詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

詩はどこにあるか(73)

2005-11-24 13:22:01 | 詩集
高橋睦郎『語らざる者をして語らしめよ』(思潮社)

 「9」。あらゆるものは対立項を持ち、同時に不可分である。

その霧の中で 二人の争いは愛と
愛は争いと 見分けがたく
けれども 結果は一方的に
ぼくがあなたを涜したことに  (25ページ)

 想像力は一方的に「絶対的他者」を冒涜する。それが「詩」の権利である。また、その「詩」を一方的だと批判するのは読者の権利である。その権利があるからこそ、また、次の「詩」が誕生しうる。

 「無」をくぐりぬけ、次々に「詩」が生成しつづけなければならない理由がそこにある。

 そうした「論理」とは別に、この作品には不思議な「詩」がある。引用した部分の「霧」。そのことばは、いったいどこからきたのか。
 引用に先立つ3行。

あなたは ぼくの剣(つるぎ)をひったくった
ぼくは あなたの勾玉(まがたま)を乞い受けた
たがいに噛み砕いて 吐き出した  (25ページ)

 意味的には、たがいに噛み砕いて吐き出したものが「霧」になるのか。あるいはたがいのものを奪い、あるいは受け取り、そして否定することが「霧」になるのか。
 どちらにしろ、すっきりとは落ち着かない。

 この行は、むしろ、唐突に高橋の内部からやってきた、あるいは頭上から高橋に降って来たもの、インスピレーションがもたらしたものだろう。
 こうした書き手自身と不可分、どんな説明もつかないものこそ「詩」である。

 「霧」。そのなかに存在するものは外部からはよく見えない。
 たぶん、そうした意味合いが、この詩の世界を支配している。
 世界は、そのなかで争っているもの、愛しあっているものには、事実として確認できる。しかし、その事実は、争い・愛が不可分である。その不可分な運動は、外部(他人)からはよく見えない。「霧」のなかの存在のように。

 「霧の中」は混沌としてみえる。「無」の世界のように。
 「霧」は「む」、「無」と韻を踏む。
 「霧」のなかに「無」は融合する。
コメント
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