もう半世紀近く前に、今村昌平監督の「楢山節考」と言う、歳老いた老人が口減らしのために山に捨てられる話で、坂本スミ子が、歯を潰してまで打ち込んで主人公を演じた素晴らしい映画を見た。
ところが、実は、捨てられた老婆たちが、人知れず、独立村「デンデラ」を作って生きていたと言う後日談を、今村監督の子息・天願大介が、映画化したのがこの映画で、私から見たら、同じ世代か少しお姉さんの日本を代表する名女優達50人が、激しく吹き降る極寒の豪雪のなかで、必死になって生き抜こうとする生への執念を燃やす姿を熱演していて、感動的である。
主人公・斎藤カユを演じる浅丘ルリ子が、村の掟に従って70歳になったので息子に背負われ、姥捨ての場所であるお参り場へと向う雪山のシーンから始まる。一人お参り場に残された彼女は、極楽浄土を願いながら体力が尽きて倒れるが、気が付いてみると、貧しいが必死に生き抜く老女たちの築き上げたデンデラの中。
カユはデンデラを作った三ツ屋メイ(草笛光子)の元へと連れて行かれ、メイは30年前に山へ捨てられたが生き残り、自分たちを捨てた村人に復讐するため、村を襲撃できるだけの老女が集まるのを待っていたのだが、丁度50人目のカユが来て、時が満ちたと感じたメイは計画の実行を宣言する。
襲撃前に熊に襲われてメンバーは減ったが、村の夜討ちを目指して行軍して行くが、途中で、大雪崩に遭遇して、メイもろとも多くの住人を失う。
更に、再度の熊の襲撃を受けて、デンデラは殆ど壊滅状態になるのだが、友を殺されたカユが、復讐のためにとデンデラを出て、豪雪の雪山を必死なって熊を追う。
この映画は、老婆たちの生きる執念を描いた感動的な映画だが、逆に言えば、痛烈な男社会、無能な男たちが勝手に決めて運営している男社会の仕来りや掟に縛られて弾き出された女たちの、男への復讐を描いた映画でもある。
同じ、お参り場へ置き去られた男が必死になって助けてくれと懇願するにも拘わらず、男か!と冷然と無視するメイの姿を見ても分かるし、このデンデラで唯一の優しくて人道主義者(?)の倍賞美津子の椎名マサリが、デンデラでさえ捨てられた老婆でも生きて行けるのに普通の村で姥捨てをするのはおかしいと言う言葉にも、貧しさを克服するために何の手立てもせずに、因習に縛り付けられた独善的な男の築き上げた村の掟の無能ぶりが、痛烈に糾弾されている。
それに、メイに向かって、「復讐しなくても、飢饉になれば、村など一たまりもなく壊滅してしまう」と言うメイサの言葉にも、それが読みとれる。
氷点下11度と言う吹雪が吹き荒れる豪雪の中で、かって愚かな日本人が鬼畜米英をやっつけるべく、竹やりを握ってエイヤーとやっていたように、襤褸を纏ってよろよろしながら、的を目がけて突進する老婆たち、すなわち、芸歴を積み重ねた名女優たちのいぶし銀のような素晴らしい芸が光っていて、感動の連続である。
一人、生き抜くために立ち上がったメイは、正に、原始人のように、火を起こして、野山の木々や小さな生き物に齧り付いて生き続けて、そして、少しずつ仲間を増やして、竪穴住居の縄文や弥生時代のような原始生活を続けながら、男社会への復讐に燃え続けたのだが、あまりにも豊かで便利な文明生活に慣れてしまった現在の人には、殆ど分からないかも知れないが、我々、団塊の世代以上の人間の殆どは、あの悲惨な終戦後には、ダイコンの葉っぱや芋のつるを食べて命を生き長られる、これと殆ど違わない生活を送っていた。
しかし、生きることは生き抜いても、デンデラは、熊や雪崩など自然の脅威には脆かったように、人間の築き上げた文明社会も、一瞬の自然の脅威の前には、如何に脆くて弱いかは、今回の大震災が教えてくれている。
ところが、問題は、現実の日本で、経済危機のどんどこに呻吟していた上に、更に、大震災にあって壊滅的な打撃を受けたにも拘わらず、右往左往してなすすべもなく、迷走している。その姿と重なって、デンデラの老婆たちの健気な姿が、被災地の人々の姿とダブってしまって、目頭が熱くなってメガネが曇って仕方なかった。
もう、ここに至っては、既に、行き着くところまで行ってしまった感じで、無為無策で無能極まりないリーダーを頂く日本の悲劇に対して、立ち上がって救世主となる三ツ屋メイは居ないのであろうかと、悲しいけれど、切に願う以外にはない心境である。
私は、映画の途中、何故か、ブラジルのサトウキビのプランテーションから逃亡した黒人奴隷たちが作ったモカンボとかキロンボと呼ばれる集落を思い出した。
鞭打たれて働くためのみにアフリカから連れてこられた奴隷たちが、その苦しさに耐え兼ねて死よりましだと逃亡を企てたのだが、当時は、奴隷が安かったので、年間5~10%の割合で死んで行くのだが、通常耐用年数が10年から20年で、あてがう衣食住のコストを勘案しても、2、3年で、十分にペイするので、スペア・パーツのように使い捨てで、どんどん、奴隷輸入を続けていた。
ポルトガルは、長く、アフリカ奴隷の輸出を独占していたし、赤子は、10年以上も経たないと労働力にならないので、男女の奴隷を輸入しながらも、家庭を営むことは認められず、男たちだけのタコ部屋生活だった。
奴隷たちが共同生活を営む集落は、17世紀に形を成し、人口が数千人に達したと言うが、当局は、軍隊を派遣して、集落を潰したと言う。
BRIC’sで脚光を浴びているブラジルの陰の歴史だが、如何に、非人道的な圧政や掟が敷かれていても、悲しいかな、完全に自由で、どんな制約も受けないような独立した新天地など、この地球上にはないのである。
そして、デンデラの場合も、歳老いた女性ばかりの世界であり、ブラジルのモカンボやキロンボも、男ばかりの世界であり、子孫が生まれる筈のないいつか死滅して行く集落であることが、いかにも寂しくて切ない。
(追記)口絵写真は、ホームページから、写真をコピーして借用。
ところが、実は、捨てられた老婆たちが、人知れず、独立村「デンデラ」を作って生きていたと言う後日談を、今村監督の子息・天願大介が、映画化したのがこの映画で、私から見たら、同じ世代か少しお姉さんの日本を代表する名女優達50人が、激しく吹き降る極寒の豪雪のなかで、必死になって生き抜こうとする生への執念を燃やす姿を熱演していて、感動的である。
主人公・斎藤カユを演じる浅丘ルリ子が、村の掟に従って70歳になったので息子に背負われ、姥捨ての場所であるお参り場へと向う雪山のシーンから始まる。一人お参り場に残された彼女は、極楽浄土を願いながら体力が尽きて倒れるが、気が付いてみると、貧しいが必死に生き抜く老女たちの築き上げたデンデラの中。
カユはデンデラを作った三ツ屋メイ(草笛光子)の元へと連れて行かれ、メイは30年前に山へ捨てられたが生き残り、自分たちを捨てた村人に復讐するため、村を襲撃できるだけの老女が集まるのを待っていたのだが、丁度50人目のカユが来て、時が満ちたと感じたメイは計画の実行を宣言する。
襲撃前に熊に襲われてメンバーは減ったが、村の夜討ちを目指して行軍して行くが、途中で、大雪崩に遭遇して、メイもろとも多くの住人を失う。
更に、再度の熊の襲撃を受けて、デンデラは殆ど壊滅状態になるのだが、友を殺されたカユが、復讐のためにとデンデラを出て、豪雪の雪山を必死なって熊を追う。
この映画は、老婆たちの生きる執念を描いた感動的な映画だが、逆に言えば、痛烈な男社会、無能な男たちが勝手に決めて運営している男社会の仕来りや掟に縛られて弾き出された女たちの、男への復讐を描いた映画でもある。
同じ、お参り場へ置き去られた男が必死になって助けてくれと懇願するにも拘わらず、男か!と冷然と無視するメイの姿を見ても分かるし、このデンデラで唯一の優しくて人道主義者(?)の倍賞美津子の椎名マサリが、デンデラでさえ捨てられた老婆でも生きて行けるのに普通の村で姥捨てをするのはおかしいと言う言葉にも、貧しさを克服するために何の手立てもせずに、因習に縛り付けられた独善的な男の築き上げた村の掟の無能ぶりが、痛烈に糾弾されている。
それに、メイに向かって、「復讐しなくても、飢饉になれば、村など一たまりもなく壊滅してしまう」と言うメイサの言葉にも、それが読みとれる。
氷点下11度と言う吹雪が吹き荒れる豪雪の中で、かって愚かな日本人が鬼畜米英をやっつけるべく、竹やりを握ってエイヤーとやっていたように、襤褸を纏ってよろよろしながら、的を目がけて突進する老婆たち、すなわち、芸歴を積み重ねた名女優たちのいぶし銀のような素晴らしい芸が光っていて、感動の連続である。
一人、生き抜くために立ち上がったメイは、正に、原始人のように、火を起こして、野山の木々や小さな生き物に齧り付いて生き続けて、そして、少しずつ仲間を増やして、竪穴住居の縄文や弥生時代のような原始生活を続けながら、男社会への復讐に燃え続けたのだが、あまりにも豊かで便利な文明生活に慣れてしまった現在の人には、殆ど分からないかも知れないが、我々、団塊の世代以上の人間の殆どは、あの悲惨な終戦後には、ダイコンの葉っぱや芋のつるを食べて命を生き長られる、これと殆ど違わない生活を送っていた。
しかし、生きることは生き抜いても、デンデラは、熊や雪崩など自然の脅威には脆かったように、人間の築き上げた文明社会も、一瞬の自然の脅威の前には、如何に脆くて弱いかは、今回の大震災が教えてくれている。
ところが、問題は、現実の日本で、経済危機のどんどこに呻吟していた上に、更に、大震災にあって壊滅的な打撃を受けたにも拘わらず、右往左往してなすすべもなく、迷走している。その姿と重なって、デンデラの老婆たちの健気な姿が、被災地の人々の姿とダブってしまって、目頭が熱くなってメガネが曇って仕方なかった。
もう、ここに至っては、既に、行き着くところまで行ってしまった感じで、無為無策で無能極まりないリーダーを頂く日本の悲劇に対して、立ち上がって救世主となる三ツ屋メイは居ないのであろうかと、悲しいけれど、切に願う以外にはない心境である。
私は、映画の途中、何故か、ブラジルのサトウキビのプランテーションから逃亡した黒人奴隷たちが作ったモカンボとかキロンボと呼ばれる集落を思い出した。
鞭打たれて働くためのみにアフリカから連れてこられた奴隷たちが、その苦しさに耐え兼ねて死よりましだと逃亡を企てたのだが、当時は、奴隷が安かったので、年間5~10%の割合で死んで行くのだが、通常耐用年数が10年から20年で、あてがう衣食住のコストを勘案しても、2、3年で、十分にペイするので、スペア・パーツのように使い捨てで、どんどん、奴隷輸入を続けていた。
ポルトガルは、長く、アフリカ奴隷の輸出を独占していたし、赤子は、10年以上も経たないと労働力にならないので、男女の奴隷を輸入しながらも、家庭を営むことは認められず、男たちだけのタコ部屋生活だった。
奴隷たちが共同生活を営む集落は、17世紀に形を成し、人口が数千人に達したと言うが、当局は、軍隊を派遣して、集落を潰したと言う。
BRIC’sで脚光を浴びているブラジルの陰の歴史だが、如何に、非人道的な圧政や掟が敷かれていても、悲しいかな、完全に自由で、どんな制約も受けないような独立した新天地など、この地球上にはないのである。
そして、デンデラの場合も、歳老いた女性ばかりの世界であり、ブラジルのモカンボやキロンボも、男ばかりの世界であり、子孫が生まれる筈のないいつか死滅して行く集落であることが、いかにも寂しくて切ない。
(追記)口絵写真は、ホームページから、写真をコピーして借用。