東京空襲を母の背中で体験した記憶は全くないが、広島県の尾道の山村に疎開した幼い記憶は、薄れながらも今も消えることはない。
沢沿いに数件の農家が点在する処が多くあったその村で、「ピカで死んでいった」と噂する人々の声を忘れない。その家の前を通ると、匂った記憶もある。後程つないだ記憶の糸もあるが、村の人々は恐れて近づくこともなかった。
「ピカ」あるいは「ピカドン」と呼ばれていた原子爆弾は、少し知識のある方でも大型爆弾と呼んでいた。子どもたちは単にピカと面白おかしく表現していた。それが原子爆弾であり、核爆発をしたものだとは知る由もなかった。
広島で直接被爆した人もいたかも知れないが、ピカで死んでいった人々の多くはその後の被爆地広島へ援助に行って、被爆した人たちである。なすすべもなく多くの被爆者たちは、自宅で死んでいった。
村の人たちは伝(うつ)ることを恐れ、ほぼ村八分の扱いをしていた。被爆者たちは、多分数年ですべての人が亡くなったと思う。
核兵器の恐ろしさ、世代を超える放射能の恐怖は、当時の開発者も予測はしていなかった。
今日は終戦の日である。
現在わが国の首相の安倍晋三は、核武装論者である。この男は、核兵器を所有する必要性を唱えている。靖国参拝も我慢しているようであるが、核武装論も我慢して口にしていない。アメリカの差し金である。
怖ろしいのは、戦争をできる国家を志向する為政者たちである。