熟年の文化徒然雑記帳

徒然なるままに、クラシックや歌舞伎・文楽鑑賞、海外生活と旅、読書、生活随想、経済、経営、政治等々万の随想を書こうと思う。

映画「デンデラ」~生きることへの賛歌

2011年07月10日 | 映画
   もう半世紀近く前に、今村昌平監督の「楢山節考」と言う、歳老いた老人が口減らしのために山に捨てられる話で、坂本スミ子が、歯を潰してまで打ち込んで主人公を演じた素晴らしい映画を見た。
   ところが、実は、捨てられた老婆たちが、人知れず、独立村「デンデラ」を作って生きていたと言う後日談を、今村監督の子息・天願大介が、映画化したのがこの映画で、私から見たら、同じ世代か少しお姉さんの日本を代表する名女優達50人が、激しく吹き降る極寒の豪雪のなかで、必死になって生き抜こうとする生への執念を燃やす姿を熱演していて、感動的である。

   主人公・斎藤カユを演じる浅丘ルリ子が、村の掟に従って70歳になったので息子に背負われ、姥捨ての場所であるお参り場へと向う雪山のシーンから始まる。一人お参り場に残された彼女は、極楽浄土を願いながら体力が尽きて倒れるが、気が付いてみると、貧しいが必死に生き抜く老女たちの築き上げたデンデラの中。
   カユはデンデラを作った三ツ屋メイ(草笛光子)の元へと連れて行かれ、メイは30年前に山へ捨てられたが生き残り、自分たちを捨てた村人に復讐するため、村を襲撃できるだけの老女が集まるのを待っていたのだが、丁度50人目のカユが来て、時が満ちたと感じたメイは計画の実行を宣言する。
   襲撃前に熊に襲われてメンバーは減ったが、村の夜討ちを目指して行軍して行くが、途中で、大雪崩に遭遇して、メイもろとも多くの住人を失う。
   更に、再度の熊の襲撃を受けて、デンデラは殆ど壊滅状態になるのだが、友を殺されたカユが、復讐のためにとデンデラを出て、豪雪の雪山を必死なって熊を追う。

   この映画は、老婆たちの生きる執念を描いた感動的な映画だが、逆に言えば、痛烈な男社会、無能な男たちが勝手に決めて運営している男社会の仕来りや掟に縛られて弾き出された女たちの、男への復讐を描いた映画でもある。
   同じ、お参り場へ置き去られた男が必死になって助けてくれと懇願するにも拘わらず、男か!と冷然と無視するメイの姿を見ても分かるし、このデンデラで唯一の優しくて人道主義者(?)の倍賞美津子の椎名マサリが、デンデラでさえ捨てられた老婆でも生きて行けるのに普通の村で姥捨てをするのはおかしいと言う言葉にも、貧しさを克服するために何の手立てもせずに、因習に縛り付けられた独善的な男の築き上げた村の掟の無能ぶりが、痛烈に糾弾されている。

   それに、メイに向かって、「復讐しなくても、飢饉になれば、村など一たまりもなく壊滅してしまう」と言うメイサの言葉にも、それが読みとれる。
   氷点下11度と言う吹雪が吹き荒れる豪雪の中で、かって愚かな日本人が鬼畜米英をやっつけるべく、竹やりを握ってエイヤーとやっていたように、襤褸を纏ってよろよろしながら、的を目がけて突進する老婆たち、すなわち、芸歴を積み重ねた名女優たちのいぶし銀のような素晴らしい芸が光っていて、感動の連続である。
   一人、生き抜くために立ち上がったメイは、正に、原始人のように、火を起こして、野山の木々や小さな生き物に齧り付いて生き続けて、そして、少しずつ仲間を増やして、竪穴住居の縄文や弥生時代のような原始生活を続けながら、男社会への復讐に燃え続けたのだが、あまりにも豊かで便利な文明生活に慣れてしまった現在の人には、殆ど分からないかも知れないが、我々、団塊の世代以上の人間の殆どは、あの悲惨な終戦後には、ダイコンの葉っぱや芋のつるを食べて命を生き長られる、これと殆ど違わない生活を送っていた。
   しかし、生きることは生き抜いても、デンデラは、熊や雪崩など自然の脅威には脆かったように、人間の築き上げた文明社会も、一瞬の自然の脅威の前には、如何に脆くて弱いかは、今回の大震災が教えてくれている。

   ところが、問題は、現実の日本で、経済危機のどんどこに呻吟していた上に、更に、大震災にあって壊滅的な打撃を受けたにも拘わらず、右往左往してなすすべもなく、迷走している。その姿と重なって、デンデラの老婆たちの健気な姿が、被災地の人々の姿とダブってしまって、目頭が熱くなってメガネが曇って仕方なかった。
   もう、ここに至っては、既に、行き着くところまで行ってしまった感じで、無為無策で無能極まりないリーダーを頂く日本の悲劇に対して、立ち上がって救世主となる三ツ屋メイは居ないのであろうかと、悲しいけれど、切に願う以外にはない心境である。 
   
   私は、映画の途中、何故か、ブラジルのサトウキビのプランテーションから逃亡した黒人奴隷たちが作ったモカンボとかキロンボと呼ばれる集落を思い出した。
   鞭打たれて働くためのみにアフリカから連れてこられた奴隷たちが、その苦しさに耐え兼ねて死よりましだと逃亡を企てたのだが、当時は、奴隷が安かったので、年間5~10%の割合で死んで行くのだが、通常耐用年数が10年から20年で、あてがう衣食住のコストを勘案しても、2、3年で、十分にペイするので、スペア・パーツのように使い捨てで、どんどん、奴隷輸入を続けていた。
   ポルトガルは、長く、アフリカ奴隷の輸出を独占していたし、赤子は、10年以上も経たないと労働力にならないので、男女の奴隷を輸入しながらも、家庭を営むことは認められず、男たちだけのタコ部屋生活だった。
   奴隷たちが共同生活を営む集落は、17世紀に形を成し、人口が数千人に達したと言うが、当局は、軍隊を派遣して、集落を潰したと言う。

   BRIC’sで脚光を浴びているブラジルの陰の歴史だが、如何に、非人道的な圧政や掟が敷かれていても、悲しいかな、完全に自由で、どんな制約も受けないような独立した新天地など、この地球上にはないのである。
   そして、デンデラの場合も、歳老いた女性ばかりの世界であり、ブラジルのモカンボやキロンボも、男ばかりの世界であり、子孫が生まれる筈のないいつか死滅して行く集落であることが、いかにも寂しくて切ない。
   
(追記)口絵写真は、ホームページから、写真をコピーして借用。
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映画:パイレーツ・オブ・カリビアン/生命の泉

2011年07月09日 | 映画
   これまで、このパイレーツ・オブ・カリビアンのシリーズを見ているが、いつも孫のお伴。今回は、最近、海賊の本を2冊読んで、興味を持ったので、一人で出かけた。
   非常にリアルに良く出来た海賊映画なので、当時の海賊像を反芻してみたいのと、史実とどれだけ違ったフィクションになっているのか、確かめてみようと思ったのである。
   今回の映画は、永遠の生命をもたらすと言われる“生命(いのち)の泉”を巡って、史上最恐の海賊・黒ひげがその伝説の泉を狙って動き出した時、孤高の海賊ジャック・スパロウの前にかつて愛した女海賊アンジェリカが現れ、呪われた航海へと彼を誘うと言う設定だが、これに、英国とスペインの海軍の先陣争いが絡まっていて、元大海賊のバルボッサが、英国王に“生命(いのち)の泉”を探すことを誓って海軍将校へと寝返っていて英国海軍の船長として争うと言う込み入った話になっていて、三つ巴の競り合いが面白い。

   バルボッサが仕えるのは、ジョージ2世(George II, 1683年11月10日 - 1760年10月25日)であるから、丁度、この頃に、海賊抑制改善法が、施行されて、海賊の取り締まりが厳しくなって、この映画でも、冒頭、英国の法廷で、海賊が裁かれる法廷シーンが出てくる。
   政府も、このバルボッサのような名うての海賊を海軍将校として抱き込んで、海賊退治にあたらせたこともあったのかも知れない。

   面白いのは、女海賊のアンジェリカで、スペインの修道院でジャックに誘惑され、修道女から女海賊へと大きく人生を変えたかつてジャック・スパロウが愛した女海賊として登場し、それも、黒ひげの実の娘だと言う設定である。
   ところで、増田義郎教授の「海賊」で書かれている女海賊は、2人だけで、両人とも、この映画よりも少し前のジョージ1世の頃の海賊ジャック・ラムカの一味で、最後まで戦ったが、有罪の判決を受けて絞首刑が確定した。しかし、大きくなったお腹を見せて、刑の執行を猶予してくれと申し出たので、初めて、女性だと分かったのだと言う。
   海賊船の憲法でも、女性の入団は禁止されていて、何者かが、女性を誘惑して、仮装させて海に連れ出したことが判明すれば、死罪となる掟があったので、女海賊の入り込む余地など皆無だった筈なのである。
   尤も、二人の女海賊アン・ボニイとメアリ・リードの場合には、この海賊船に乗り組む前に、子供を儲けており、この船で、メアリをハンサムな若者と思ってアンが恋に陥った時、彼女から自分の性の秘密を打ち明けたのでお互いを女性だと知ったのだと言う。
   したがって、この映画の見どころであるジャックとアンジェリカの男女関係は、現実には有り得ない話なのだが、お互いに愛していると言いながらも、ジャックが、無人島にアンジェリカにピストル1丁を渡して置き去りにすると言うラストシーンが面白い。

   ところで、海軍将校に寝返ったバルボッサだが、人生の目的は、ただ一つ、自分を貶めた黒ひげに復讐することのみで、そのために、英国王の命令に便乗して命の泉を求めて航海する黒ひげを追って行き、復讐を遂げると、黒ひげの海賊船を没収して、海賊船の船長に戻ってしまうあたりは、当時の海賊事情をもの語っていて非常に面白い。
   イギリスやフランスなどは、海賊か海軍か分からないようないい加減な私掠船を使って、スペインなどを略奪して外交を進めていて、エリザベス女王なども、海賊の頭目ドレークをナイトに叙して暴れ回らせていたのであるから、あの頃のヨーロッパ列強と言えども、ガバナンスはフェアどころではなかったのである。

   もう一つは、この映画のサブ・ストーリーとして、宣教師フィリップと人魚のセリーナの恋の物語で、絶対に有り得ない成さぬ恋なのだが、最後に、セリーナが、フィリップを海中に引きづりこんで連れて行く。蒼井優に似た雰囲気の優しいムードのアストリッド・ベルジュ=フリスベの初々しさが何とも言えないほど素晴らしい。このようなピュアーな恋は、私などから見ると実に羨ましい。
   聖杯に、命の泉の水を入れて、人魚の涙を加えて飲めば永遠の命を授かると言う話だが、セリーナは、フィリップの愛を感じて喜びの涙を流すところが良い。
   海賊話に、全くそぐわない挿話だが、そんな爽やかな恋の物語は、清涼剤となり味があって面白い。

   とにかく、3D映画の海賊スペクタクルは、暑気払いには格好の時間つぶしになる。
   ホームページだと、次のように説明されている主人公キャプテン・ジャックスパロウのジョニー・デップのアクロバット顔負けの華麗で優雅な才気煥発の演技が秀逸。
   ”自由を愛し、海を愛し、酒と女を心から愛する孤高の海賊。持ち主が心から望むものへと導く<北を指さない羅針盤>から航路をさぐり当て、誰よりも華麗に船を操る。どんな危機的状況にあっても常に飄々としている男だが、その一方で、自らの目的を成就させる次の布石を抜け目なく打ってくる稀代の策略家。相手を煙にまきながら、いつのまにか有利に交渉ごとを進めていくその話術の巧みさは、まさに天下一品。“流血を好まない海賊”としても名を馳せる。”
   先に、ピーター・T・リーソンの「海賊の経済学」の書評で触れたように、争いを好まず目的を遂げるなどと言うのは、海賊の鑑。ただし、海賊のキャプテンが、ジャックのようにあのような粋な天性のキャプテンであった筈はなく、殆どすべて、正に天下を恐怖に陥れて唸らせた黒ひげのような悪人であったということを忘れてはならない。
   それにしても、女海賊アンジェリカのペネロス・クルスの魅力的なこと。セリーナのアストリッド・ベルジュ=フリスベ共々、海賊にやられ続けていた文明国スペイン人だと言うのが面白い。

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被災地でのベストセラーは大震災写真集

2011年07月08日 | 生活随想・趣味
   先日の大沢在昌氏の講演の冒頭は、被災地の書店訪問レポであった。
   4店舗の内、3店舗が被災して閉鎖中だが、残った1店舗の売り上げは、震災前の4店舗以上で、他の書店やチェーン店でも、オープンしている書店の売り上げは急増していて、一種のバブルの観を呈していると言う。
   どうにか、生活が一段落したら、真っ先に沸き起こるのは、知と情報への渇望。身に沁みて分かるような気がする。
   
   ところで、どこの書店でも、大きく売り上げを伸ばしているのは、大震災関係の写真集やドキュメントなど大震災の状況を報道した関係本だと言うことで、震災当初は、無我夢中で大震災の状況など把握できる状態ではなく、やっと、どうにか落ち着きを取り戻して、あの時は何が起こったのか、今になって現実を知り得る余裕が出来たので、全体像として受け止めようとしているのだと言うのである。
   大震災の記録や写真集を、子供たちに残したいと言う思いもあるのだろうと言う。

   私の場合には、それ程大そうな被害を受けなかった所為か、何故か逆で、出来るだけ早く、あの悲惨な悪夢を忘れ去りたい、早く、以前の現実に戻って欲しいと言う気持ちが強くて、むしろ、大震災関連の写真集やドキュメントを、無理に避けて見ないようにしていると言う感じである。
   特に、最近、一気に、経済学者や知識人が、大震災後の日本の復興や再興などについて、提言本や解説本を著して出版し始めているのだが、私は、これさえ、時期尚早だと思って、まだ、1冊も手にしていない。
   まずと思って、最初に手にしたのは、新潮新書の「復興の精神」で、養老孟司、茂木健一郎、山内昌之と読み進めているところだが、万感胸に迫る思いで、平静心では読めない。私には、まだ、一寸早いのである。

   思い出を追体験したくて、そして、反芻したくて、ドキュメントや写真集を見たいと思うことが結構多い。
   海外旅行の後から、トラベルガイドを買って読んだり、オペラや芝居を観た後でプログラムや解説書を買う人が、結構、多いのも、この傾向であろう。普通は、ことの前に、関連情報を仕入れて、ことに及ぶのだが、後で、思い出しながら知識を加えて経験を反芻する方がはるかに楽しみが深いのだと言う人がいる。
   私の知人で、熱狂的な巨人ファンがいて、巨人が勝てば、テレビは勿論梯子して、ラジオも何回も聞くし、スポーツ新聞は全部買ってきて、「新聞でも勝っている」と全く意味不明の言葉を発しながら悦に入っていた。

   ところで、私は、写真が好きなので、結構、記録写真に拘って、一生懸命に写すのだが、何故か、撮った写真には、あまり執着心はなく、撮ったことさえ忘れてしまうことがある。
   これなどは、記録に残そう、撮っておこうと言う気持ちは強いのだが、一瞬、その時だけで、その一瞬への拘りだけが強いのかも知れない。
   この辺の事情が、私が、あまり、大事件やエポックメイキングな出来事の記録写真やドキュメントに興味が薄い原因かもしれないと思っている。

   そう言えば、これと同じ傾向が、テレビの録画にも現れているようで、随分、熱心に録り貯めていて、本と一緒で、膨大なVHSビデオの山とDVDの集積である。
   最近では、ブルーレイで、録画容量が増えたので、ハイビジョンの映画番組でも、1枚のDVDに、何本も録画が出来るので、多少、DVDの枚数が減って来たが、しかし、一向に減らない。
   どうせ、殆ど見られないのが分かっていても、そして、将来、オンデマンドで、何でも何時でも好きな時に見られるようになるのが分かっていても止められない。
   恋焦がれる思いが、止むことがないのと同じと言うことであろう。

   変な方向に話が展開してしまったのだが、とにかく、私は、あの大震災の悪夢から出来るだけ早く離れたいのだが、いまだに、毎日のように、千葉では、震度3程度の余震が続いていておちおちと出来ない。
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東京国際ブックフェア~大沢在昌氏電子ブックの将来を語る

2011年07月07日 | 展覧会・展示会
   恒例の夏の東京国際ブックフェアが、ビッグサイトで始まったので出かけた。
   今回の基調講演は、作家大沢在昌の「デジタルと紙が並走する時代~作家が考えること、できること~」で、紙媒体の本とデジタル媒体の電子ブックの鬩ぎ合いについて、出版・書店界としてどう対応して行くのか、小説家の立場から語っていて、示唆に富んでいて、結構面白かった。
   残念ながら、私は、推理小説や、ハードボイルドや冒険小説と言ったジャンルには、全く興味がないので、ベストセラーの「新宿鮫」を読んだこともないのだが、有名小説家の見解だと言うことで話を聞いていた。

   数時間のハラハラ・ドキドキを読者に提供する商品を作っているのだと言うことであったが、「新宿鮫」は、既に、糸井重里の「ほぼ日」で、電子版で公開した10まで、20年以上も続く長寿シリーズらしい。
   何故、一銭の金にもならない電子版で、無料で10を公開したのだと言うことだが、シリーズも長くなると、読まず嫌いの読者が多くなって下火になるので、話題性を狙って宣伝のためにやったのだと言う。
   同事務所大極宮の京極夏彦が、電子版を出して話題になり、紙媒体の本が売れに売れたらしい。
   電子版を出すと言うと、自分の将来像の投影でもあり心配なのか、ジャーナリストが押しかけて来て、記事やニュースになり、話題性が増し、他の本にも波及効果が起きて見直されるのであろう。

   大沢氏は、電子ブックの動向を語る前に、苦境に立つ本屋の現実について語った。
   何故、書店が苦しいのか、それは、出版される本が多すぎるのだと言う。
   あまりにも多すぎて、何を、どのように読んだらよいのか、読者が混乱している上に、書店員の給与が安くて、大半がアルバイト店員であり、本に対する知識や愛情が不足しているので、何のアドバイスもアシストも出来ない状態である。薬局に行けば、風邪でも症状を聞いて適切な薬を提供してくれるのと比べれば、カスタマー・サティスファクションどころか、あまりにも、書店は、客をバカにしていると言うことであろうか。
   それに、書店に行けば、出版社別ジャンル別に本が並んでいて、特定の作家の作品を探すのに、あっちこっちの書棚を巡らねばならず、作家別にアイウエオ順に並んでいるブックオフの方が、はるかに探しやすく、ディスプレイも顧客オリエンテッドだと、敵だと言うブックオフにも劣ると言うのだから、書店の凋落は当然だと言わんばかりである。

   私は、本の洪水を止めなければダメだと言う大沢説には賛成で、あまりにも次から次へと新刊本が出版されるので、大型書店を含めて一般書店では、書棚に限りがあるため、話題性のある本や売れる本ばかりを正面に押し出して売っているので、殆ど、何の新鮮味も、価値ある本に遭遇する喜びも、見だし得ないと言う感じである。
   東京の大型書店に出かけて、私の場合には、経済経営ビジネス関連コーナーに出向くことが多いのだが、比較的、重宝しているのは、丸善の丸の内本店で、大体の潮流が分かる。
   しかし、ここに展示されている本は、既に、新聞や雑誌などで承知済みの本が大半であり、至って常識的であり、私が、読みたい新刊書に偶然出会うのは、案外、小さな古書店で、その新刊本(新古書)を買うことがある。専門書を扱っている古書店だと、新刊本が次から次に並び、本の数が少ないので、探し易いのである。

   もう、半世紀以上も、本と付き合っているので、読みたい本については誰よりも良く知っていると思っているので、人の紹介や書評に影響されることもないので、本は、すべて自分の偏見と独断で選んでおり、書店では、聞くなら、その本がどこにあるのかを聞く程度である。
   大体、どんな本を読めば良いのかも分からずに、本屋に出かけて、店員にアドバイスを受けるなどと言う神経が分からないし、大沢氏が、痛く嫌っていたのだが、読みたい本を図書館に行って読むなどと言う気持ちも理解できない。
   学生時代に、シュンペーターの「経済発展の理論」の5巻目が1500円して、買えなかった記憶はあるが、それが唯一で、それ以外は、何千冊になるか分からないが、知と喜びの源泉である本を高いとは思ったことはなく、僅かな例外を除いて、すべて、自分で買って読みつぶしている(尤も、読めない本も多い)。
   
   さて、電子ブックだが、大沢氏の話では、書店に遠慮して、出版社が、電子ブック事業に思い切って踏み込めないのだと言う。
   現在の電子ブックは、高過ぎるのであって、安くすれば、ブックオフを駆逐出来るのだが、今の状態が続くと、異業種からの参入が起こる心配があって、出版業界にマイナスになると言う。
   私には詳しいことは分からないが、電子ブックなどは、デジタル化してデータに落とし込めば、その後の限界コストは、限りなくゼロになり、実質コストはイニシャルコストだけになるので、極めて安くなる筈であり、そうなれば、本の価格は、コンテンツの価値そのものに収束するような気がしており、今以上に、著作権が問題になるような気がしている。それに、課金どころか、無料配信の可能性が、限りなく大きくなってくるとも思っている。

   大沢氏は、出版業界が思い切って電子ブックに本腰を入れて事業展開し、安く提供してブックオフを駆逐すれば、その分、一般書店の売り上げも回復すると言うのだが、聞いていると、本の電子化のスピードを、相当、ゆっくりだと考えているようである。
   私など、インターネットによる電子化で、新聞や雑誌などメディア業界の凋落のあまりにも急速な動きを見ていると、そして、キンドルを筆頭とした各種の良質な電子ブックリーダーデバイスの登場と、電子ブックに対する急速なイノベーションを考えれば、そんな生易しいスピードではなく、紙媒体の本は、チッピングポイントを越えれば、一気に、電子ブックに駆逐されてしまうと思っている。

   本は、読むことに目的と価値があり、紙や電子は、あくまで、媒体であり黒衣に過ぎないのであるから、フィルムカメラがデジカメに駆逐され、グーテンベルクの印刷機が革命を起こしたように、イノベーションに逆らうことは出来ない。
   時代がトランジスターに移っているにも拘わらず、強大な生産設備を抱えていたために真空管を諦めきれずにソニーに出し抜かれた大手電機メーカーと同じように、出版・書店業界にも、イノベーションのジレンマが渦巻いており、急速な方向転換を迫られている。
   私がビジネスクールにいた頃は、本のことは須らくバーンズ&ノーブルであったが、今は見る影もなく、アマゾンの快進撃のみが目立つ。楽天が、百貨店やスーパーを凌駕するのも時間の問題で、デジタルを背負ったビジネスモデルには、絶対に勝てない。
   この東京国際ブックフェアの主役が、本の出版社から、急速に、電子機器、IT、ソフトウエア等々デジタル産業に移っていることも見れば、火を見るより明らかであろう。

   さて、ブックフェアの方だが、半日、あっちこっちを回って楽しませて貰った。
   買った本は、2冊だけ、
   ポール・ケネディ著「世界の運命」、ヘンリー・ポラック著「地球の「最後」を予測する」
   他に、孫たちに、科学書、参考書、そして、外国絵本などを買って帰った。

   洋書のバーゲン・コーナーがあり、ファンで賑わっていた。私は、ECONOMICSやMANAGEMENTの所に行ったが、マンキューのECONOMICSはともかく、こんな本を誰が買うのかと思うような本ばかりであった。
   ところで、このフェアには、ミネルヴァや白水社、東大などの大学出版会など食指の動く高級な本を提供している出版社もブースを持っていて、もう少し若ければ挑戦するのにと思いながら、ウインドーショッピングに止めたが、日本の出版界も捨てたものではないと思った。
   

   
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ポルトガル国債格下げとブラジル

2011年07月06日 | 政治・経済・社会
   ムーディーズ・インベスターズ・サービスが、ポルトガルの国債の格付けを「Baa1」から投機的等級の「Ba2」に4段階引き下げた。
   ロイターは、「ギリシャ危機が一段落した直後だっただけに、今回の格下げショックがイタリアやスペインなど大国に波及する懸念も出ている。金や原油などコモディティ価格が再び上昇の兆しを見せていることも不安材料だ。」と言っている。
   しかし、ポルトガルの経済規模は、「現在の国内総生産(GDP)は2010年で2293億ドル(約18兆円)と、北海道や千葉県とほぼ同じ規模。経済規模がそれほど大きくないうえ、政府の債務残高(2009年)は1208億ユーロで、ギリシャが抱える2980億ユーロの半分以下だ。」と言う。
   ユーロ危機で、ギリシャやポルトガルの破綻が懸念されているのだが、両国とも、経済規模からいえば、どこかのメディアが書いていたが、ドイツが買い取ったら良いと言う程度の大きさで、それ程、騒ぐことではないのかも知れない。
   しかし、これが、スペインやイタリアに波及すると、両国の地下経済の大きさなどを考慮すれば、ユーロの屋台骨を揺すりかねない。

   結局、ギリシャの場合もそうだが、経済成長で税の増収が見込めなければ、国家資産を売却して現金化し、更に、ドラスティックな増税と歳出削減で収支の辻褄を合わせる以外に道がないのだが、経済は生きており、国民生活にもろに圧迫を加えるので、簡単には実行不可能である。
   まず、景気拡大と税収増加は、低迷する先進国経済にも共通する課題だが、財政緊縮策を進めれば益々経済を悪化させるだけで、税収を増やす効果的な経済政策の裏付けが必要だが、弱り目に祟り目で、弱体化した経済には殆ど打つ手がなく、それが問題解決を遅らせる要因になる。 

   ところで、ヨーロッパの弱小国ポルトガルだが、15世紀の後半には、世界に先駆けて大航海時代を先導して、正に、ヨーロッパの先頭を切って、世界に雄飛した、そんな途轍もなく素晴らしい時代があった。
   リスボンのベレンの港には、地面に大きな地図が埋め込まれていて、アメリカからアジアにかけて、ポルトガル人が到達した地点に西暦年が打ち込まれていて、初めて見た時には、大変な感動を覚えた。
   オランダの港でも同じような感慨を覚えたのだが、木端とは言わないまでも、あの装備も程々の小さな船に乗って、荒れ狂う巨大な海洋に乗り出して、殆ど地球上の陸地の姿さえ定かではない目的地に向かって突進したのである。

   ペドロ・アルヴァレス・カブラルが、1500年、第2次インド遠征隊の途中に、喜望峰を目指すために、貿易風に乗って南西へ進み、偏西風に乗って東進する前に、ブラジルを発見したと言うことだが、それも、トルデシリャス条約を締結して大西洋を分割していたお蔭で、偶々、その範囲にブラジルが入っていたので、ポルトガル領ブラジルとなったのだから、犬も歩けば棒にあたる程度の幸運どころではない。

   ところで、私が言いたいのは、思いつきだが、弟分であるブラジルが、兄貴のポルトガルを救済できないかと言うことである。
   実際的な経済協力だけではなく、特に、ポルトガル政府の保有する資産の買い取りによって債務を減らし、積極的な、ポルトガルへの投資によって経済成長を促進することである。
   ブラジル経済は、世界第7位の大国で、今や、新興国のホープBRIC’sの雄である。
   GDPは、2兆900億ドルと言うから、ほぼ、ポルトガルの9倍の規模になり、十分に対応可能であろうし、ブラジル自身、モザンビークなどアフリカへのアプローチを進めているようだし、ポルトガルとの連携によって、ヨーロッパへの架け橋に加えて、ポルトガル圏での経済協力など、ブラジルにとってはプラス要因が多いのではないかと思う。

   ただ、ポルトガルの主要産業が、農業、水産業、食品・繊維工業、観光などだと言うから、ブラジルとの補完的な経済効果やシナジーはそれ程期待できないかも知れないが、成熟国と新興国、ヨーロッパとラテン・アメリカ、と言った異次元のコラボレーション効果は十分に期待できるのではないかと思う。
   ポルトガルの貿易相手は、殆ど、EU諸国で域内貿易が主体なようだが、ポルトガルとブラジルの関係は、かっての欧米の植民地的な搾取関係による宗主国と植民地と言うのではなく、イギリスとカナダ、オーストラリア、ニュージーランドとの関係のように連合国のような性格なので、連携協力は可能なような気がする。
   まして、一時は、ポルトガル王室がブラジルに移って連合王国を形成していたことがあるのである。
   同じ、国家資産を売却するにしても、競争相手のヨーロッパの国よりも、いわば、血を分けた共通の子孫に買って貰った方が良いと思うのだが、お互いにどうであろうか。
   

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トマト栽培日記2011~(12)色付き始めたトマトから賞味

2011年07月04日 | トマト・プランター栽培記録2011
   大玉トマトとクック・トマト以外の、中玉、ミニ、マイクロの各トマトは、片っ端から色づき始めたので、赤や黄色に程よく色づいた頃合いを見計らって収穫している。
   しめて50本ばかり植えたのだが、今のところ、収穫量と言っても、それ程多くはなく、それに、種類がまちまちなので、楽しむと言う感じではない。
   テキストや園芸本には、実房一杯に真っ赤に色付いたトマトの写真が載っているのだが、ミニトマトなど、それを待っていると何時までかかるのか分からないし、それに、色付いたトマトの魅力に負けてしまって、順番に、もいでしまう。

   この口絵写真は、トマトベリーで、色が深い赤で、光沢があって実に美しい。
   中央の枝の左右に一列に実が並んで付き、株元から少しずつ色づいて行く。
   他のミニトマトもそうだが、大体、下から結実して完熟して行くのだが、必ずしも、一番花房から色づいたり、結実したりするとは限らない場合があり、それが、大玉トマトになると、結構、ランダムなので頻繁に見られ、今回は、結実後の落果が多いので、途中をとばして上の方で肥大し始めたりしている。
   いずれにしろ、桃太郎ゴールドは、どうにか綺麗に色付き始めて、昨年の半分くらいは収穫出来そうだが、桃太郎ファイトの方は散々で、来年は、趣向を変えて、サカタとデルモンテの大玉に切り替えようかと思っている。
   尤も、大玉トマトは、苗の問題ではなく、育て方に問題があるのだろうと思う。
   本当は、一日中日当たりが良くて、スペースの十分にある畑での栽培が良いのであろうが、小さな庭の空間を利用してプランター植えしているので、葉が混みあって錯綜している状態ではと思ったりしている。

   ティオ・クックとクック・ゴールドの料理用トマトは順調に育っていて、少し色づき始めて来た。
   どんな味がするのか分からないが、昨年の例では、味が非常に淡泊で癖がなく、生食にも良かったので、どんな料理にするか、楽しみにしている。
   変った雰囲気に興味を持って植えたピュア・クリームだが、先日、黄色みを帯びて色づき始めた実を、少し押さえて見たら、軟らかかったので、取って食べてみたら、殆ど味のない全く淡泊なトマトであった。
   軟らかいので、料理には向かないのだが、どんな味に変るのか、完熟するまで待って様子を見ようと思っている。
   
   マイクロトマトは、草花を栽培していると言った調子だが、小さな実が沢山出来て面白い。
   味そのものは、平均的なトマト味だが、何となく、皮が硬い感じで、食用と言うよりは、料理の盛り付け飾り付け用に重宝するのではないかと思う。
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ファカルティ・ディベロップメントと大学の高校化

2011年07月03日 | 政治・経済・社会
   先にレビューした「サンデル教授の対話術」の第2部の「現代に蘇るソクラテス的対話」中で、小林正弥教授が、日本の大学教育について、由々しき現状を語っている。
   最近の学生は自発的に勉強しなくなっているので、教師が高校までのように親切に教えるように求められ、「毎回の講義にレジュメを用意して具体的な内容を記しておく。パワーポイントなどを用意して、講義を分かり易くする」と言ったように、学生が自発的・能動的な学習意欲を持たないと言う前提で、教師がそれに合わせて降りて行って教えようと言う方法・FD(ファカルティ・ディベロップメント)が、強調されるようになっているようである。
   高校まで○×式の教育に慣れ、受験勉強では、カラフルで丁寧な教材や参考書があり、たとえば予備校や塾の先生方は可能な限り親切に教えてくれるので、そのような教育に慣れた学生に対して、同じような教育方式を持ち込もうとするFDは、大學の教師に、高校までのように教えることを求めることで、正に、大学の高校化だと言うのである。

   私自身、日本の大学を出て、その後、米国のビジネス・スクールを出てから随分経つており、時々、COEの公開講座で、東大や早稲田などの大学の講座などに参加している程度で、現在の大学教育の現場は、全く知らないので何とも言えないのだが、少し、前に、ミラノ大学の教室に潜り込んで、授業らしき雰囲気を味わったこともあり、大學の階段教室などで学生に混じり込むのは好きな方である。
   この大学の高校化の影響なのかは分からないが、この頃、フォーラムやセミナーやシンポジウムなどに参加していて、嫌に、綺麗で懇切丁寧なパワーポイントを使ったものが多く、それに、大部な資料を配布されたりすることが多くなったような気がする。

   私は、これまで、何回も日本の教育制度の問題点などについて論じて来たので、もし、小林教授のFDと大學の高校化が現実なら、日本の国際的地位の下落や凋落について、経済や政治などの面から論じられることが多いのだが、本当は、日本は、屋台骨から腐りかけているのではないのかと、思わざるを得なくなった。
   最近、ブックレビューの、中嶋嶺雄著「世界に通用する子供の育て方」の中で、国際教養大学の驚異的な大躍進と大学教育革命について紹介しながら、日本の大学の致命的欠陥は、リベラル・アーツ教育の極端な軽視と、中途半端な専門教育にあることなど、少し、持論を展開した。
   その中で、日本人が、国際舞台で認知されず活躍出来ないのは、グローバルの檜舞台では常識である筈の学位(大学院)を持った者が殆どいないことで、同時に、世界に通用する高等教育機関を通じて同じ知的経験を重ねた者が少なく、檜舞台で丁々発止の対話が不可能だからであることに振れたが、その大学院以前の、単なる教養課程にしか過ぎない大学でさえ、勉強しない上に勉強が出来ない学生ばかりを育て輩出しているようでは、お先真っ暗としか言いようがない。

   ICT革命で、知が爆発し、無限に知の集積が進んで行く今日では、知識と言う問題に限って言っても、勉強しすぎると言うことは、有り得ないので、スパルタ教育さえ生ぬるいとしか言いようもなく、その上に、知識水準にさえ問題のある日本の大学の教師から、噛んで含むように教えられても、タカが知れており、瞬時に賞味期限が切れて陳腐化してしまって使いものにならない筈である。
   学生自身が、確固たる目的意識を持って、意気に燃えて、自分自身で一目散に自走できるような教育環境を整えて、切磋琢磨して明日を目指す以外に王道はない。
   小林教授は、サンデル流の対話術を日本の大学に導入して大学教育改革を図ることを提案しているが、これも、一つの試みであろう。

   まず、その前に、日本の大学を、専門教育の場ではなく、リベラル・アーツ教育の場、サンデル教授の言を引用すれば、たとえば、民主的市民を作り出すための共通善や公共的美徳を涵養することの重要性を教えて考えさせ哲学する場、に変換し、専門教育は、一切、大学院レベルのプロフェッショナル・スクールや博士課程で行うと言うグローバル・システムに合わせることである。
   その意味では、旧制の高校・大学制度の方が良かったと言うべきで、マッカーサーに押し切られた日本の教育制度を、今こそ、根本的に見直すべき時期ではないであろうか。
   一刻を争わなければ、国債問題の深刻化の前に、日本の凋落が、益々、加速して行くような気がしている。
   
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マイケル・サンデル・小林正弥著「サンデル教授の対話術」

2011年07月02日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   日本におけるサンデル学(?)の伝道者とも言うべき千葉大学の小林正弥教授が、教授との問答形式の対話を中心に、サンデル教授の対話術の秘密を解き明かし、更に、日本において、この手法を定着させるためにはどうすれば良いかなどについても論述している興味深い本である。
   対話形式の授業は、私など、ウォートン・スクール時代に多少経験しているビジネス・スクールのケース・スタディとあい似た形式であるし、それに、弁論術は勿論のこと、相手に如何にして自分の主張や意思を伝達するか、或いは、説得するかと言ったコミュニケーションを重視した授業は、欧米では、子供のころから学校で教えていて、珍しいことではない。
   小林教授も似たことを語っているが、例えば、ビジネス・スクールのケース・スタディの場合、某企業の労働争議がテーマだとすると、問題を詳細に記述したケース・ブック以外に、その企業や業種などに関する書物や資料、労働法等関連法規、労働組合や労働争議等に関する専門書や参考書、その他関連する参考文献など沢山の教材が、リーディング・アサインメントとして課されるので、事前に、それら(時には数百ページ)を、十分読みこなして準備を整えて授業に出ることになり、教授も学生も全員、当該のケースについては、十分に予備知識があり、即その場から臨戦態勢の議論が始まる。
   したがって、教授方法が根本的に違うのであって、日本の大学の授業のように、学生がろくすっぽ予習もして来ずに、教授が一方的に喋って授業を進めて、試験の時に、教えられたことを正確に回答すれば合格点が貰えると言うスタイルでは、サンデル式の対話術など、簡単に根付く筈がない。

   さて、私が、この本を読んで興味を持ったのは、対話術ではなくて、サンデル教授の思想、特に、グローバリゼーションや現代資本主義に関する考え方で、対話術では、あまり、はっきりと自分の考えや結論を明言しないのだが、共通善における公民的美徳を強調するコミュニタリアン的な考え方を明確に語っていて、非常に興味深かったのである。
   グローバル資本主義は、相当な成果を上げたが、コミュニティや伝統を侵食し、家族構造や相互扶助・健康における支援のコミュニティを破壊し社会の骨組みを解体させるなど、社会的混乱の一因となっている。社会民主主義的なヨーロッパでも、コミュニティや道徳規範、非市場の規範の浸食に直面し、家族生活、健康、教育、公民権、公共的サービスのような分野において、市場の価値と非市場の規範の間に対立が存在すると言うのである。

      また、市場は、繁栄と豊かさを増加させ生産活動を組織化するうえでは、非常に有効な道具だが、市場経済は、あくまで手段、道具として利用すべきものであって、目的自体を定義するようになったり、私たちのコミュニティや私たちの普段の生活の本質を定義するようになるのは危険である。
   市場は、正義に適う社会を定義することも、公共善を定義することも出来ないのは当然で、公共善を達成する上で主要な手段では有り得ないにも拘らず、私たちが、今直面している危機は、市場的な考えが、私たちが一緒になって理性的に論じて行くべき諸領域にまで入り込んでいることである。
   経済学は、「何が良き社会を作るのか。何が正義に適った社会を作るのか」と言う問題には答えてくれず、これは、政治的・道徳的な問題で、ある程度スピリチュアルな問題も含まれている。
   したがって、このような公共善に関する問題、教育政策、医療政策、軍事政策、或いは、「厳密には何が市民の責務なのか」と言ったことなど、重要な道徳的・政治的・精神的な問題について、意見が一致しない場合が多いが故に、真の民主的な熟議を行う必要があるのだと説く。

   サンデル教授の考えているグローバル資本主義とは、グローバルベースで、市場経済が猛威を振るって進行する資本主義と言う感じで、多少、現実認識でニュアンスの差があるのだが、見えざる手の導きによって合理的に生産された財やサービスが、社会的な善を考えたり、評価するための方法や基準にまで入り込んでしまって、人間社会の秩序やシステムを破壊しつつあるところに問題があると言うことであろう。
   過度の個人主義に反対し、積極的に民主的市民を作り出すために共通善の重要性を説き、公共的美徳を涵養することの重要性を強調し続けるサンデル教授にとっては、利の追及に翻弄されて根無し草のように突っ走るマーケットメカニズムをエンジンとしたグローバル資本主義は、正に、リバイヤサンと言うことであろうか。
   オーストリア学派やミルトン・フリードマン流の市場経済重視の経済学には、勿論、程遠く、リベラリズム、功利主義的なリバタリアニズムとも相容れないサンデル教授のネオ・コミュニタリアニズム的な考え方が色濃く出ていて興味深い。

   ところで、後半の「今日における正義と哲学」と言う段落で、哲学の重要性に触れて、
   毎日遭遇し紛争の起こる世界においては、その意見の不一致を明確にし、同意できる領域を見極めると言う点で、哲学は大変重要な役割を担うのだが、正に、今日のように、文明や文化のグローバルの出会いが頻発する世界こそ、哲学の重要性が果てしなく増大する。
   文明の衝突を恐れる人が居るが、むしろ、文明の出会いこそが哲学的には興奮を呼ぶテーマで、豊かな哲学的伝統を持った文明や文化同士がグローバルナ公共圏で出会った時に新しい種類の公共哲学が生まれる切っ掛けになるとして、その後、哲学と宗教との関係を論じている。

   ここで、私が言いたいのは、グローバルベースでの文化や文明の出会いは、サンデル教授が忌避するグローバリズムの、正に、その一環であって、グローバル資本主義あってこその展開だと言う重要な点を見落としてはならないと言うことである。
   暴走する資本主義を何の手も打たずに放置しておいて、市場が悪い、自由競争が悪い、と言う理論展開だけが独り歩きし過ぎていることが問題で、要は、マーケット・メカニズムに翻弄される人間そのものの責任だと言えないこともない。

   
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三菱UFJフィナンシャル・グループ株主総会

2011年07月01日 | 経営・ビジネス
   三井住友と同日開催であったのだが、今年も、結局、武道館で開催された三菱UFJの株主総会の方に出た。
   新聞報道によると、三井住友の方は、東電のメインバンクなので、株主質問の半分は、東電への債権放棄など東電関連だったと言うことで、かなり、テンションが高かったようだが、三菱UFJの方は、三菱UFJモルガン・スタンレー証券の相場見通しの誤まりによるかなり巨額の損失くらいで、特に、問題もなかったので、至って常識的な質問ばかりで、平穏に終わった。
   株主優待を今年もやるのかどうかと質問して、実施するとの回答を聞いたら、もう用無しと、さっさと会場を後にした株主が居るような総会だから、荒れる訳がない。

   バーゼルⅢ対応について、質問があった。
   既に、十分な自己資本比率を確保しているので、更なる増資等は必要ないとしているが、三菱のような大手行については、「中核的自己資本」の比率の7%に、自己資本比率を1・0~2・5%上乗せされる可能性もあり、株主にしてみれば、増資による株式の希薄化で、更に、株の下落が生じたら堪らないと言う気持ちがあるのであろう。

   株があまりにも低くて、一向に上昇の気配がないので、イラついた株主が、経営者を詰問していたが、銀行側も、株価のアップは最大の使命だと考えており、現状には満足していないと、丁寧に説明していた。
   株価は、市場の需給関係にて決まるので致し方はないが、利益を高めて企業価値を向上されることが、株価アップにつながり、会社の成長戦略が最も重要な意味を持つとして、そのための重点施策として3点を強調していた。
   海外事業、特に、アジア市場でのネットワーク充実と事業の拡大、モルガン・スタンレーとのコラボレーションによるCIB戦略の推進と業務の拡大・充実(M&A,シンジケートローン、海外投資)、アセットマネジメントの拡大強化、である。
   今年は、中期経営計画の最終年度にあたるので、持続的成長の実現が目標だと言うのだが、前述した三菱UFJモルガン・スタンレー証券が多額の特定取引損失を計上するなど、リスク管理の甘さが表面化している現状では、中期計画の諸段階の経営基盤の再構築は、完了したとは到底思えない。
   いずれにしろ、株価については、銀行株自体が、現状では、異常に過小評価されており、PERが7前後で、PBRが0.7では、潰れない限りは、気長に待つ以外にないと思う。

   国債保有の問題と金利の上昇についても、株主は、質問していた。
   長期金利については、上がると考えており、銀行としてもトップリスクで、1%金利が上がると、1兆円の評価損が出るので、更に短期に切り替えるなど、平均3年40兆の国債の足元を絶えず確認しながら対処していると言う。
   低金利政策について、永易社長の見解を聴きたいと株主に指名されて、今まで、回答をすべて担当役員に振っていた社長が、初めて、総会終了直前になって、回答に立った。
   低金利は、大きな金の流れが変わってきた結果である。以前は、金は、個人と政府から企業に回っていたが、今日では、唯一の借り手は政府で、企業は金を借りなくなった。
   金利がゼロ金利で安くても資金需要がなくて借り手がないので、金利が上がれば、益々、借りなくなる。
   しかし、このような低金利がこのまま長く続く筈がなく、金利が上昇する経済局面に入って行くであろう。
   こんな話だったと思う。

   将来、金利が上昇すると言うことは、銀行トップの共通認識だとすると、いずれにしろ、多額の国債保有については、将来、大きな問題を惹起することは間違いなさそうである。
   しかし、それはそれとして、問題が表面化する前に、銀行としては、必死になって、経営基盤を強化しつつ、成長戦略を果敢に推進して、利益を叩き出せる業務分野に業務をシフトして、利益を積み増して内部留保を厚くして自己資本の充実を図って行こうと言うことであろう。
   
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