今日、5年生のM君が私の所におしゃべりをしに来ました。
職員室の私の机の上に飾ってあるZARD・坂井泉水さんの写真を見て、「あ、死んじゃった人だよね。会うためには死ぬしかないよね。」というので、私は「死んでも会えるかどうか分からないよ。」と返答しました。すると、「閻魔大王に聞けば会えるよ。」と言いますもので、「じゃあ、閻魔大王はどこにいるんだよ?」と売り言葉に買い言葉。最後にM君から、「閻魔大王は亀戸4丁目の1番地にいる」と。
これで私の心にスイッチが入り、「亀戸4丁目1番地ってどこだ?」と地図を探してみたわけです。
ところが地図上に「亀戸4丁目1番地から10番地」までが無いのです!!!
亀戸1~9丁目のすべてに1~10番地はあるのに、4丁目だけが無い。
いったいなぜなのだろう???
あまりにも気になるので、学校の隣の文房具屋さんに質問に行ってみました。
文房具屋さんは奥さまがお店番をしていました。
私は奥さまに、
「4丁目には1~10番地がないことに気づいたのですが、その理由が分かりますか?」
と聞いてみましたが、
「私は分からないので主人を呼びますね。」
ということになり、元PTA会長のご主人がご登場。私の質問を聞いたとたんに、よくぞ気づいてくれたと言わんばかりの笑顔で説明をしてくれました。
①昭和35年ごろの区画整理で「蔵前橋通り」を作るために、亀戸4丁目1~10番地にあった家が立ち退いた。
つまり、今の蔵前橋通りが1~10番地だった。
②その頃まで、蔵前橋通りは明治通りとの交差点のところが終点であった。
③本当は栗原橋から3丁目を貫き、学校前の通りに「春日通り」を作る予定だった。
④3丁目の中央を通す話し合いがうまくいかなかったことにより、春日通りは貫通せず、その代わりに蔵前橋通りを延長することになった。
⑤子どものころには、立ち退いた1~10番地の空き地でみんな遊んだものだ。
⑥現在の文房具屋さんを建設する際に、地面から強固な基礎地盤が出てきた。これは学校の体育館の基礎であった。つまり文房具屋さんのあたりまで学校の敷地があったということだ。
⑦戦争で学校がねらわれる可能性があり、周辺の家が危険なので、学校の周りの家は少し離れた場所に立ち退いたこともあった。だから敷地が広かったのだ。
⑧4丁目は宅地が多かったので、区画整理をそのまま受け入れた。だから町が碁盤状に並んでいる。
何気ないこだわりから、現在の学校教職員は誰も知らなかった歴史の事実が浮かび上がってきました。
今回は私自身がどんどん追及して調べていったわけですが、本当はこういうことに子どもたちが関心を持ち、自ら調べてみるという総合的な学習になることが望ましいのです。「4丁目には1~10番地がない」という、誰も知らなかったことに気づき、なぜなのか調べざるを得なくなり、追及することの喜びを体験できた私の学習は楽しくてなりませんでした。こんな学習を子どもたちにもしてほしいと強く感じました。
総合的な学習の内容に「地元のトリビアになろう」という単元を入れることが本当に大事なのだと身をもって知ったのです。
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