東方のあけぼの

政治、経済、外交、社会現象に付いての観察

ヴァイツゼッカー親子

2015-05-28 21:38:50 | 戦争裁判
左翼や中韓お気に入りのヴァイツゼッカー元ドイツ大統領だが、父親はナチスドイツの外務次官で戦後戦犯裁判にかけられ7年の刑を言い渡されている。ニュルンベルグの後でドイツエリート達の裁判が職業別に行われた。これを「継続裁判」というらしい。その内のナチス政府高官達を裁いた裁判で有罪を言い渡された。

このとき、息子の元大統領が父親の弁護士を務めている。父親が無罪だという主張として、彼は郵便配達夫に過ぎず、ヒトラーの命令を右から左に配達しただけだと弁護したという。之によって此れを観るに、前回触れた点も合わせて考えると左翼が珍重する演説も演説全文を慎重に読んで判断する必要があるようだ。

戦争責任は誰がとるのか

2015-05-28 09:46:13 | 戦争裁判
戦争裁判という道化芝居は多角的に議論を深化させなければいけない。と同時に、周辺関連テーマにも目配りをすることが視野を広げる。

今朝の産經新聞、オピニオン欄に宮家邦彦氏の「三者三様の責任論」という寄稿がある。この意見もそういうものの一つである。

「戦争責任」(そう言うものがあるとしてだが)は誰にあるのか、というので世界では三種類の考え方があると宮家氏は書いている。<現在の>中国は国民にあるという考えだそうだ。だから未来永劫に日本国民が殲滅されないかぎり、日本国民が存続するかぎり、永遠に謝罪を繰り返しミカジメ料をシナに払い続けるべきだ、つまり日本国民全員に子々孫々に至まで責任があるという考えなんだそうだ。韓国も同列という。

筆者も断りをいれているが、これがシナ伝統の考えかどうかは疑問がある。なぜなら以前シナは「日本国民」と「軍国主義者」を峻別して、日本国民は軍国主義者の被害者だといって日本にすり寄って来た。まだ中国が世界の最貧国で日本に胡麻をすって援助をせびり取っていた時期であった。

日本がもう援助はいいだろう、離陸したんだからというと、途端に昔の態度を180度転換して「日本国民責任論」を利用しだした。

この態度は村山談話の文言を「しめしめ」と利用したらしい。村山談話では主語が「我が国、私たち」となっている。格好の餌を投げ与えたことになる。

ではドイツはどうか、と宮家氏はいう。例の日本の左翼主義者が有り難い教典のように崇め奉るワイツゼッカー演説である。こうあるそうだ。

「暴政の根源はヒトラーのユダヤ同胞に対する憎悪である。
このような犯罪は少数の人々の手によるものである。
民族全体が有罪または無罪ということは無い。
有罪とは、無罪と同様、集団ではなく、個人的なものである。」

ということだ。ここでもう一つ注目すべきはワイツゼッカーはユダヤ人虐殺にしか触れていないことである。第二次世界大戦の経緯(ポーランド侵攻などで始まった)については罪の有無を触れていない。つまりニュルンベルグ裁判で訴追された共同謀議の罪、戦争に対する罪、侵略に対する罪などについては責任に言及していない。

これを日本に当てはめると日本は特定の民族の殲滅を国是にしたことはない。朝鮮人を日本人にした。日本統治の短い期間に朝鮮人の人口は倍増した。満州国はたしかに日本主導だが、五族共和が国是で満人、シナ人も構成種族であった。中国本土では国民党や共産党とは対立したが、日本の支援したシナ政府があった。これを傀儡政権というのは反対者の立場からは当然だろうが、漢民族の殲滅等日本がいうわけがない。

つまりワイツゼッカー元ドイツ大統領が謝罪した(正確にはヒトラー(一派)の個人的犯罪であると言及しただけ)行為は日本とまったく無縁である。

さて、ドイツの例に戻るが、同じメンタリティー(責任は個人にあるという)を共有する欧州各国、ユダヤ人はワイツゼッカーの言葉を受け入れて問題を解決したのである。日本の例にドイツを持ち出すことは議論の上でまったく正当性がない。

宮家氏は最後にカイロ留学の経験を披露して、中東(イスラム)では人間のすべての行為は神様が決めるのだから人間には責任が無い。謝罪する必要が無いという。

いずれにせよ、面白い、示唆に富む論文である。