屋であった。
   梅玉の義経には華があり、魁春の藤の方には品と格調があり、弥陀禄の段四郎には老いの一徹と忠義が光っており、脇役陣も実に素晴らしい。

   ところで、最後の染五郎の「春興鏡獅子」の弥生と獅子の精だが、非常に美しい舞台であった。
   幸四郎が、口上で、晩年の松禄から、「高麗屋にも、弥生を踊れる役者が生まれたのだなあ」と言われたとかで、将来の高麗屋を見て欲しいと言って特に披露していた。
   私が始めて染五郎の赤姫姿を観たのは、もう、17~8年前のロンドンでの歌舞伎「ハムレット」のオフェリアだが、イギリス人も典型的な日本女性だと思っていた。
   幸四郎も、ミュージカルに、芝居に、シェイクスピアに、・・・と歌舞伎以外にも極めて多芸だが、染五郎は、歌舞伎では素晴らしい女形も演じれるので、将来は、その上を行くであろう。

   ところで、この「春興鏡獅子」を始めて観たのもロンドンで、勘三郎であった。胡蝶の精は可愛かった貫太郎と七之助が演じていた。
   これまで、ずっと観続けてきたのは勘三郎の弥生であるが、実に素晴らしい勘三郎の世界で、その優雅で熟成した芳醇な赤ワインのような踊りと舞台の雰囲気がたまらないが、若くて両刀使いの染五郎がどのような成長を遂げて行くのか楽しみである。
   
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大田弘子大臣の「経済一流」論にもの申す

2008年02月09日 | 政治・経済・社会
   大田大臣が、国会で、「日本はもはや経済は一流だと呼ばれる状態にはない」と発言したことに対して、昨日の日経で弁明を行った。
   『「経済一流」復活のカギ 危機感バネに改革一段と」と言う経済教室の記事である。
   一流ではないと言ったのは、①人口減の中で成長を続けるのは並大抵ではないと言う危機感②今なら間に合う、と言うことだと言う。
   更に、将来の成長力こそ問われるべき問題だとして、日本経済の抱える大きな問題を、①サービス産業の生産性が低い②金融、航空、港湾など経済インフラの国際競争力が低い③人材を生かしきれていないことだと説く。
   
   経済成長の要因を、極めて単純に示すと、人口増+生産性のアップであるから、この人口増がマイナスとなると、経済の生産性をそれ以上により大きくアップする以外に経済成長の道はない。
   かっての日本経済は、急速な人口増と、更に急速な生産性のアップによって世界最高水準の域にまで上り詰めたが、バブル崩壊後の長期デフレ不況によって大田大臣の指摘するような状態に至っている。
   大田大臣は、前述の日本経済の問題点が、人口減と高齢化の進行によって更に成長エネルギーを削ぎ、金融資産を減少させるので、日本経済を魅力ある状態に戻し、海外からの資本流入を促すなどして「世界のパワー」を取り込み活性化することだと言うのである。

   至極ご尤もなように聞えるが、このような秀才の作文のような悠長なことを言える段階ではないと思うので、私の考えを述べることにする。

   まず、経済の成長であるが、このブログでも何度も書いていることだが、私自身は、シュンペーターの説くイノベーションによる創造的破壊以外に長期的に持続可能な道はないと思っている。
   話を簡略化するために、ロバート・フランク著「ザ・ニューリッチ」から引用するが、ケビン・フィリップが、「富と民主主義」の中で、アメリカにおける過去の大規模な富の急増は、何れも三つの力、すなわち、新技術、投機市場の台頭、自由市場と高所得者を支援する政府、が一体となって起こったと指摘していると言う。
   歴史的に見て、新技術と投機市場が互いを促し合うことによって、すなわち、技術と金融が一体となって経済成長を推し進めてきた、そして、政府がそのような経済社会環境を提供する体制を取っておれば更にその勢いを増進させると言うことであろうか。

   正に、一世紀も前にシュンペーターが指摘した世界が、あのアメリカにおいて、インターネットの民間解放によって波及的に拡大してIT革命に火を点けて、ファイナンシャル・エンジニアリングの進歩と精緻化によって更に増幅されて、グローバリゼーションの拡大により世界同時好況を生み出したのである。
   アメリカの経済成長を推し進めて来たのは、正に、イノベーターと企業家による新規事業の拡大であって、日本のように歴史と伝統を誇る老舗企業の世界ではなく、マイクロソフトやグーグルを筆頭に、総て、かってのソニーやホンダのような今様ベンチャーの力であり、このIT革命に乗った企業家の牽引がなければ、80年代に沈没してしまっていたアメリカ経済の再生はあり得なかった筈である。
   今成長を続けて驀進している中国やインド経済も、シュンペーターの言う広義の意味でのビジネスのイノベーションが渦巻きながら起こっているのである。
  
   さて、日本の現状に戻るが、シュンペーターのイノベーションを促進し創造的破壊を引き起こすような土壌なり活力が日本経済にあるのであろうか。
   或いは、それを醸成するような政治経済社会環境が日本に整っているのであろうか。
   
   法制度の不備など問題があるとしても、寄ってタカってホリエモンや村上を叩き潰すような起業やベンチャーにネガティブな風潮があり、或いは、日本企業が経営力のなさを棚に上げて外資M&A防衛策に奔走し、オーストラリアの投資ファンドが成田空港のビル運営会社の株式取得に対して危機感を抱いて法案を提出して規制すると言った政府の態度など市場資本主義のいろはを踏み外した風土やセンチメントのある日本には、殆どお先真っ暗と言う以外にない。
   英国病と揶揄されたイギリスが立ち直った一因は、誇り高き大英帝国の魂を捨てて外資に三顧の礼を尽くして迎え入れ、目ぼしい名門企業が殆ど外資の軍門に下ると言うウインブルドン現象まで惹起したサッチャー革命にあったが、これほど厳しい試練と犠牲を払っていることを考えれば、日本の外資に対する姿勢が如何に中途半端かが分かる。

   日本は、余りにも豊かで巨大な国内市場に恵まれている為に、90年代から大きく胎動した世界のIT革命とグローバリゼーションによって引き起こされた壮大な経済社会構造の変化に乗り遅れてしまった。
   あのソニーでさえ、出井元CEOの述懐によると、社長就任当時、アナログ一辺倒でデジタル指向さえなかったと言うほど遅れていたのである。松下が、中村改革を実施して大鉈を振るって脱皮しようとしたが、グループ全体でパナソニック・ブランドに統一したのは極最近だが、それでも、アメリカ市場では殆ど目立ったプレゼンスがなく、世界的なグローバル企業としては緒に就いたばかりであろう。
   IT革命によるビジネス革新に至っては、企業トップの対応が進まず、システム全体が機能しないなど多くの問題を抱えていて、世界の趨勢から大きく遅れを取っているなど、政府公共団体をも含めてビジネス・インフラとしての機動性を備えていないと言う。
   
   イノベーションで立つ工業立国を目指すというのが大方の見方だが、ものづくり日本については、それではダメだと言う野口悠紀雄教授の見解もあれば、主役は金融ではなくものづくりの技術と知財だと言う榊原英資教授の見解など色々あるが、例えば、イノベーション一つを取っても、何故、技術的に優れているソニーのPS3が売れなくて、任天堂のWiiがバカ売れして世界を制覇しているのかを良く考える時期に来ていることを忘れてはならない。
   持続的イノベーション指向一辺倒の技術神話が日本企業を牽引して来たが、これからは、ソフトを包含したクリエイティビティや広範な価値を創造する新市場開発型やローエンドの破壊的イノベーションが如何に大切かと言うことを認識すべきなのである。

   皮肉にも、アメリカ同様に法人所得税が高いのは日本だけだと言って、ポールソン財務長官が減税を訴えているが、
   法人所得税の大幅削減、外資に対するもっともっと積極的な導入策の推進、ベンチャー等起業促進のための法制度・税制など抜本的な改革と体制整備など、とにかく、イノベイティブな企業家精神を喚起し、企業に革新への勢いをつけない限り日本の経済活性化は有り得ないと思っている。
   サービス産業の生産性が低いと大臣は言うが、そのためにも、公務員制度を含めて官僚組織の抜本的改正と、内需関連産業の規制や過保護を徹底的に排除することが必須である。日本のように官民こぞっての談合塗れの経済社会など資本主義の先進国にはあり得ないし、この方面の日本の生産性の低さは徹底しており、合理性と競争原理の風を貫通させなければ生産性の向上等夢に終わってしまう。
   
   
   
   
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ニューヨーク紀行・・・7 メトロポリタン美術館

2008年02月08日 | ニューヨーク紀行
   最初の頃は何日か連続して通ったが、最近では、メトロポリタン美術館に行くと、一日中そこで過ごすことが多い。
   結構疲れるのだが、適当に、館内にあるカフェで軽食を取ったり喫茶で小休止したりして時間を繋ぐ。と言っても、全館回るようなことは出来ないので、その時の気分で、鑑賞する場所を決めて、回れるところだけ見て帰る。

   前回は、エジプト美術から見たので、今回は、国宝級のギリシャの壺など6点をイタリアに返したと言う話題もあったので、反対側のギリシャ・ローマ美術から見学を開始した。
   余談だが、イタリア政府は、遺跡の盗掘などで不法に国外に持ち出された古代美術品の返還要求に積極的で、これまでにも、ポール・ゲッティ美術館から40点の他ボストン美術館からも返還を受けるなどに成功しているが、映画「日曜はダメよ」の女優メルクーリ文化大臣が、かって、大英博物館にパルテノン神殿のファサードの浮き彫りエルギン・マーブルをギリシャに返せと迫っていたが、時代も変わったもので、あの世から、どんな思いで見ているのかと思うと興味深い。
   
   ギリシャ・ローマ美術では、目を引くのは多くの彫刻であるが、何故か、ロンドンやパリの美術館と比べて見劣りがするのは、遅くなってから手に入れた所為であろうか、ビーナス像なども鼻が欠けておらずもう少し保存が良ければミロのビーナスにも匹敵する程の作品だが、全体に素晴らしい作品が多いわりには傑出した作品がない。
   興味を持ったのは、前3世紀のギリシャの「ヴェールと仮面をつける踊る女」の20センチほどのブロンズ像で、左手と顔の目の部分だけを露出して全身白いヴェールで身を包んだダンサーが、身をくねらせて右肩越しに後を振り返っているポーズを写しだしたもので、やや飛び出した臀部から足先に向けてピッタリと体の線が見えて、中々モダンで優雅な仕草の彫刻である。
   イタリアに返したのであろうか、サンペドロンの身体を持ち上げる「眠り」と「死」を描いた大型の赤絵萼型クラテル型の壺は、館内で見つけることが出来なかった。

   その後、アフリカ、オセアニア、南北アメリカ美術を簡単に見て、2階のヨーロッパ絵画に移った。ここは必ず訪れるところで、好きな絵が沢山あって、2回くらい回ることにしている。
   回廊から入ると真っ先に見えるのが、ダヴィッドの「ソクラテスの死」で、泣き悲しむ友に目もくれずに、ベッドに座ったソクラテスが左手で天を指している凄い迫力の絵である。
   ラファエロの「聖者と玉座の聖母子」と言う素晴らしい作品があるが、私が興味を持って見るのは、ティツィアーノ、ティントレットやヴェロネーゼあたりからで、レンブラントやフェルメールなどの所には比較的長く居る。

   この口絵写真の額の右端がレンブラントの自画像で、左端がフェルメールの「眠る女」である。
   フェルメールは5点だが、レンブラントに至っては大変な数で10点は下らないし、「ホメロスの胸像を眺めるアリストテレス」や「フローラ」など素晴らしい作品がある。
   フェルメールの絵は、美術館のパンフレットなどには、1660年に描かれた「水差しを持つ若い女」が必ず使われている。明るい窓辺に立った若い女が、窓を開いて、手に持った水差しの水を外に捨てようとしている絵である。左手に窓があり窓際にテーブルがあって食器や小間物などが載っている、後の壁には額か地図が架けられていると言うのは全くフェルメール画の定番だが、この絵は、テーブルかけの模様の繊細さや静物の空気感など丁寧に描かれていて、それに、明るい雰囲気が実に良い。
   
   最近、2階の奥、すなわち、メイン階段から、素描や版画や写真コーナーの回廊展示場を抜けた奥に、改装なった新しい西洋美術館別室が出来て、19世紀と20世紀初期の絵画と彫刻が移されて、素晴らしい展示場になっている。
   入口を入るとT字状の長い回廊展示場には、ロダンなどの彫刻が並べられて壮観である。
   入口まっすぐ正面奥の中央には、ジョン・シンガー・サージェントの美しい「マダムX」の絵が架かっている。
   ニューオーリンズ生まれでパリで悪名を馳せたピエール・ゴートロー夫人を描いた美しい絵だが、アメリカ絵画のコーナーにあったのが、何故ここに移されてメインの位置に据えられたのか、絵画的には色々問題があってもメトロポリタンとしてはアメリカの至宝という事であろうか。
   
   ロマンティック、バルビゾン、印象派、後印象派等々の絵画、それに、19世紀の彫刻などなど、とにかく、日本人には、堪らないような素晴らしい作品が、大変なボリュームで展示されているので、ここだけでも圧倒されてしまうほどで、コローさえも一部屋あり、オルセー美術館とは一寸違った興奮を覚える。

   この日は、結局時間がなくなったので、急ぎ足で、古代オリエント美術を見て、最後に、エジプト美術を見るだけに終わってしまった。
   エジプト展示場に行くのは、大理石の小さなジャーの蓋の貴婦人の美しい頭部の彫刻を見るためで、ネフレティティを彷彿とさせるような気品と雰囲気が実に素晴らしいのである。
   ところで、ベルリンのエジプト美術館にある素晴らしく美しいネフレティティ像に対して、エジプト政府から返還要求がなされていると言う。
   植民地や属領などから収奪に近い形で美術品や古代遺産を集めてきた文明国の美術館や博物館はどうなるのであろうか。
   エルギン・マーブルやロゼッタ・ストーンのない大英博物館や、ミロのヴィーナスやサモトラケのニケのないルーブル博物館など考えられないのだが、美術館・博物館の受難(?)の時代が来たのであろうか。
   
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蜷川幸雄:平幹二朗「リア王」

2008年02月07日 | 観劇・文楽・歌舞伎
   1999年に、彩の国さいたま芸術劇場を皮切りに、蜷川幸雄が、RSCの依頼によって、道化役の真田広之以外総て英国人出演者と言う「リア王」を演出して上演して、英国でも大変な話題になったが、今度は、オール日本キャストで、改めて同じ劇場で上演された。
   前回のRSCリア王については、NHKでも放映していたが、最初は、保守的な、それも、シェイクスピアの本国であるイギリスでの能舞台の要素を濃厚に取り入れたニナガワ・リア王に対する拒絶反応は強烈であったし、それに、ミスキャストや色々な反省もあったようであった。
   私自身が観たリア王は、RSCの他の演出や日本にも来た英国女優がリア王を演じた舞台など総て英国モノだが、それはそれとして、やはり日本人であるから、蜷川の日本イメージを取り入れたシェイクスピアに何の抵抗も感じなかった。
   後になって、蜷川は反省も込めて、自分の思いを「日本の俳優を使って「リア王」を同じ舞台でやってみたい。日本人でつくるとこうなりますよ、と将来、イギリスに持って行ってみたい。それで僕の「リア王」は完結する。」と、高橋豊の本「蜷川幸雄伝説」で語っている。
   今回、正に、蜷川の最後の賭けとも言うべき日本人俳優による「リア王」が上演されたのであるが、私は、両方とも観ていて、両方とも同じ様に感激して鑑賞させてもらった。

   蜷川の仏壇の舞台を使った「マクベス」も、能登の能舞台を想定した舞台の「テンペスト」も、ロンドンのロイヤル・シアターとバービカン劇場で、イギリス人の観客の中で観て、イギリス人の好意的な賞賛を経験していた。
   しかし、これらは、やはり、日本人役者が日本語で演じたシェイクスピアと言う特殊要因があったたためにイギリス人の対応がフェアーであったのであって、RSC版リア王は、正にプロ中のプロのシェイクスピア俳優であるRSCを主体とした英国人俳優を起用してシェイクスピアそのものの戯曲「リア王」を演じさせたのであるから、違和感、異質感を惹起するのは当然であったのかも知れない。
   もっとも、それ以前にマイケル・シーンなどRSCの役者やノルウエーの役者を起用してイプセンの「ペールギュント」をリリリハンメルなどで演じて、東京でも観ているので最初の外人版芝居でもなかった。

   さて、今回のリア王の舞台だが、蜷川が、前回のリア王役のサー・ナイジェル・ホーソーンが弱いイメージでミスキャストと言うか幸四郎の方が良かったかも知れないと言っていたくらいだから、今回のリアを演じた平幹二朗は、正に、蜷川のイメージどおりの強い老いたリア王で、非常にパンチの利いた説得力のあるリア王像を現出していた。
   特に、嵐の中を彷徨うシーンなど、狂気と化したリア王には、大宇宙を相手に闘争を挑むような覇気が必要で、そうでなければ、折角、蜷川が、天空から石の塊を降らせて天変地異の凄まじさを表現しようとした演出が生きて来ないし、それに、殺害されたコーデリアを両手にしっかりと抱き上げて死地の界を登場するラストシーンの迫力などが出て来ないのである。
   そのような蜷川の意図を、平は適格に把握して、非常に骨太の堂々としたリア王を演じていて爽快でもあった。
   そして、ナイジェル・ホーソーンに不満だったと言うくぐもって突き抜けてこないと言う声についても、平は、極めて明確に語り、それに、何よりも魂を込めてリア王に生り切った迫真の演技が素晴らしかった。

   それを、支えたのが極めて有能な実力派の助演陣だが、私は、コーデリアを演じた内山理名に注目した。
   若くてキャリア不足は否めなくて、どこか、幼い演技が気になったが、後半の戦場でのリア王との再会の時の、あの何とも言えない幸せ一杯の表情や、リア王に抱かれて出てくる最後の表情の神々しさなど、これほど、こんなにも初々しく鮮烈なコーデリアを見たこともない程感動した。
   蜷川と平に対する全幅の信頼あってこそと思うが、蜷川のシェイクスピア・ヒロインの選択に何時も感心している。

   若い俳優の活躍は注目すべきで、先ほど蜷川「オセロー」で、ニヒルで個性的なイアゴーを演じた高橋洋が、今回は、善人で正義感に燃えるエドガーを演じた。
   軟弱な貴族の長男から乞食へ、そして、道化に入れ替わって狂気のリアと裏切られて盲目となった父親グロスター伯爵を相手にし、最後に、正義の使者として登場する重要な役だが、「間違いの喜劇」のドローミオから注目して見ているが実に器用な素晴らしい役者である。
   このリア王で、唯一、個性的で徹底的な悪役で、立身出世の為には、親兄弟は勿論、主君まで裏切っても平気の平左のエドモンド役(嫡子エドガーの妾腹の弟)を、池内博之が颯爽と格好良く演じていて爽快だが、難を言えば、もっともっと灰汁の強い強烈などぎつさを出すべきだと思った。二人の熟年王妃を天秤にかけるスマートさは良いがおとなし過ぎる。

   リア王の意地の悪い二人の姉娘、絶えずつんとして天を向いていて適度の色気を発散する傲慢なゴネリルの銀粉蝶も、品のある冷たさと女の揺れ動く魅力を披露するリーガンのとよた真帆も、正に適役で、リア王との対決が面白い。

   この舞台で、脇をしっかり固めていたのは、ベテランの二人の重鎮、グロスター伯爵の吉田鋼太郎と、ケント伯爵の瑳川哲朗であろう。
   グロスターには、二人の兄弟を持ちながら、妾腹のエドモンドに裏切られるリア王と同じバカな父親役と言う二重悲劇の主人公と言う役回りだが、日本有数のシェイクスピア役者としての吉田は流石で重厚なグロスターを演じきった。
   最初から最後まで忠誠を貫き通したケント伯は、恐らく日本人には最も理解し易い重要な役だが、重臣としてのケント、追放されてからの一兵卒としてケント、夫々味のある瑳川の演技は貫禄であろうか。
   最も賢くて(?)重要なリア王のカウンターパートである道化だが、山崎一が、コミカルに、しかし、非常にシアリアスに、陰に日向にリア王にまとわりつきながら強弱をつけて演じていて、真田広之の道化とはニュアンスが違った道化像を出していて面白かった。
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ニューヨーク紀行・・・6 MET・プッチーニ「マノン・レスコー」

2008年02月06日 | ニューヨーク紀行
   今回のMET鑑賞で最も期待していたのは、プッチーニの「マノン・レスコー」であった。
   昔、サンパウロで一度見ただけで、長い間機会がなかったのだが、今度は、今を時めく名ソプラノ・カリタ・マッティラがマノンを歌う。
   マッティラは、もっと若かった頃の舞台を何度かロイヤル・オペラで観ており、「魔笛」のパミーナの初々しい姿など、今でも覚えているが、その後、ロンドンに行った時には、ワーグナー「ローエングリン」のエルザの素晴らしい舞台に接して、大ソプラノとしてのスターダムを登りつつあるのに感激した。
   長い間前のMETの総支配人であったジョセフ・ヴォルピーが、「史上最強のオペラ」で、最も魅惑的な舞台人間だったソプラノ歌手が二人居るのだがと言って、テラサ・ストラタスとともに、マッティラの名前をあげて、「サロメ」どの逸話などを語っている。
   決して美人ではないので損をしているが、演技力としても抜群で、モーツアルトも歌いワーグナーも歌え、これほど天性としてのオペラ歌手としての素質を備えた歌手は稀有だと思っている。

   マッティラは、シベリウス音楽院で、歌のみならず演技やダンス、バレーなども学んだと言っているが、オペラは紛れも無く総合芸術で、観客を魅せなければならない。容姿もそうだろうが、演技の重要性を熟知している。
   マノンはどう言う性格の女性かと聞かれて、演ずる前に詳しくは語りたくないがと言って、あの当時(18世紀のフランス)の貧しい若い女性の生活と悲運を題材にした話だと言っている。
   マッティラは、悪女マノンのイメージではなく、貧しい乙女が思いのままに生きようとして運命に翻弄される姿を演じようとしたのである。
   初々しい乙女、成り上がりの淑女、恋に目覚めた女、生きようと必死になる女、運命を悟った女。カリタ・マッティラは、変わり行く女性の変容を実に豊かに抑揚をつけながら演じ切り、ソプラノがこれほどもまでに語る音楽なのかを教えてくれて感動であった。

   この話は、プレボーの小説(1731年刊)が元になっており、マスネーのオペラ「マノン」やバレーにも展開されているが、マノンは不実な悪女の典型のように言われ、その魅力に取り付かれた青年デ・グリューの激しい情熱と社会的破壊を描いた話だとされている。
   若い女性マノンが、デ・グリューの情熱にほだされて恋におち駆け落ちするが、貧しさに耐え切れず分かれて大蔵大臣ジェロンテの妾になる。
   しかし、その生活にも飽き足らず憂鬱を囲っている所に、デ・グリューが来て口説き落とすので、宝石や身の回り品を掻き集めて逃げようとする所にジェロンテが帰って来て逮捕される。
   マノンは、船に乗せられてアメリカ送りとなるが、堪りかねたデ・グリューが一緒に乗船を願い出て、最後には新世界の荒野に果てると言う悲劇である。

   オペラの方だが、期待に違わず、デズモンド・ヒーリーの華麗なセットと衣装による素晴らしい舞台をバックに、ジェイムス・レヴァインの紡ぎだすプッチーニ節は正に絶好調で、強烈な黄金のトランペットのような張りのある美しいテノール・マルチェロ・ジョルダーニのデ・グリューとの激しい恋の交歓に、カリタ・マッティラの魅力全開の夢のようなオペラが展開された。

   デ・グリューのジョルダーニは、私は始めて聴いたが、シシリーの牢看守の息子として生まれ、スポレットでリゴレットのマントヴァ公爵でデビューしてミラノを経てニューヨークに移った。
   ジェイムス・レヴァインのお気に入りの歌手でアンソニー・ミンゲラから芸を仕込まれた、非常にレパートリーの広い多芸なテノールで、METではビリャゾンやリチャトリと双璧のイタリア・オペラ歌いでもあり、アメリカの最高裁でリサイタルをした逸話もある。
   フランスモノは勿論チャイコフスキーも歌うが、ワーグナーの「ローエングリン」や「マイスタージンガー」、マーラーの「大地の歌」にも挑戦すると言うが、ドミンゴを凌駕する勢いである。
   今は、スピントのレパートリーを備えたリリック・テノールだが、ベル・カントも大切にしたいと言う。晩年に20代の若さの声を保ったパバロッティに教えられたと言って、ヘビーなレパートリーを歌った後には、愛の妙薬やルチアのような軽い歌を歌いたいと言う。

   METへは、「ラ・ボエーム」でデビューを果たしたが、マスネーの「マノン」で、デ・グリューを歌った後に、会ったこともなかったレヴァインが楽屋に来て「非常に舞台に感激した。近くお会いしよう。」と言ったと言うが、これが正に転機となってMETの押しも押されもしない常連となった。
   一寸異質だが、若かりし頃の絶頂期のドミンゴを聴いているような張りと輝きのある素晴らしいテノールで、ディーヴァ・カリタ・マッティラのマノンと正に丁々発止の圧倒的な舞台を展開、最後に流れ着いた新世界の荒涼たる砂漠の場まで息もつかせぬ熱演であった。

   レヴァインの指揮については、言うまでもなく熱演で、舞台を平行しながら時々タクト姿を傍観していた。
   ジェロンテのディル・トラヴィスの好色な大臣の狡猾さ、どっちつかずのマノンの兄レスコーのドゥィン・クロフトなど脇役もしっかりしていたが、METデビューと言うエドモンド役のシーン・パニッカーが好演であった。
   何れにしろ、このオペラは、カリタ・マッティラとマルチェロ・ジョルダーニの卓越したオペラ歌手あってのマノン・レスコーであった。

(追記)METから16日土曜日のライブ録画を世界に放映するとMETライブ・ビューイングの案内メールが入った。ニューヨーク・タイムズが、マッテラのロマンチック悲劇での聴衆の心を釘付けにするパーフォーマンスは圧倒的でこの20年くらいはMETで観たことがないほどだと報道したと言う。 (2月15日)
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ニューヨーク紀行・・・5 フリック・コレクション:フェルメールに会う

2008年02月05日 | ニューヨーク紀行
   メトロポリタン美術館の少し南側のセントラル・パークに面して、個人的な美術館だが、素晴らしい作品を擁したフリック・コレクションがある。
   これまで何時も、メトロポリタンで時間を取りすぎて行く機会がなく、今回、どうしても3点あるフェルメールを見たくて、初めて出かけた。
   この口絵の「士官と笑う娘」、「音楽の手を休める少女」「女主人とメイド」である。
   最後の絵は、大きなギャラリーで他の画家達の絵と展示されているが、前2点の絵は、玄関を入って直ぐの2階へ上がる階段のある南ホールの壁面に無造作に架けてあるので、最初は見過ごしてしまったほど小さな作品である。

   私が、始めて見てフェルメールに惚れ込んだのは、1973年にアムステルダムの国立美術館で、「牛乳を注ぐ女」を見た時である。最近、日本で展示された絵だ。
   それから、直ぐに、デン・ハーグに出かけて、マウリッツハイス美術館に行って、映画にもなった「ターバンを巻いた少女(真珠の耳飾りの少女)」や「デルフトの眺望」を鑑賞した。本国オランダにも、フェルメールの絵は殆ど残っていない。
   しかし、その頃は、オランダの画家と言えば、レンブラントとゴッホ、それに、モンドリアンと言ったところが人気者で、まだ、それほどフェルメールは知られておらず、日本からの客人に、素晴らしい画家だと言ってこの絵に注目するように言っても怪訝な顔をしていた。
   もっとも、フェルメールの絵は非常に小さくて、35点くらいしか残っていないので、世界的な美術館か、個人所蔵に接しなきい限り、見る機会が少ないことにもよる。
   後で出かけた、メトロポリタン博物館にも、フェルメールの素晴らしい絵が5点ある。
   これに、ワシントン美術館の作品を加えれば、フェルメールの残っている作品の3分の1を見たことになる。

   さて、フリックの3点のフェルメールだが、この「士官と笑う娘」が一番印象に残っている。
   フェルメールは、カメラ・オブスクーラを使って絵を描いていたので、ピンホールカメラの雰囲気で、どちらかと言えば、多少ぼやけた感じの平面的な色彩の絵が多いのだが、この絵に限って、笑う娘の表情を細密画のように非常に克明に描いている。
   ワイングラスを握りながら、明るく笑っている少女の表情が実に幸せそうで、生活の息吹がそのまま伝わってくるような感じで清々しい。
   フェルメールの住んでいたデルフトには、今でもこのような古い家が沢山残っていて、窓も土間も窓際の机も、そのままの雰囲気である。
   フェルメールの絵は、殆ど、左側に窓があって、そこから自然光を取り入れて手紙を読んだり、語らったり、オランダ人の日常の生活を描いている絵が多いが、ある意味では、レンブラントとは違った意味で光の魔術師であったのかも知れない。
   太陽の照る明るい光の少ない、どちらかと言えば、どんよりとしたリア王の世界のようなオランダでこそ、レンブラントやフェルメールが生まれたのかも知れないと思っている。

   もう一つの、「婦人とメイド」は、机に向かって右手に座った女主人に正面からメイドが手紙を差し出している絵で、これには、左手には窓もなくバックは真っ黒に塗り潰されている。
   この婦人の着ている黄色の上着は、ワシントンの「手紙を書く女」やベルリンの「真珠の首飾りの女」やメトロポリタンの「リュートを調弦する女」にも使われており、モデルだったのかフェルメールが黄色を好んだのか面白い。
   何れにしろ、この窓辺は、恐らく街路に面した2階の居間なのであろうが、色々なプライベートな生活が展開されていて、オランダ人の息遣いがむんむんしていたのであろうと思うと非常に興味深い。
   オランダ人は、治安に問題のない少し前までは、夜でもカーテンなどなくて、外から中が丸見えの生活を送っていたのだから、国が違えば生活の違いも様々で面白い。

   フラゴナールの「恋の成り行き」を描いた連作11枚の大きな絵を壁面全体に貼り付けたフラゴナールの部屋は実に素晴らしくて壮観である。
   ルイ15世の頃に、王宮の庭などで恋に戯れる若い恋人達や男女の群像を華麗に描いたフラゴナールの絵は装飾画として好まれたようで、フリックも好きであったのであろうか、同じ系統のブーシェの間にもブーシェの華麗な絵が壁一面に飾られている。

   良く歴史書で見るのは、「ユートピア」で有名なイギリスの偉大な人文学者ハンス・ホルバインの「トマス・モア卿」で、素晴らしく風格のある絵で克明だが写真より遥かに美しい。
   ミッシュランのグリーン・ガイドには、レンブラントの「自画像」、アングルの「ドーソンヴィル夫人」、フラゴナールの「恋の成り行き」、ジョバンニ・ベリーニの「砂漠の聖フランチェスコ」を見過ごすなと書いてある。
   何れも画集や美術書で御馴染みだが、この美術館は本当にこじんまりとした資産家の館を転用しているので、身近にじっくりと鑑賞出来るのが良い。
   彫刻にも立派な作品が多くて、あっちこっちに飾られている。
   難は、他の美術館のようには写真を撮らせないところである。
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ニューヨーク紀行・・・4 カーネギー・ホール:NYポップスのガーシュイン

2008年02月04日 | ニューヨーク紀行
   カーネギー・ホールに始めて入った。
   よくTV などで映されるスターン・オーディトリアムと言う2800席ほどの大ホールであるが、120年経っているだけに、重厚かつ古風で中々雰囲気のある素晴らしいホールである。
   このホールは、クラシックもジャズやポピュラーも、あらゆるジャンルの有名ミュージシャンが桧舞台として登場してきた劇場なので、客席の外側の回廊の壁面に所狭しと彼らのサイン入りの写真が飾られていて壮観である。
   セピア色に変わりかけた巨匠達、カラヤンやカラスなどの若々しいモノクロ写真が郷愁を誘う。
   予備室には、古いレコードや厖大なドキュメントとともにジャズなどの歴史資料が展示されていたり、喫茶室には大きなホロビッツのポスターが貼られていたりして、ノスタルジアに浸れて楽しい。
      
   私の聴いたのは、ニューヨーク・ポップス・オーケストラの”GREAT MOMENT FROM POGGY AND BESS AND DAYFUL OF SONG"と言うタイトルのオール・ガーシュイン・プログラムである。
   ニューヨーク・ポップスと言うオーケストラがあるのさえ知らなかったが、これは、正に、アメリカでしか聴けないアメリカならばこその、素晴らしいコンサートであった。

   ガーシュインは、ジャズ的なリズムの音楽で正にアメリカを代表するクラシック音楽の巨匠だが、私自身は、オーケストラで、「ラプソディ・イン・ブルー」と「パリのアメリカ人」を聴き、特に、ラプソディのピアノの何とも言えない音色に感激してファンになった。
   その後、大分経ってから、ロンドンのロイヤル・オペラで、ガーシュインのオペラ「ポギーとベス」を観た。スラム街の黒人達の生き様を描いた実に物悲しいオペラなのだが、ベスの歌う「サマータイム」は良く知られたポピュラー音楽になっているが、あのシチュエーションで聞くと、胸を締め付けるほど感動する。
   ポギーは、ウィラード・ホワイト、ベスは、シンシア・ヘイモンで、歌手は殆ど黒人達であったが、当時、最高のメンバーでのオペラ公演であった。

   ところで、このコンサートは、ニューヨーク子としてガーシュインに惚れ込んだ指揮者でピアニストのアンドリュー・リットンが作り出したガーシュイン音楽で、ポギーとベスは、オペラを3分の1にコンパクトに短縮して、たった4人の歌手だけを起用してアレンジし直したコンサート版のポギーとベスなのである。
   先ほどのポギー歌手ホワイトから、ロンドン交響楽団の演奏会のポギーとベスの抜粋演奏会を提案されたが、不都合があったので、ホワイトの薦めもあって、作曲家の意図を十二分に盛り込んだ全オペラのシーンを包含したオーケストラ版のコンサート組曲を作り上げたと言うのである。
   サマータイムは消えていたが、4人の黒人歌手達が一寸した仕草を交えながら感動的な舞台を展開してくれた。
   特に、ベスとクララを歌ったモレニケ・ファダヨミは、声のみならず実に妖艶で魅力的なウィーンで学んだオペラ歌手であったが、他の3人の歌手達もキャリアーを積んだ素晴らしい歌手達であった。

   もう一つの「DAYFUL OG SONG」は、これまで一度も日の目を見なかったガーシュインの手書きの原稿からリットンが掘り起こした7曲の歌曲集で、ニューヨーク初演だと言うことで、リットン自身が、ピアノの前に座って指揮しながら弾き語りを行った。
   1995年に、リットンが、ワシントンのワーナー劇場で国会図書館のガーシュイン記念コンサートの芸術監督に指名された時に、ガーシュインの未公開写本や原稿にアクセスすることを認められたお陰だと言う。

   長く音楽監督を務めていたダラス交響楽団から、一番ガーシュインを得意とするコーラスだと言って、バックにはダラス交響楽団合唱団を引き連れてきていた。
   このリットンだが、寒いノルウエーのベルゲン交響楽団やオペラでも音楽監督をしていたようだが、一寸アンドレ・プレヴィンを思わせる器用で陽気なアメリカのマルチタレント指揮者と言う感じで、非常に楽しいコンサートであった。
   
   ニューヨーク・ポップスだが、1983年に、アメリカの豊かな音楽遺産を演奏し公開する為にプロのオーケストラとして設立された最大のポップス楽団のようで、このカーネギー・ホールをベースに、世界各地でもコンサートを開いている。
   高校などに無料で音楽教育奉仕も行っているようで、この日も、沢山の黒人の小学生達が招待されてやって来ていた。
   一度だけ聴いたが、有名だったのは、アーサー・フィードラー指揮のボストン・ポップスで、映画音楽など華麗な演奏で楽しませてくれた。このオーケストラは、ボストン交響楽団の各パートの主席を欠いたオーケストラであったようだが、今でもやっているのであろうか。
   日本やヨーロッパには、このようなフルスケールのポップス専門のグランド・オーケストラがないように思うが、やはり、映画音楽の国アメリカの産物なのであろうか。
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ニューヨーク紀行・・・3 ムーティ:ニューヨーク・フィル

2008年02月03日 | ニューヨーク紀行
   明るい良く晴れたニューヨークだが、マイナス5度とかで、入国早々の身には寒さが肌をさすが、アベリー・フィッシャー・ホールのロビーは、マチネーのニューヨーク・フィル・コンサート客でごった返している。
   リッカルド・ムーティの指揮は、このシーズン3回予定されていて、今回はその第二回目の4コンサートの最終日である。
   チケットは最高でも1万円程度だから、東京のオーケストラと殆ど同じ水準であり、色々な種類の定期会員用のシーズン券が売り出されていて、パンフレットもこの方が遥かに豪華である。
   定期会員でチケットは相当数売れているようだが、SOLD OUTのコンサートは少なく、私が持っていたフィラデルフィアやコンセルトヘボウのように取得の難しいオーケストラと違って、ロンドンなどと同じで、大体、当日券が買えるようである。

   ニューヨーク・フィルを最初に聴いたのは、レナード・バーンスティンが万博で来日したのが最初で、その後、このニューヨークでズービン・メータやロリン・マゼールなどの指揮で何度か、それに、ロンドンでクルト・マズアの指揮で一度と実演はあまり多くはないが、やはり、ダイナミックで華麗なバーンスティンのレコードで聴いた印象の方が強い。
   このアベリー・フィッシャー・ホールは音響が悪いと言うので一度改装されてはいるが、何故か、今でもあまり良いとは思えないし、今回も、ルプーのメリハリの利いた華麗なピアノの音色も美しさに欠けて何となく冴えなかった。
   ウィーンのムジーク・フェラインザールは知らないが、同じく最高だと言われているアムステルダムのコンセルトヘボウは確かに素晴らしいコンサート・ホールで、平べったい矩形の平土間の非常にシンプルなホールの方が凝ったホールよりも音響的に良いのかも知れない。
   
   私はラド・ルプーのピアノに期待していた。アムステルダムのコンセルトヘボウでも、ロンドン交響楽団でも素晴らしいピアノ協奏曲の演奏会を聴いて感激していた。
   30年以上も前に、ザルツブルグ音楽祭で、カラヤン指揮ウィーン・フィルでデビューを果たし、10年後に、ムーティ指揮ベルリン・フィルでオープニングを飾るなど、非常に人気の高いルーマニア生まれのピアニストだが、年をとった所為か豊かな髭にも風格が出てきて、哲学者のような雰囲気で、ピアノ協奏曲の女王と言われるこのシューマンのピアノ協奏曲を実に華麗に、そして、精緻でありながらダイナミックに美しく奏でていた。
   ブラームスが密かに愛していた愛妻クララ・シューマンのために書き、初演して感激したと言うこの協奏曲は、ロマンティックで実に美しい。
   残念ながら、前回のランランのチャイコフスキーの時と同じで、無粋な観客が居て楽章の終わりで盛大な拍手をやり、ムーティは苦笑していたが、雰囲気を壊してしまった。
   おのぼりさんの多いニューヨークでは、観光目当てなので良くあることらしい。

   ブルックナーの交響曲第6番は、作曲に時間を要したようであるが、ブルックナーにしては比較的短くて美しい曲で、私自身、聴いたのは初めてかも知れない。
   最近、少しづつブルックナーを聴く機会が出てきたが、何番がどのような曲だったのか、正直な所良く分からないのだが、昔のように耳慣れない曲でもぶっつけ本番で12分に楽しめるようになってきたのは成長かも知れない。

   イタリア人のムーティが、アメリカの典型的なオーケストラからどのようなブルックナー・サウンドを引き出すのか興味があったが、やはり、ニューヨーク・フィルの金管は素晴らしい演奏をする。
   ムーティは、ブルックナーの第4番の録音を出しているようだが、あの端正な指揮姿で、どこかくすんだ重厚なサウンドを聴かせてくれて満足であった。
   しかし、偏見かも知れないが、モーツアルトの素晴らしさには感じ入っているが、もう少し重厚で暗いトーンのドイツ音楽はどうであろうかと思って聴いていた。
   ゲーテが、ブレンナー峠を越えて見た、陽光燦然と輝く南の国イタリアの風土に感激したように、その逆の思いもあるような気がするのである。
   私が聴いたムーティの実演は、若い頃のフィラデルフィア管弦楽団、ロンドンでのウィーン・フィルのコンサートと、日本でのスカラ座公演の「オテロ」だけだが、世界各地からあれほど沢山の勲章や名誉を受けている指揮者だから、イタリアオリジンを超越しているのかも知れない。

   ところで、今、ニューヨーク・フィルの話題は、来月からの台湾と中国ツアーで、特に巨大都市上海でのデビューと、北京の新しい卵形の未来を象徴するような芸術劇場でのコンサートが注目されているらしい。
   それに、26日に北朝鮮のピョンヤンでのコンサートは、国際放送されるとニューヨークタイムズが報じていた。
   両国国歌の吹奏の後、ワーグナー「ローエングリン」第3幕序曲、ドボルザーク交響曲第8番「新世界より」、ガーシュイン「パリのアメリカ人」を、音楽監督ロリン・マゼールが指揮すると言う。
   もう30年以上も前に、フィラデルフィア・オーケストラの楽屋で、ユージン・オーマンディに、中国から持ち帰ったピアノ協奏曲「黄河」を聴いた後に、フィラデルフィア管の中国ツアーの話を聞いたのを思い出した。
   世界は、どんどん動いているのである。
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森永卓郎:今年後半に株は上がる

2008年02月02日 | 政治・経済・社会
   森永卓郎獨協大教授が、日経IRフェアでの講演「構造改革と日本経済の展望」で、今年の後半に株価が上がることは間違いないと説いた。
   森永教授の主張の根拠は、株価が現在の経済の状態にマッチした普通の水準に戻ると言うことだが、プラス要因として次の四つを列挙した。

   ① サブプライム・ローンの経済的打撃は小規模であり、今度の決算で損失の確定が成されるので、ほぼ、集束する。
   ② 高騰を続けている原油価格や穀物価格が下がる。
   ③ ブッシュ大統領と日銀福井総裁が退任する。
   ④ 外資等外人株主の日本株買いが始まる。

   ちなみに、昨年の経済が振るわなかったのは、格差拡大によって、個人消費が冷え込んだ結果で、クルマの販売不振は、購買人口減や需要の飽和などではなく、国民自身に買う経済的余裕がないからだと言う。
   所得200万円以下のサラリーマンが1023万人おり、貧困層は益々増加している。労働分配率は減少しているにも拘わらず、経済成長による成果は、総て、株主への配当と大企業の経営者たちの報酬に回っており、経済格差は増大の一途で、これでは消費が増えて経済が活性化する筈がないと言うのである。

   このあたりの問題意識は、国や経団連にもあって、余裕のある企業は賃上げを考慮せよと言う指令が出ており、今年の春闘を多少明るくしているが、あまりにも深すぎたデフレ不況の後遺症と、市場原理主義的な経済政策の結果であろうか。
   企業に十分な体力をつけてから賃上げを実施しようとする経営の立場と、応分の分配を実施すべしと言う労働側の対立はあるが、かって日本は、成長路線にあったことにもよるが、労資平行して分配されていて問題はなかったが、今後、日本の文化構造や価値観を変えずに、アメリカ型の競争重視の格差型社会へと方向転換させることが良いのかどうか問題があろう。

   サブプライム問題については、森永氏ほど、楽観は出来ないと思っている。
   サブプライムの実体よりも、諸般の事情が増幅してアメリカの実体経済が、近年始めて減速傾向にあり、実質経済成長がマイナスに転じるとリセッションだと考えられており、今現在その瀬戸際に立っていて危機意識が非常に強くなっている。
   ディカップリングが盛んに議論されているが、アメリカ経済の実力は今尚甚大で、世界のマネーの行き場がなくなると、その影響は計り知れない。
   
   原油価格については、例えば、原子力や風力や水力など代替手段があるので、発電における火力発電価格だけが鰻上りに高騰して行く筈がなく、また、原油の供給も十分にあるので、今のような投機目的主因の高騰は集束すると言う。
   原油1バーレルの製造原価がたった3ドルだと言うが、これに100ドルの高値がつくなどマネーの狂奔は計り知れない。
      
   森永教授が指摘した外資による株式投資の拡大だが、私は、単純な株式投資ではなく、日本企業のM&Aが拡大すると思っている。
   例えば、BRIC's 特に中国企業の場合であるが、これからの中国の製造業の国際競争力の強化の為には、抜群の技術と工業力を持った日本の製造業はキャッチアップのためには格好のターゲットであり、現在、株価は正にバーゲン価格である。
   タタがジャガーを買収し、ミタルが新日鉄を狙っており、インドが、先にこの動きを加速する勢いである。
   中国やインド企業の時価総額、企業価値の増大は驚異的で、今後この勢いが続けば、三角合併の可能性は極めて強くなる。

   中東やロシアは、何時までもオイルマネーが潤沢である筈がないことを知っているので、国家ファンド主導で日本企業の買収に走るであろう。
   マイクロソフトがヤフーを買収しようと言う時代である。世界の富の偏在は計り知れず、何が起こるか全く未知数であり、おかしな税金の帰趨ばかりに明け暮れるバカな政治を続けていると、世界の列強に漁夫の利をさらわれてしまう。
   国際感覚の希薄な日本人が、世界の趨勢を知らずに、如何につまらない目先のことばかりにうつつを抜かして惰眠を貪り太平天国を決め込んでいるか、心配しているのだが杞憂であろうか。
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インドのローエンドのイノベーション

2008年02月01日 | イノベーションと経営
   インドのタタ自動車が、ニューデリーの「オートエキスポ」で2500ドルの自動車を発表したのは有名な話であるが、ニッサンもルノーと共同で3000ドルカーを開発すると言う。
   この傾向は、成熟しきってこれ以上の拡大を望み得ない先進国と違って、一途に急成長する新興国のイマージングマーケットをターゲットにする為には、製造業が如何にあるべきかを如実に物語っている。
   慶応義塾大学の三田キャンパスで、開催された「供創ジャパン~これからのインドと日本」セミナーで、アフターブ・セット慶大教授、インフォシス・ベンカタラマン・スリラム副社長、アラン・シヨウリー元大臣たちが、インドの経済・ビジネスの現状や日印パートナーシップなどについて熱っぽく語ったが、工業立国日本企業が、インドやBRIC's市場を目指すための一番重要な指摘と指針は、ローエンドのイノベーションであった。

      
   しかし、日本人は当たり前だと簡単に言うかもしれないが、世界最高の工業製品の品質を追求し、これに徹底的に拘る品質にうるさい顧客を持つ日本企業には、今や至難の業のイノベーションなのである。
   このローエンドのイノベーションについては、クレイトン・クリステンセンが「イノベーターズ ジレンマ」で提起した破壊的イノベーションの最低の市場を狙ったイノベーションで、かっては日本企業のお家芸とも言うべきイノベーションであった。
   トヨタがアメリカ自動車市場に参入を果たせたのも、ソニーなど日本の電機メーカーがアメリカ市場に入り込んで輸出を拡大できたのも、正に、コスト競争に打ち勝って最低層の顧客を取り込んだローエンド・イノベーションあってこそだったのである。

   スリラム氏は、このローエンド・イノベーションについて「Frugal engineering 倹約型エンジニアリング」と言う言葉を使って説明した。
   凄い勢いで中産階級化が進んでいるとは言え、インドには巨大な人口の貧困層が存在し、これらの人々の需要を満足させる為には、成熟社会とは違った大量生産ローコストの製品革命が求められているのであり、そのようなインド人が本当に必要としている製品を供給しない限り、欧米型の価値観を持ち込んだ製品では競争に勝てない。
   頭を白紙の状態に戻して、白紙からローエンドのイノベーションを追求して新しい製品やビジネスモデルを生み出すことが必須だと言うのである。
   これに成功しているのが韓国企業で、電気製品など、インドの需要に完全にマッチした製品をインド国内で開発して生産し市場を押さえていると言う。

   このようなインドが必要とする、インドに適応したモノやサービスを追及した市場戦略が、豊かで巨大な無限の市場を開拓するとして、最貧困層市場をターゲットとした市場戦略を説いたのが、C.K.プラハラードの「ネクスト・マーケット」である。
   欧米では、片足7~8000ドルするような義足よりも遥かに質が良く、しゃがんでも、あぐらをかいても、でこぼこ地面をはだしで歩いてもびくともしない立派な義足を、インド企業がたった50ドルで開発したなどと、多くの実に感動的な例を引きながら、ネクスト・マーケットへの経営戦略を説いている。

   シヨウリー元大臣は、「インテレクチュアル・パートナーシップ」を提言した。
   欧米とは全く違った文化的背景を持つ巨大な大国日本とインドが、知の共創を行えば、世界の文化文明に無限の可能性が生まれる。
   日本の素晴らしい技術や工業力と、インドの悠久の知とエネルギーを結集すれば、素晴らしい価値が創造出来るということであろうか。

   何れにしろ、質の向上と技術の深化のみに傾注して持続的イノベーションを追求する日本企業戦略をどこかで転換しない限り、グローバリゼーションの波に乗りおくれると言うことであろうか。
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