詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

詩はどこにあるか(65)

2005-11-16 22:40:34 | 詩集
高橋睦郎『語らざる者をして語らしめよ』(思潮社)

 「1」の書き出し。

私はつねに奪われている
天空の中央という 私の位置
まぶしすぎるという 私の額と目
その位置に 到達不可能ゆえに
その額を 目を 直視不可能ゆえに
跪く者たちは 代行者を求める

 この作品にも「たち」(複数)が登場する。「跪く者たち」。――「私」という単独の存在しに対して「跪く者」は単独ではなく、複数である。複数であるがゆえに、彼らがみつめる「私」も複数になる。
 「私」は本当は複数に分裂させられるがゆえに「私」ではなくなる。「私」は私からさえ「奪われている」状態になる。

 ――こうした「意味」の分析は詩をつまらなくさせるだろう。

 そうではなく、私がこの作品から感じた「詩」について書くべきだろう。
 私は4、5行目に繰り返される「ゆえに」に「詩」を感じた。「ゆえに」のなかには想像力の回路がある。「ゆえに」を通って想像力はどんな形にもなる。「眩しい者」にも「怖ろしい者」にもなる。

眩しい者の衣を着る者は いつか眩しい者
怖ろしい者の言葉を語る者は いつか怖ろしい者

 「ゆえに」は「無」である。「無」の場である。そこにはどんな形もない。どんな拘束もない。どんなものにも生成しうる可能性だけがある。生成のためのきっかけ、夢のようなインスピレーションの一撃が「ゆえに」のなかにうごめいている。
 作品の末尾。

私を愛すると言ってはばからない者の
愛するゆえにという強引な理由によって

 「ゆえに」とは「強引」な力である。
 想像力とは強引な力である。

 高橋のことばが「詩」になるとき、そこには「強引」な想像力がある。構想力がある。「無」のいきいきとした現場がある。
コメント
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