戦後日本は、いち早く農地解放を受け入れた。小作農をなくす、民主化の第一歩として高く評価されている。しかし、それは一方で食べるのがやっとの、極めて小さな農家を大量産む結果になった事実もある。
こうしたことから、1961年の農業基本法ができるまでは、統廃合などで行われた農業の規模拡大は、一定の効果があったことは認めなければならない。
然し、基本法以降の農業政策は、土建屋と機械屋と政治屋の草刈り
場になった感がある。農業が票田になり、投資の対象になったのである。政策的な支援は、道路や灌漑や団地化や大型機械化などによって進められた。基盤整備と呼ばれる事業の殆どは、土木事業である。農場単位の生産額は伸びたが、農業生産の実態はほとんど伸びていないか、減少の傾向にある。つまり単位面積当たりの生産量は、規模拡大によって管理が杜撰になるからである。同時に、化学肥料や農薬も導入されることになる。
規模拡大が礼さんされて日本農業は突き進んできていたが、本来の食料生産という観点が等閑にされてきた。
酪農について言えば、一頭当たりの生産量は伸びた。大型農家の平均乳量は年間1万キロにもなる。しかし、給与される穀物は3500キロにもなる。牛乳の水分は85%もないが、固形分は1500キロしかない。穀物の半量にも満たない量となる。価格差がこれを補うのであるが、地球の裏側から運んでくる穀物は、フードマイレージの数字も高くエコではない。
大量の穀物を給与され生産を強制される先進国の家畜は、肥満にあえいでいる。その一方で12億もの人間が飢餓線上にある。先進国の家畜が、後進国の人の食料を奪う結果になっているのである。
大規模化した農家は、システム上多量に穀物を与えることになる。生産効率は上がったように見えるが、牛の生産寿命は極端に低くなる。獲得する卵や肉や乳より、給与カロリーの方が断然高くなる。疾病も格段に多くなる。施設投資も多くなり、経営は危うい状況で継続されることになる。
糞尿による環境汚染も深刻である。投資エネルギーも格段に高くなる。負債に追われ、労働に明け暮れる日々となり、家族間の連携も少なくなる。
安倍政権の進める攻める農業は、単純に大型化することである。国連は、今年を家族農業年と位置付けている。家畜をこうした苦痛から解き放つことが最近になって推奨されるようになっている。
結局大型農業は、世界の食糧を富める国が途上国から奪うことになり、環境の破壊や家畜に苦痛を与え、家族農業を潰すことになる。
安倍政権の農業政策は、世界の動きと対峙し、長期的地球規模的な視点がなく、未来に禍根を残すことになる。
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