熟年の文化徒然雑記帳

徒然なるままに、クラシックや歌舞伎・文楽鑑賞、海外生活と旅、読書、生活随想、経済、経営、政治等々万の随想を書こうと思う。

ロバート・D・カプラン著「地政学の逆襲」(1)「無国籍の権力」

2016年07月10日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   この本を読んでいて、子供の頃に一番好きであった教科が、地理、特に、世界地理であったことを思い出した。
   このカプランの本のタイトルは、The Revenge of Geography: What the Map Tells Us About Coming Conflicts and the Battle Against Fate。
   「地理の逆襲 地図が運命に対して迫りくる混乱や戦いについて我々に語っていること」
   地政学と言うよりは、日本版のサブタイトルの「影のCIAが予測する覇権の世界地図」が示しているように、地図、地理が、戦争と平和、すなわち、国際外交、国際戦略などに、どのような役割を果たしているのかと言う、非常に興味深いトピックスを論じているのである。

   ヘロドトスあたりから説き起こして、マッキンダーのハートランド論やスパイクマンのリムランド論は勿論、目まぐるしく展開する地球上の戦争と平和、文化文明の移動等々、地政学や国際外交など、地理を巡って繰り広げられる興味深い話題満載。
   今、中近東やアフリカで展開されている国際紛争や、米ソ、米ロの鬩ぎ合い等々、風雲急を告げている熾烈な国際情勢の謎が解き明かされるなど、非常に面白い。

   したがって、現下の国際情勢について、非常に興味深い話題を随所で論じているので、レビューと言うよりは、夫々重要だと思ったトピックスに焦点を絞って、考えてみたいと思っている。

   まず、今回の課題は、国家は重荷であるとする「無国籍の権力」、すなわち、「統治する責任を負わずに権力だけを求める」準国家の集団についてである。
   レバノンのヒズボラは、ベイルートの政府をいつでも望む時に転覆させ得るが、敢えてそうしないのは、国家は特定の原則に従わなければならず、その為狙われやすくなるからだと言う、このヒズボラの様な集団組織である。

   現在の情報通信・軍事技術を利用して、こうした集団は組織化し、海外に支援を求め、殺傷兵器で武装して、国家が独占している手段を獲得している。産業革命では大きいこと(戦闘機、戦車、空母など)がよしとされたが、脱産業革命では、小さいこと(小型爆弾、プラスチック爆弾など)がものを言う。国家に属さない小規模な集団は、新時代の小型化の恩恵を受けている。実際に、テロ集団や反政府集団など不穏分子が、国家を持つべきでない理由は増える一方である。とヤクブ・グリギエルは説いている。

   国家が互いに破壊する能力が高いほど、また、大国の力が大きければ大きいほど、国家を持つことは、特に、既存権力に挑戦しようとする集団にとっては、危険になる。
   国家的地位では決して実現できない宗教的情熱やイデオロギー的過激主義に触発された、絶対主義的な目標を掲げる者たちには、国家はまるでなじまない。と言うのである。

   レバノンをはじめとして、スリランカのタミール・イーラム解放の虎、インドの共産党毛沢東主義派集団ナクサライト、パキスタンの親タリバン勢力やパシュトーン人部族集団、アフガニスタンのタリバン、イラクの内戦で活躍した民兵組織などは、その存在する地形に根ざした準国家の地上部隊だと言う。
   ナイジェリア、イエメン、ソマリアなどは、国家として殆ど機能しておらず、準国家の民兵組織に牛耳られている。
   最早、これら準国家の集団は、単なる反政府抵抗勢力やテロ集団の域を越えて、国家転覆を図らずに、国家内国家の体を示して、実質的に国家の命運を握っている。

   精密誘導ミサイルでピンポイントで正確に敵陣を破壊できる時代に、ターバンを巻いた少人数の部隊は、複雑に入り組んだ山岳地帯の地形を利用して、超大国を悩ませることが出来ると言うこの現実。こうした民兵組織こそ、地理の逆襲の好例だと言うのである。

   国家ではない特権(?)と利点をフルに活用して、ガンのように増殖して国家を蝕み、国際紛争をグローバル規模で展開する。
   イスラム国家ISは、国家を標榜するアミーバ国家のような存在だが、国家ではないが故に、如何なる国際機関も国家も、交渉さえ不可能であり、欧米など壊滅すべく戦えども、一向に勢いが衰えず、最先端のICTや科学技術を駆使して変貌を遂げて拡大を続けている。
 
   話は、一気に飛ぶが、Brexitで英国は、EUから離脱すると言う。
   国家、Nation-state、とは、一体何なのか。
   
   それを考える前に、次回は、何故、イスラム圏で過激集団が暗躍するのか、都市化への激流の中で展開される世界の潮流について考えてみたいと思う。
   
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七月大歌舞伎・・・夜の部『荒川の佐吉』『鎌髭』『景清』

2016年07月09日 | 観劇・文楽・歌舞伎
   今月の歌舞伎座の舞台は、猿之助と海老蔵、市川家の舞台である。
   既に代替わりして大分経つこともあって、堂々たる舞台を見せて観客を楽しませている。

   まず、今回観たのは、夜の部で、『荒川の佐吉』、それに、壽三升景清の歌舞伎十八番の内『鎌髭』と『景清』。
   しみじみと感動させてくれる真山青果の新歌舞伎「荒川の佐吉」は、猿之助の佐吉の絶品の舞台で、二年前に新橋演舞場で通しで演じられた壽三升景清の二つの演目は、正に、成田屋の一八番で、海老蔵が團十郎ゆかりの素晴らしい舞台を見せてくれた。

   「荒川の佐吉」は、正真正銘の芝居そのもので、蜷川シェイクスピア戯曲でも素晴らしいキャラクターを演じてきた猿之助の新境地を見たような思いの、感動的な舞台であった。

   「江戸絵両国八景」と言うタイトルがついている 真山青果の「荒川の佐吉」だが、その美しい詩情豊かなイメージを感じさせてくれるのは、幕切れの夜明け前の桜が満開の薄暗い向島の土堤の茶屋のある風景で、目が見えない姉の乳飲み子を見捨てて出奔してしまったお八重(米吉)との、しみじみとした再会シーンである。
   今回は、猿之助と米吉だったが、その前は、染五郎と梅枝、そして、仁左衛門と孝太郎の万感胸に迫る美しいシーンであった。
  「侠客の世界をのし上がった男の潔い生き様を描いた真山青果の名作」と言うことで、この後、佐吉は、自分を認めて後見役を務めようとした相模屋政五郎(中車)が、惜しいなあと言って止めるのを振り切って、鍾馗(猿弥)の二代目継承を棒に振って旅立って行く。
   いくら苦労して、泣きの涙で手塩にかけて育てたにしても、大店の跡取りとなった盲目の卯之吉にとって、育ての親が万年三下奴の自分であることが邪魔になると慙愧の思いで去って行く佐吉の姿は、あの第三の男やペペルモコのような名画のラストシーンのような懐かしさと愛しさが滲み出ていて感動的である。

   真山青果は、この「荒川の佐吉」を、十五代目羽左衛門に「最初はみすぼらしくて哀れで、最後に桜の花の咲くような男の芝居がしたい」言われて書いたと言う。
   十五代目羽左衛門は、当時最高の美男子役者として有名だっと言うから、私は、二度、素晴らしい仁左衛門の佐吉を観ているのだが、これが、現在の決定版なのであろう。
   Youtubeで、”片岡仁左衛門・千之助 「荒川の佐吉」ダイジェスト”と言う感動的な映像が見られるが、 8分一寸のトップシーンの寄せ集めだが、雰囲気は痛いほど分かる。

   さて、今回の猿之助の佐吉だが、頼りなくてだらしのない、しかし、どこか男気のあるチンピラ三下奴が、連れ去られようとして必死にしがみ付く盲目の卯之吉を守ろうと、切羽詰まって相手の一人を手斧で切り倒して、「人間、捨て身になれば恐いものなんかない」と開眼する佐吉の男の軌跡を、青虫が華麗なアゲハチョウに脱皮するように、実に丹念に丁寧に演じ切っていて爽快である。
   大詰めの「両国橋付近、佐吉の家」での、政五郎が丸惣の女将となったお新(笑也)をともなってやってきて、卯之助をお新に返してやってくれと佐吉を説得シーンは、この歌舞伎の最大の山場であろう。腹を空かせて泣く赤子を貰い乳に夜道を彷徨う虚しさ悲しさ、破れた着物を縫えずに紙縒りで結ぶ辛さ、主を失ったしがない三下奴の盲目の子育ての血の滲むような苦しさを断腸の悲痛で語るも、卯之吉の安泰な将来を説得されて、手放す決心をする。
   恐らく等身大の演技で、誠心誠意努めたのであろうが、これが実に素晴らしくて、本来の天性の素質もあろうが、抜群の発声術を駆使した語り口で、芝居に引きずり込み、本心の吐露であるから、私など比較的鈍感な聴衆でも、感動感動であった。
   実に、上手い。
   この舞台では、中車、猿弥、笑也、門之助と言った劇団ゆかりの役者が重要な脇役を占めていたが、座頭役者の貫禄十二分である。

   海老蔵は、佐吉の親分仁兵衛を切って縄張りを奪って佐吉に殺される成川郷右衛門を演じており、颯爽とした格好の良い侍ぶりで絵になっていて、華を添えている。
   中車の親分ぶりも、中々堂に入っていて良く、観客の拍手から言っても、今や、大歌舞伎俳優の貫禄である。
   笑也は、この舞台では、謝って泣いてばかりいる役だが、華があり、また、猿弥の貫禄と凄みは抜群。
   米吉の女形は、一番可愛くて綺麗だと思っているのだが、ここ数年大変な進境で、今回は、かなり重要なお八重を演じており、情緒も豊かになった。
   上手いと思ったのは、佐吉の唯一の友・相棒とも言うべき大工辰五郎の巳之助で、三津五郎の雰囲気が出てきた感じで、末が楽しみである。

   海老蔵が紡ぎ出した壽三升景清の通し狂言は、2年前の正月、新橋演舞場で見ている。
   最もポピュラーな『景清』のほかに『関羽』『解脱』『鎌髭』を連ねた4部構成で、今回は、その内、『鎌髭』と『景清』が演じられた。
   景清は、「悪七兵衛」と呼ばれた源平合戦で勇名を馳せた平家側の勇猛果敢な武士なのだが、実在したものの生涯に謎の多い人物で、平家物語に出て来る、合戦で、源氏方の美尾屋十郎の錣(しころ 兜の頭巾の左右・後方に下げて首筋を覆う部分)を素手で引きちぎったという「錣引き」が有名で、古典芸能の格好のキャラクターとして、近松門左衛門が、「出世景清」を書くなど、色々な世界に登場している。
   能の「景清」は勿論、文楽や落語などでも「景清」は演じ語られているのだが、描く主題やストーリーが、まちまちなのが面白い。
   能の「景清」は、盲目となり、日向国へ流されていた景清を、尾張国熱田の遊女との間に生まれた一人娘人丸が鎌倉から日向国宮崎へ訪ねて来る話。
   歌舞伎の「日向嶋景清」は、このストーリーを展開しており、しっとりした人間模様が描かれていて、この方が芝居になっている。

   「鎌鬚」は、景清(海老蔵)が、源氏の武将三保谷四朗(左團次)のところへ乗り込んで行き、鬚を剃って貰うべく頼むので、首を掻く絶好の機会だと、大鎌で掻こうとするも不死身の景清には通用せず、縄にかかるべく来た景清は、自ら身を差し出して、猪熊入道(市川右近)に縄にかかって都へ引かれて行く。
    「景清」は、六波羅の牢に入れられ尋問するも口を開かないので、岩永左衛門(猿弥)が、妻阿古屋(笑三郎)と娘を呼び拷問しようとするが通じない。そこへ、秩父庄司重忠(猿之助)が現れて誠意を尽くすと、景清が、源氏の無能さを世に知らしめ天下泰平の世を作るのだと語ったので、重忠は、頼朝も全く同じ考えだと言ったので、景清は復讐の念を捨てる。

   ストーリーがあってない様な、とにかく、荒唐無稽な話(?)をでっちあげて繋ぎ合わせて、華麗で豪快な、スペクタクルシーンを繰り広げて、成田屋が、隈取をして凄い衣装を身につけて登場し、絵になる素晴らしい大見得を切り続けるのであるから、観客は熱狂する。
    この錦絵が、巷の人気を集めて、市井を賑わわせて、その錦絵を持った冨山の薬売りが、全国津々浦々まで流布させて、江戸の文化や流行が広がって行く。
   前の壽三升景清のポスターを見れば分かろうと言うもの。
   今回のエビをバックにしたラストシーンは、歌舞伎美人の写真を借用する。
   
   

   とにかく、荒事の典型とも言うべき、海老蔵の展開する勇壮華麗なスペクタクルシーンと錦絵を彷彿とさせる大見得の数々を楽しむ絶好の舞台である。
   ただ、今回の舞台と関係があるのかないのか知らないが、鎌倉山から険しい化粧坂を下る途中に景清の土牢が残っているが、豪快な舞台の雰囲気とは全く違うのが興味深い。
   
   
   しっとりとして泣かせる2時間以上の「荒川の佐吉」の後に見る成田屋の荒事の世界も、非常に面白い趣向である。
   
   
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Brexitの不思議:日産英国工場の住人は離脱派

2016年07月07日 | 政治・経済・社会
   今日の日経朝刊に、”英EU離脱一票に込めた反政権 日産の城下町、残留反対の風
「労働者をないがしろ」 内政問題に矮小化 ”と言う記事が掲載されていた。

   英国が欧州連合(EU)からの離脱を決めた国民投票で、離脱票が多かったのは労働者階級が住民の多数を占めるイングランド北部地方。日産自動車が工場を構える人口約27万人のサンダーランド市もそのひとつだが、日産車の主要な輸出先であるEUは市の雇用の創出元ともいえるが、61%と圧倒的多数が離脱を支持した。
   86年に、深刻な英国病から脱皮するために、サッチャーが懇願して国主導で日産を誘致し雇用を維持し、取引先も含めた日産の雇用は北西地域全体で約3万5000人。造船業などの不況で瀕死状態であった失業率が高い同市には必須の工場であった。
   ところが、その住人たちが、自分たちの雇用主の日産を窮地に追い込む挙に出たと言うのだから摩訶不思議である。

   今後の市の経済状況は日産がこれまで通りの操業を続けるかに左右される。同工場では年間製造する約50万台のうち8割を輸出し、その多くが欧州向けで、離脱したら、ドーバー海峡を越え、大陸欧州に車を輸出するのに10%の関税がかかる。カルロス・ゴーン社長は投票前から「離脱すれば今後の工場投資を見直す必要がある」と発言していたので、大ナタを振るうことになるかも知れない。

   自分たちの首を絞めることが分かっていなかったとしか言いようがないのだが、
   地元の記者は、「体制に反発する道具として国民投票が使われた」と分析する。金融危機後の10年に与党保守党が決めた緊縮財政では市の予算が大幅に削られ福祉や子ども手当など公共サービスの質が低下した。福祉に頼りがちな高齢者や低賃金にあえぐ高卒労働者を中心に、不満のはけ口をキャメロン首相が嫌うEU離脱に求めた。
   国全体の経済問題であるはずのEU離脱が反ロンドンという内政問題に矮小化されたと嘆く残留派は多い。「離脱派は間違った情報に踊らされた。EUとは何かをも理解せず、サンダーランドにほとんどいないはずの移民が仕事を奪うとの幻想を抱いた。労働者の不安に離脱をうたう政治家がつけこんだ」。と解説する。

   また、中山淳史 編集委員が、”トヨタや日産が英国民投票で見た現実 ”と言う記事で、同様の問題を論じている。

   次は、Brexit反対、すなわち、EU残留派の投票率だが、1、日産のあるサンダーランド 38.7% 2、トヨタのあるダービー 42.8% 3、トヨタのあるフリントシャー 43.6% 4、スホンダのあるウィンドン 45.3%――。日本車大手の工場がある都市がみな、EUへの残留に「NO」を突きつけた。

   この10年間で40万人以上もの移民がEU域内から英国に流入した。引き金は2004年にEU加盟国が15カ国から25カ国に急激に増えたこと。ポーランドなど旧社会主義陣営の東欧諸国が加盟したことで、日本車大手の工場がある町にも、就労ビザを持たなくても英製造業で働ける労働力が大量に散らばっていった可能性がある。と言う。
   Brexit選挙後、英国ではポーランドなどの移民労働者への嫌がらせが起こっていたが、大半の問題は、今の中東や北アフリカからの難民ではなく、ポーランドなどの東ヨーロッパや旧ソ連のバルト3国と言った後発の東からの安い移民労働者の大量流入による雇用と生活圧迫への反発であろう。

   離脱交渉が動けば、サプライチェーンなど課題山積で、トヨタも日産も英国で組み立てた車のかなりの部分をEU諸国に輸出している一方、部品はフランスやドイツ、ベルギー、オランダ、イタリア、アイルランド、モナコ、スペイン、ポルトガル、ポーランド、ハンガリーなどから輸入しており、英国の自動車産業全体では部品の国外調達比率は6割にも達するという。
  離脱で交渉が動き出せば、EU、場合によってはそうした国々と個別に通商交渉をする必要があり、推定では50を超える国・地域との協定が必要となるが、その一方で、「交渉の専門家が英国には10人強しかいない」と言うのだから、目も当てられない。

   EUのメンバーとしてセットアップされていた政治経済社会システムが、一気に崩壊して、40年以上も前の独立国家英国に逆戻りしての再出発であるから、貿易一つの調整にしても、並大抵のことではない。
   こう考えてみれば、正常な国家体制に戻すために費やすべき、英国のEU離脱による精神的苦痛は勿論、実質的な手間暇コストは、膨大なものとなり、余程上手くリセットしないと、失うものは極めて大きいことが分かる。
   Brexitの急先鋒であった独立党のファラージュ党首が失脚し、率先してBrexitを吹き込んで煽りに煽った保守党のボリス・ジョンソンが敵前逃亡すると言う体たらくで、随所に、Brexit後遺症が出てきて、徐々に、英国民の生活を絞め始めたと言う。
   
   先のBrexitに関するブログで書いたのだが、結果次第では、如何に、国民投票が恐ろしいことかが分かる。
   時には、無責任なアジや扇動に煽られた国民が一気にポピュリズムの嵐に巻き込まれて崩壊して行き、民主主義の屋台骨まで危うくしてしまう。
   例えば、直前に、軍事的な有事が勃発して、何か危機的な状況になれば、憲法改正など一気に国民投票で決まってしまうであろう。
   ポピュリズムに煽られて、あのヒトラーのアジ演説に、われを忘れてドイツ国民が熱狂し、日本人が、国家を崩壊の瀬戸際にまで追い込んだ軍国主義に走ってから、まだ、一世紀も経過していないのである。

   私は、日産英国工場が建設を始めた頃に、会社がこの工事のサポートに建築技師を派遣していたので、欧州駐在の代表として、何度か現地を訪れている。
   イギリスの東岸、殆どスコットランドとの国境(UKでは国境と言う)に近いニューキャッスルに飛行機で入って、サンダーランドの日産の工場に行く。
   ニューキャッスルは、産業革命時に蒸気機関車を実用化したジョージ・スティーブンソンが生まれた土地で、産業革命以降、重工業や造船業で栄えた英国有数の重要な産業都市であったが、私が訪れていた頃には、あの産業革命を起こしたブラックカントリー同様に、見る影もないほどの廃れぶりであり、サッチャーが、如何に熱心に日産を口説き落としたかが良く分かった。

   隣市のサンダーランドも似たり寄ったりで、すぐ近くにワシントン大統領の故郷であるワシントンがある。
   強烈に覚えているのは、階級社会の名残であろう、まだ、古いパブが残っていて、店が、上流階級のパブと、労働者階級のパブとで完全に真っ二つに区切られていて、内装など店の質や佇まいが完全に違っていたことである。
   良し悪しは別として、イギリスと言う国は、長い伝統と歴史を引っ張ってきた極めて奥の深い途轍もない国だと言うことである。
   私は、英国の永住権を持っていたので、今度の国民選挙を通じて、その明暗、虚と実を見たような感じで、感慨深いのである。
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国立能楽堂・・・能「白鬚 間狂言:道者」

2016年07月06日 | 能・狂言
   今月の国立能楽堂の主催公演のテーマは、「能の故郷・近江」で、最初の曲が、能・観世流「白鬚」。劇中劇のような間狂言・大蔵流「道者」が演じられる、2時間20分、休憩なしの凄い舞台であった。

   事前に、勉強しようと、岩波講座・能・狂言を見ても、角川の「能を読む」を見ても載っていない。
   いくら、沢山、能狂言の本を探しても、無駄で、インターネットで多少知識を得て、結局、能楽堂に行って、プログラムを読んで俄か勉強した。
   観世流と金春流のみの現行曲で、上演自体がまれだと言うことだが、実際に、この舞台を観て、非常に感激した。
   
   この能の舞台は、琵琶湖の西岸の、比良山の麓近くにある白鬚神社である。
   近江最古の大社と言うのだが、随分昔、琵琶湖一周ドライブの時に、立ち寄る機会があった筈だが、近江路へはかなり通いながら、訪れたことはない。
   琵琶湖に浮かぶ、朱色の湖中鳥居の写真は、良く見ている。

   この能は、
   お釈迦さまが、仏法を流布するために飛行中に琵琶湖のあたりに目を止めて、滋賀の浦に糸を垂れている老人に、仏法結界の地にしたいので譲って欲しいと言う。
   老人は、仏法結界の地になれば釣をするところがなくなると断ったので、お釈迦さまは諦めて帰ろうとしたところに、薬師如来が現れて、自分は太古からこの所の主であり、この老人はそれを知らないのだが、早くここで仏教を開きなさい。五百年仏法を守護しましょう。と誓い合って、二仏は東西に分かれて去った。と言う話が核になっている。
   この老人が、白鬚明神となる。

   当然、能であるから、前場は、勅使(ワキ/宝生欣哉)の前に、漁夫(前ツレ/観世淳夫)を伴った漁翁(シテ/観世銕之丞)が現れて、白鬚明神の威光を崇め、天下太平の世を賞賛し、前述の明神の縁起を語って消えて行く。
   間狂言は、白鬚明神に仕える勧進聖(オモアイ/山本泰太郎)が、社の屋根葺き替えの勧進に船に乗って湖上を行く。道者たちの乗る船に合って、説得するが、道者たちは、勧進の要請に応えない。怒った聖が呪文を唱えると、鮒(アドアイ/東次郎)が出現して怒り狂ったので、驚いた道者たちは、着ていた着物を脱いで勧進すると、喜んだ鮒は、船の綱を咥えて曳いて行く。
   後場は、勅使を慰めようと、白鬚明神(シテ/銕之丞)が現れて、夜遊の舞楽を奏する。雲居が輝くと、天灯を持った天女(後ツレ/谷本健吾)が現れ、湖水が鳴動すると、龍灯を持った龍神(後ツレ/長山桂三)が現れて、灯明を神前に供えて舞を舞う。去り行く両神を見送って、白鬚明神は、太平の御代を寿ぐ。

   正面に一畳台が置かれて、その上に作り物の社が据えられた。
   銕之丞師が、前場の漁翁で登場して、ラストシーンでこの社に消えて行き、間狂言中に、この作り物の中で、着替えて、後場の白鬚明神に代わって現れる。
   また、舞台左右に、二艘の舟の作り物が置かれて、間狂言で、聖と道者たちとの舞台となる。
   演者の数もかなり多く、間狂言だけでも35分の長丁場であり、コミカルタッチからスペクタクルな面白い芝居が演じられており、狂言が能と互角に渡り合っている凄い舞台である。熱演を続ける聖の泰太郎や船頭(アドアイ)の山本則重たちに華を添えるべく、80歳直前の人間国宝東次郎が、面をつけて舞台に突進して登場し、舞台で跳ね上がって舞台に激しく着地し派手な舞を舞う、この迫力は、流石である。

   先代の観世銕之丞の「ようこそ能の世界へ―観世銕之亟 能がたり」を読んでから、銕之丞家に興味を持って、当代の観世銕之亟師の舞台を観続けており、更に、当代の著書「能のちから―生と死を見つめる祈りの芸能」を読んで、一層、ファンとなったのであるから、今回の「白鬚」は、私にとっては、大変な期待の舞台であった。

   前回の「石橋」では、激しい息遣いが印象に残っているのだが、今回の後シテ白鬚明神では、長時間の、舞楽を模したと言う「楽」を、茗荷悪尉の面をつけて鳥兜姿で重厚かつ優雅に淡々と舞い続ける姿は、崇高でさえあり、素晴らしかった。
   脇正面前列から見上げていたので、この狩衣・反切を着した容貌魁偉な姿を見て、場違いだとは思うのだが、何となく、ケネス・ブラナーのハムレットの舞台の父王の亡霊姿を思い出していた。

   天女と龍神が灯明を捧げて登場し、作り物の社で端座する白鬚明神の前で舞うのだが、赤装束の龍神と奇麗な天女が登場するだけでも、一気に舞台が華やぐのだが、白鬚明神の楽と言い、素晴らしく優雅な舞台で、静的な前場と、芝居仕立ての間狂言、そして、この見せて魅せる後場と、起承転結、バリエーションの利いた能狂言の面白さが結晶した舞台で、2時間半近い時間を忘れていた。
   私の様な初歩で表層的な鑑賞しかできない鑑賞者は、どうしても、舞台で舞い演じている能楽師の動きばかりに目を奪われてしまうのだが、今回は、囃し方の凄さ素晴らしさや、地謡方の底力にも感激しきりであった。

   面は、前シテが笑尉、後シテが茗荷悪尉、天女が万媚、龍神が黒鬚、
   私は、学生時代から古社寺を廻り続けて、仏像を熱心に鑑賞し続けて来ているので、文楽の首や、能狂言の面にも、興味を持って見ているのだが、今回の舞台の面は、非常に興味深かった。
   欧米の教会や寺院でも、素晴らしい仏像や彫刻などを随分見てきたが、日本の彫刻には独特な味があって、能狂言は、その素晴らしい面をつけて生身の能楽師が命を吹き込んで演じるのであるから、はるかに素晴らしいのである。

   さて、お釈迦さまが、老人に断られて、しおしおと退散すると言う話も、何となく、童話めいて面白いし、お釈迦さまの開いた仏法結界が神社と言う神仏混交の大らかな世界。翁のように精進潔斎と言わないまでも、一種神性めいた能狂言の面白さも、このあたりにあるのかも知れない。
   とにかく、白鬚は殆ど演じられることのない稀曲だと言うのだが、良い機会を得たと思っている。
   
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イアン・ブレマー著「スーパーパワー Gゼロ時代のアメリカの選択」

2016年07月05日 | 書評(ブックレビュー)・読書
   この本のタイトルは、Superpower: Three Choices for America’s Role in the World
   Gゼロ論者ブレマーのアメリカ論、
   覇権国家ではなくなるのではあるが、依然、スーパーパワーであり続けるアメリカが、どのようなスーパーパワーであるべきなのか。
   ブレマーは、世界におけるアメリカの役割について三つの選択肢を想定して、そのシナリオを克明に分析検討して、自分自身の結論を得て、提言としている。

   その三つの選択肢とは、
   「独立するアメリカ」「マネーボール・アメリカ」「必要不可欠なアメリカ」である。

   まず、「必要不可欠なアメリカ」
   アメリカは、民主主義、法の支配、人権等自由で開かれな世界秩序を守る責任があり、同盟国や友好国を防衛し、軍事、経済、金融、政治、文化等あらゆる手段を活用して、環境問題や貧困・人道危機などグローバルな問題解決においてリーダーであるべきだとする。
   これまで、覇権国家として担ってきた超大国アメリカであるべきだと言う考え方の継続であろうか。
   このシナリオの欠点は、政治リーダーや選挙候補が美辞麗句を並べ立てて論じても、国民がそれを望んでいないし、世界中の多くの人々が、アメリカを相応しいリーダーだと思っていないことである。
   どれだけ、アメリカの価値観が優れていようとも、世界がそのリーダーシップに従うべきだと確信を持っていようとも、アメリカが世界の平和と安全にとって依然として必要不可欠だと主張してみても、イラクやアフガニスタンでの失敗やリーマンショックなどの金融危機、ワシントンにおける政治的泥試合、等々、最早、アメリカの国際的評価は地に落ちてしまっている。ので無理だと言うのである。

   次に、「マネーボール・アメリカ」
   限られた資源を出来るだけ有効に活用するために、思慮分別とコンセンサスを体現して実用主義の観点から、政治的、財政的に実現・維持可能な政策戦略を優先順位をつけて遂行すると言うシナリオである。
   問題は、世界において、特別な超大国ではなくて普通の国らしく振舞うアメリカを歓迎する向きはあろうが、アメリカ国民の殆どは、まだ、アメリカを特別な国だと思っており、たとえ願望であっても、特別な地位を占めていると信じており、そのような冷血な外交政策は支持しない。と言う。

   したがって、ブレマーは、「独立したアメリカ」を選択し、
   アメリカは、世界の中で、特別な役割を果たすことは、この先一層難ししくなって行くので、アメリカ国内そのものを、特別な模範とすべく、世界に対する自分たちの真価を定義しなおすべき時が来ている。国外の課題解決に手を出すのを止めて、アメリカ国内の再建に注力せよ。と言うのである。

   アメリカが、本気で合衆国憲法に忠実であれば、高くつく過ちがずっと減るし、また、国民が強力かつ永続的に支持する外交政策を構築すれば、アメリカは、国民が関心のない国や問題について介入することもなくなるであろう。
   新興国の台頭など、これだけ多くの国の政府がアメリカの圧力を軽く受け流せる世界になってしまった以上、唯一のスーパーパワーだとしても、思う通りにならなくなっており、それ相応に評価されなくなってしまっている。
   アメリカの真の可能性は、国民にとっても世界にとっても、どこまで模範となってリードできるかにかかっている。
   したがって、アメリカのリーダーたちが、議会におけるつまらない党派争いを乗り越えて、アメリカの国内で、今より効果的に民主主義を機能させることである。

   目的も散漫、支離滅裂な、かつ、法外な金のかかるこれまでのようなスーパーヒーロー外交を止めれば、強力でしなやかな経済を構築し、教育、福利厚生に、そして、老朽化したインフラの再建、経済格差の解消等々アメリカの活性化政策の遂行が、いくらでも可能となる。
   ブレマーを一緒にするつもりはないが、何か、ドナルド・トランプの「強いアメリカ」復活論争と、一部相通じているようで、興味深いと思っている。

   私自身は、世界の秩序維持のためにアメリカが世界の警察として公共財を提供し続ける「積極的関与」、すなわち、「必要不可欠なアメリカ」シナリオが、我々日本人にとっては、一番、好都合であるような気がしているのだが、アメリカの現実を見れば、ブレマーの選択する「国内回帰」「独立したアメリカ」への道が当然であろうと思う。

   「独立したアメリカ」の場合、ブレマーも問題にしているように、慎重な対応を要するのは、アメリカと同盟国の関係である。
   先日も、尖閣諸島問題で論じたように、ドイツと日本は、自分自身の安全保障に責任を持てる豊かな国であるから、アメリカの国家安全保障や経済力に殆ど影響のない紛争に介入することは避けるなど負担を軽減するシステムに持って行こうと提案している。
   ブレマーは、ドイツと日本がアメリカに安全保障を依存しているのはアメリカには有益だし、影響力も失いたくない。アメリカの意図を曖昧にしておけば、将来アメリカの方向性が変ることを考慮して両国が軍事支出を増やす一方で、両国に対するアメリカの影響力を維持できるので、一石二鳥である。と言っているが、要するに、ドイツや日本に圧力をかけて義務や負担を軽減して、少しずつ、離れて行こうと言うことであろう。

   尖閣諸島がらみでは、ブレマーはもっと微妙な見解を述べている。
   アメリカが、日本の安全保障について確固たる無制限のコミットメントを維持するのであれば、アメリカ政府としては、それが中国との紛争に繋がらないような方法でやらなければいけない。日本政府および国民に対して、もっと自らの防衛支出を増やし、日本の軍事力の及ぶ範囲を領海のはるか先まで拡大しろと要請するのは当然。ただし、アメリカ政府としては、中国に対する挑発的な日本の態度にはアメリカは無用に支援しないことを双方に対して明示し、この変化が、勢いに乗る中国の影響力を抑える意図ではないことを、中国政府に納得してもらわなければならない。と言っているのである。
   また、アメリカ政府が、自国の安全保障に責任を持つことを日本政府に期待するのであれば、身銭を切って必要な防衛力を身につけ、将来の日中関係を再考する必要があることを、日本の有権者にはっきり理解させるのだ。ほかに道がないと有権者に納得させるのであれば、アメリカの計画が曖昧であってはならない。と言っており、
   安保条約さえあれば、そして、沖縄の基地さえ提供しておけば、日本は、核の傘の下で安泰であり、中国が、尖閣諸島を占領すれば、米軍が助けてくれる。などと能天気に考えている状態ではなくなっていると言うことを、日本国民は理解しておかなければならないと言うことである。
   
   さて、ブレマーの見解はともかく、クリントンもトランプも、どちらかと言えば、「国内回帰」派であり、来年以降、新大統領のもとでは、弱体化したアメリカが、益々、内志向となって、日本への経済的締め付けは勿論、政治的外交的要求も厳しさを増してくる。
   どうするのか。

   激動の潮流が吹き荒れて風雲急を告げているグローバル環境にありながら、殆ど無風状態の静けさの参議院議員選挙と都知事選挙。
   これが、平穏無事、安泰と言うのであろうか。
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シンポジウム「アベノミクスの異次元性を問う-『経済と法』の何が破壊されているのか?」

2016年07月03日 | 政治・経済・社会
   早稲田大学比較法研究所が主催して、
   シンポジウム「アベノミクスの異次元性を問う-『経済と法』の何が破壊されているのか?」が開かれたので聴講した。
   アベノミクスおよび安倍政権の危うい政治について、経済的および法学的側面から、何が破壊されているのかを、分析検討しようと言う意欲的な試みである。

   プログラムは、」次の通り。

   「中央銀行による財政ファイナンスの危険性について」野口 悠紀雄氏(経済学) 早稲田大学ファイナンス総合研究所顧問
   「アベノミクスは『資本の成長戦略』にして『中間層の没落戦略』」 水野 和夫氏(経済学) 法政大学法学部教授
  「リーガルマインドなきアベノミクスが破壊しているもの」 上村 達男教授(会社法・資本市場法) 早稲田大学法学学術院教授
  「持続可能社会への転換に逆行する法政策-農地法制を中心に」 楜澤 能生教授(法社会学・農業法) 早稲田大学法学学術院長
   パネルディスカッション

   私自身が、十分に理解できたかどうかは疑問であり、正確にその意図を伝えられるかどうかは分からないが、選挙前でもあり、非常に重要な課題を示唆しているので、備忘録として残しておきたい。

   まず、野口教授の「中央銀行による財政ファイナンスの危険性について」
   日本銀行は量的金融緩和として、毎年80兆円の国債を購入し、一方、財務省は毎年40兆円の国債を発行している。国債を直接日本銀行が引き受けることは、財政ファイナンスとなって、財政法第5条で禁止されているので、日本銀行は、それを迂回するために、途中で、発行直後の長期国債などを金融機関を通して、間接的に購入することで回避しているのである。
   現実には、日銀の国債保有量は、300兆円を突破しているようだが、それに肉薄する形で当座預金残高があるので、通貨量は増加しておらず、財政ファイナンスの貨幣化は起こっていない。
   しかし、償還期限が来れば政府は財源を調達しなければならず、また、現下のマイナス金利などは銀行にとっては負のインセンティブであり、何かの切っ掛けで、当座預金の取り崩しが発生すると、日銀は貨幣を印刷せざるを得なくなって、インフレ懸念が増大する。

   カーメン・M・ラインハートとケネス・S・ロゴフが、『国家は破綻する――金融危機の800年』で、国家の破綻はよくあることで、銀行危機が、通貨暴落とインフレを引き起こし、これを経由して対外債務・対内債務のデフォルトが起こる。と説いており、日本は、正にこの道を突き進みつつある。
   日銀と政府が画策する日銀の国債の多量購入は、国債を返さなくても良い債務に化けさせる、財政ファイナンス、行く行くは、貨幣化となるので、インフレへの道へ一直線。
   野口教授は、脱法行為、
   上村教授は、違法行為 だと仰る。

   フランスの詐欺師大臣ジョン・ローのでっちあげたミシシッピー会社のように泡沫と化すのか、先の大戦で、戦後に国債が暴落して紙くずととなったように、ハイパーインフレで借金棒引きにするのか、歴史は、哀れな末路しか示し得ていないと言う。
   この日銀の異次元緩和が、日本経済のみならず、日本の将来を窮地に追い込むカンフル剤だとするならば、どうするのか。

   「国家は破綻する」については、ブックレビューしており、ケインズ派のクルーグマンが、ラインハートとロゴフを糾弾していることは、このブログで紹介済みだが、私は、歴史が証明していることでもあり、どうひっくり返っても、日本国の債務が減少する筈がないと思っているので、この危うい日銀の異次元緩和の異常とも言うべき国債購入は、非常に憂慮すべきだと思っている。
   野口教授は、対抗通化として仮装通貨ビットコインの話もしていたが、金融は大きな曲がり角に差し掛かっていると言うことであろう。

   さて、水野和夫教授のアベノミクス批判は、もっと激しい。
   既に、資本主義そのものが、有望な実物投資先がなくなってしまって、更に、経済が資本の異常な蓄積で過剰状態になっている。アベノミクスで、いくらマイナス金利を実施して金融緩和をしても財政出動しても、投資の行き場がなくなった経済への「資本の成長戦略」であるから、やればやるだけ、日本経済を一層疲弊させるだけだ。と切って捨てる。
   金融緩和や積極財政で、一時的に景気が回復しても、すぐに、その後バブルが崩壊するなど景気が悪化すれば、途端に企業は賃金を引き下げ従業員を解雇するなど弱者にシワ寄せし、経済格差の拡大を増幅させるだけである。
   酷いのは、アベノミクスは、正に、中間層の没落戦略とも言うべき悪政で、ピケティの言う富裕層は益々豊かになり、下層階級は益々所得減で借金が増資して貧しく、今後の生活の見通しが暗くなる一方であると、資料を駆使して克明に説き続ける。

   野口教授や上村教授の指摘するように違法・脱法行為を行いながらも、鳴り物入りでアベノミクスが遂行されても、いまだに、デフレ脱却は道半ばで、経済は足踏み状態であり、経済格差地方格差はどんどん拡大して、国民を苦しめ続けていると言うこの現実をどう見るのか。
   資本主義経済そのものが、曲がり角に差し掛かっていると言うことで、水野教授の指摘するように電信柱の長いのもポストの赤いのもすべてアベノミクスが悪いと言う訳ではなかろうが、更に、『資本の成長戦略』『中間層の没落戦略』で、その傾向を煽っていると言うことであろう。
   私自身としては、資本主義経済が成熟化してしまって投資機会が枯渇して成長の余地がなくなったと言う指摘には多少疑問を持っているのだが、視点が違う所為もあり興味深く聞いていた。

   上村教授の講義は、「リーガルマインドなきアベノミクスが破壊しているもの」と言うタイトルからして、凄まじい。
   明治以降営々と積み上げてきた日本の法体系、規範意識を、安倍政権が如何に破壊し続けてきたか、選挙によって一切が許される政権と言う幻想を抱いて、リーガルマインドなき政権運営、経済運営をしてきたか、
   違憲の審査のない日本で法の番人とも言うべき法制局長官に、専門的なモノの考え方ができない素人を任命したり、NHKの人事や予算の与野党一致の原則を破って押し切ると言った話を皮切りに、日銀、財政、日本改造論、研究成果最大化主義の文教行政、コーポレート・ガバナンス等々多岐に亘って、リーガルマインドなきアベノミクスを鋭く糾弾する。

   私など、法律については全く素人だが、安保法案については、国会で3人の憲法学者が相次いで「安保法案は憲法違反」との見解を示し、更に、199人の憲法学者も「憲法違反」との見解を表明したにも拘わらず、押し切ってしまった時には、唖然として、これで、日本も法治国家とは言えなくなってしまったと思った。
   それに、トランプなどは、アベはキラーだと言ったと言うのだが、世界の識者たちが、安倍首相の右傾化、極端に言うと日本軍国主義の復活を危惧し始めていると言う傾向も否定し辛くなった感じで、一寸残念である。
   上村教授もメモ書きしているのだが、高村副総裁の「たいていの憲法学者より私の方が考えてきたという自信はある」と言う発言に至っては、言語道断。如何に、日本の政治の水準がお粗末か、今になって気付いて唖然としている。

   上手く伝えられないので、上村教授のレジュメの「おわりに」を引用しておきたい。
   ”アベノミクスが戦争や大災害や英国のEU離脱を想定していないとしても、そうしたことがおこりうることが常に法制度論の根幹にある。
   アベノミクスがどのような結果をもたらしたとしても制度や規範の破壊は、明治以来の地道な制度論の展開や理論の進展を台無しにし、日本の比較法をベースにした法理のグローバルな指導性の芽を摘む取り返しのつかない事態と言える。
   株価と選挙に特化した反知性主義ポピュリズム政権の罪はあまりにも大きい。”

   良識ある識者や学者たちが危惧するように、日本の将来に取って、アベノミクスが多くの問題を抱えており、特にリーガルマインドの欠如による暴走など極めて深刻であるにも関わらず、何一つ歯止めをかけようとする良識ある政治家が内部に存在しないと言う、金太郎飴の様な自民党・公明党の体質なり姿勢が、脅威と言うべきだと思っている。
   良識あるカウンターベイリング・パワーの働かない組織の恐怖とその惨劇は、先刻、歴史が証明済みである。
   
   楜澤教授の「持続可能社会への転換に逆行する法政策-農地法制を中心に」は、里山経済を彷彿とさせる非常にヒューマンな感じの講義で感銘を受けたのだが、一寸、視点が違うので、コメントは遠慮したい。
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早稲田大学演劇博物館…中村吉右衛門展

2016年07月02日 | 展覧会・展示会
   久しぶりに、早稲田大学を訪れた。
   何度かシンポジウムやセミナーでお世話になっている早大比較法学研究所主催の「アベノミクスの異次元性を問うー「経済と法」の何が破壊されているのか?」を聴講するためである。
   リーガルマインド欠如の安倍政権や問題多きアベノミクスについての非常に興味深いシンポジウムで、野口悠紀雄、水野和夫、上村達男、楜澤能生と言った錚々たる学者による充実した5時間であり、大変勉強になった。
   これについては、稿を改めることにする。

   時間が少しあったので、早大の構内を散策し、いつものように、坪内博士記念演劇博物館に立ち寄った。
   
   

   丁度、特別展として、「中村吉右衛門展」と「あゝ新宿 スペクタクルとしての都市展」が開催されていた。
   以前に中村歌右衛門の展示コーナーのあったところで、こじんまりとしたスペースだが、競伊勢物語の紀有常や閻魔と頼政の鷹匠頼政の歌舞伎衣装や、土蜘の精や矢の根の曽我五郎の押隈、舞台写真の数々、初代吉右衛門の遺品など、興味深い品々が展示されていていた。
   大の男が4人がかりで吉右衛門の腰に足を踏ん張って帯を締めている光景や、碇知盛の幕切れで、岩の上から仰け反って海中に堕ちる豪快なシーンの組み写真など、それに、極め付けの舞台写真なども展示されていて興味深い。
   ビデオのディスプレイでは、早大学芸術功労者の顕彰時の吉右衛門の講演を上演していた。
   聞くともなく聞いていると、吉右衛門は、学生たちへの贐として、スタンダールの「生きた、書いた、愛した」を語っていた。
   パリのモンマルトルのスタンダールの墓地の墓碑銘にもこの言葉「書いた 愛した 生きた」が彫られている。
   相手のことをよく理解して心を込めて愛する・・・と言っていたように思うのだが、私自身も、そのつもりで愛し愛しているつもりながら、いつも、忸怩たる思いで後悔することばかりである。

   ところで、この展示会のビラに、8月4日に大隈講堂で、吉右衛門の「古典歌舞伎の芸と心」の講演会があると書いてあったので、インターネットを叩いたのだが、申し込み開始が7月1日昨日なのに、残念ながら、満席締め切りであった。

   「あゝ新宿」展の方は、1960年代から1970年代の若者文化華やかなりし頃の新宿の文化舞台が写真や映像、劇場のビラや看板で、派手派手に展示されていて面白い。
   この頃私は、クラシック音楽やオペラに入れ込んでいたり、アメリカとブラジルに行っていたので、全く縁のない世界なのだが、何故か、無性に懐かしさを感じてみていた。

   この演劇博物館は、常設の雅楽、能狂言、歌舞伎文楽などの古典舞台芸術の展示があって素晴らしいのだが、私は、坪内逍遥の部屋が好きである。
   この部屋だけは、写真撮影が許されているので、逍遥の像とコレクションのシェイクスピア像などを紹介しておく。
   
   
   
   

   時間があれば訪れるのは、学内の書店、外国の大学を訪れた時にも、必ず、書店に行くのだが、ここに行けば、その大学の雰囲気が何となくわかるような気がする。
   ハーバード、ケンブリッジやオクスフォード、ミラノ、サンパウロ・・・もう忘れてしまったが、何冊か本を買って帰る。
   この日も、早大生協の書店を訪れたのだが、何故か、場末の倉庫のような外れにひっそりとあるのだが、立派な書店である。
   

   さて、早大は、大隈像から大隈講堂を見渡すあたりの雰囲気が一番早稲田らしい気がする。
   その交差の広場で、一人の学生が、「憲法改悪阻止」のアジ演説をしており、2人の学生がビラを配っていたが、相手にする学生は一人もいない。
   気の毒なので、一枚ビラをくれと言って近づいたら、変な老人が来たと思ったのか、用心して「所属は?」と聞いたので、あの「アベノミクスの異次元性を問う」を聴講に来たのだと言ったら、反安倍体制派だと思って、にっこりとしてビラをくれた。
   前を、志望校見学の高校生の団体が通り過ぎて行った。

   わが母校は京都やフィラデルフィアで遠いので、東京では、この早稲田と東大を訪れることが多いのだが、大学の雰囲気は、好きである。
   
   
   
   
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