今回の三陸訪問における最大の目的は、もちろん三陸鉄道の乗車と撮影であることは言うまでもありません。周知の通り、国鉄赤字ローカル線及び未成線の第三セクター化という動きを最も象徴する存在として1984年に開業した三陸鉄道は、当初こそ鉄道を熱望する地元の熱狂的な歓迎と全国的な注目によって黒字経営を続けたものの、1990年代以降は駅付近の集客施設(病院など)の移転や少子高齢化、そして道路網整備によるクルマへの転移などにより乗客減・経営悪化をたどったという点で、過疎地における鉄道の盛衰を凝縮させたかの観がありましたが、JR直通列車の運転や団体観光客の積極的な誘致による定期券外収入によって何とか持ちこたえてきたといわれます。
しかし、開業30周年を3年後に控えた今年、大震災で壊滅的な打撃が……。それにもかかわらず三陸鉄道は、困難なときこそ地方交通の本領を発揮しようという固い決意のもと、運転可能な区間で速やかに「復興支援列車」の運転を始めて高い注目を集め続けており、復興のために絶対に諦めないという姿勢は感嘆に値するでしょう。そこで、三陸鉄道にいつか乗りたいと思いつつも乗りそびれていた私も、このような時だからこそ乗りに行くことで、地域のために走る鉄道の本質を確かめたいと思ったのでした……。
そこでまずは、久慈にて三陸鉄道車庫脇のホテルに宿泊~。陸中野田から戻ってきた最終列車の走行音に、翌朝の眺めを期待しつつ一眠りしますと……ををっ!晴れ渡った翌朝には見事な車庫と山並みの展望が♪ しかし……色とりどりの車両で賑わう車庫に戻ってくることが出来ない車両が南リアス線や小本~宮古間に複数あることを思うと、複雑な気分を禁じ得ません。また、大震災発生時点では多くの車両が久慈に集結し、宮古口では僅か1両しか存在しなかったことから、宮古口の極端な車両不足を補うために久慈から2両が陸送されています。
それはさておき、朝7時発の陸中野田行に乗るため、否その前に車庫からホームに列車が入線するシーンを撮影するため、朝6時20分頃に宿をチェックアウトしまして、駅の脇の駐車場にていろいろ位置を確認していたところ……車庫の方からディーゼルエンジンの唸りが次第に大きく響いて来まして……いよいよ36-200形の2連が登場!! しかも、2両とも登場時以来の標準塗装車であるというのが最高に嬉しいですね……(*^^*)。キハ40をベースに全長をやや短くしたような (?) 車両であると思われる36-100/200形、その登場時は正面デザインと側面の塗り分けに思わず「新し過ぎ。派手すぎ……。」と目が点になったものですが、時は移ろい……今ではすっかりシブいDCに見えるようになったのは不思議なことです (^^;)。それでもフレッシュな印象を失っていないのは、やはり極めて秀逸なデザインだからなのでしょう。
一方、八戸方の外れの方には、典型的な軽快DCである36-500形が。1形式1両のこの車両は、1994年の転覆事故のあと予備車を確保するために造られ、一応他のDCとも混結できたようですが、Wikipediaの記述によりますと2年前に運用減で廃車……。その割には非常にきれいな状態を保っているのが不思議です。そのうちビルマ(ミャンマー)あたりに持って行くのでしょうか……?
こんな感じで撮影した後は、東西地下通路を通っていよいよ三陸鉄道の久慈駅へ。早朝につき窓口も自販機も営業しておらず、運賃300円は車内で車掌に支払われたしとの由。2連となっているのは、陸中野田から久慈へ向かう通学生に対応するためであり、これから陸中野田へ向かう数人の客はほとんど出口に近い2両目に集中していたことから、私は1両目を完全独占~。
そして朝7時……いよいよ陸中野田行きは重いエンジン音とともに出発し、まずは陸中宇部手前のトンネルまで延々と続く上り勾配をゆっくりと登って行きます。トンネルを越えたあとは淡々と田園風景を眺めて陸中野田に着きましたが、滴るような夏の緑に覆われた風景には、とりあえず震災を思い出させるものはなく……陸中野田で下車しなければならないことが少々不思議に感じられたほどでした。しかし、ここから風景は一変……。