地味鉄庵

鉄道趣味の果てしなく深い森の中にひっそりと (?) 佇む庵のようなブログです。

三陸の旅2011 (2) 八戸線代行バス

2011-09-05 00:00:00 | 濃いぃ路線バス&車両


 階上駅でキハ40・48の旅は終わり、タブレット閉塞の廃止によって無人駅となった駅舎を出ますと、駅前広場には腕木信号をそのままディスプレイしたモニュメントが。そのすぐ目の前に久慈行の代行バスが停車していましたが、何ともデラックスなことにJRバス東北所属の三菱エアロバス(運賃表示や運賃箱はなく、通常は貸切用?)が2台も! そして御丁寧なことにバスガイドさんも車掌代わりに乗務! 学生利用が少ない休日につき、列車から乗り換えた客の数は1台目でも十分間に合ってしまうほどで、2台目は2~3人の客が乗っているだけという状態であったのには忍びなさを禁じ得ませんでしたが、とにかくこの列車には客の多寡に関係なく2台の代行バスを走らせることが決まっているようだ……ということで、約10分の乗換時間を経て静かに出発進行と相成りました(後で角の浜で待っていた練習試合帰りの高校球児がドドッと2号車に乗り、彼らは久慈まで乗り通しましたので、客の数に対してバスが2台とは……という杞憂はすっ飛びました)。
 八戸線代行バスが走るのは、長大な三陸海岸の被災地を貫き「復旧と復興の生命線」となっている国道45号線。鉄道が寸断された区間では代行バスのお世話にならざるを得ない今回の旅も、必然的に国道45号線の旅という位置づけとなります。しかし、八戸線と並行する区間における国道45号線は基本的に標高が高いところを走りますので、その限りにおいて被災地を感じさせるものは見当たりません。バスの車内も、夕方につき家路を急ぐ人々ばかり……ということで、時折駅代わりの臨時停留所に近づくたびに熟練バスガイドさんの美声が響くほかは静寂……。



 しかし、陸中八木駅に向かうために国道45号線から分かれますと、風景の余りの変貌に内心戦慄……。海を見下ろす位置まで進み、眼下に海沿いの堤防らしきものが見えたなぁ……と思うや否や、その先には橋脚を残して全てが流された鉄橋が……。嗚呼……これが八戸線だったとは……。そして陸中八木駅周辺の建物も、漁業センターをはじめ絶句するほどの破壊ぶり……。陸中八木駅そのものも、既に瓦礫は撤去されていましたが、窓が破れた駅舎には無造作にベニヤ板が打ち付けられ、RJ誌2002年8月号 (「郷愁列車再発見」特集) で見られる賑わいは偲ぶべくも無い状態……。とはいえこの風景も、翌日目にする惨状に比べれば「まだまし」でありました(だからこそ、JREと地元との間で八戸線の来春全線再開に向けた合意が出来たのでしょう。地形自体もいざとなったら高所に逃げやすく、郵便局が修理中であった等、元の場所に集落を再建するという動きが始まっていました)。
 陸中八木からは再び元来た道をたどって無傷な国道45号線に戻り、しばらく高所を走った後、今度はいきなり右折して「これは林道か?」と思うような驚愕の狭隘路へ突っ込んで行き、大柄なエアロバスにはしばしば木の枝が当たりそうになります。この地域の土地勘は全くない私は思わず「これは何処へ連れて行かれるんだぁ!」と内心絶叫ものでしたが、数キロ超ヒヤヒヤものの狭隘路を走った先に現れたのは侍浜駅。「凄まじい山の中なのに侍浜とはこは如何に」と思ったのですが、実際の侍浜は切り立った断崖絶壁につき、そんなエリアに鉄道を通しようもなく、内陸部を迂回しているという次第。代行バスも必然的に、面倒ながらも狭隘路をかき分け寄り道することになります。そして何と……すっかり暗くなった侍浜駅からも若い女性が代行バスに乗ってきたではありませんか……。代行バスが小さな集落にとっても生命線となっていることを認識させられたのでした。
 侍浜駅からは別の広い道を走って国道45号線に再合流し、久慈の街へラストスパート! 闇の奥に光り輝く久慈の街が見えてきたときには思わず安堵し、19時30分頃久慈駅前に到着~。EOS 5D MⅡの描写力を活かして、到着直後の代行バスと間もなく階上へ発車しようとする代行バスを手持ちで撮影しつつ、地味ながらも着実に地方交通として息づいている八戸線の早期復旧を祈ったのでした。