詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

詩はどこにあるか(66)

2005-11-17 14:35:29 | 詩集
高橋睦郎『語らざる者をして語らしめよ』(思潮社)

「2」を読む。繰り返し読む。好きな行が立ち上がってくるまで繰り返し読む。

肉を腐らせるのは肉を見る目  (11ページ)

 ここには「ゆえに」が隠されている。(「1」についての感想参照。)
 肉は肉自身で腐るのではない。肉は腐るものだと断定し、見つめる目が存在するが「ゆえに」腐る。肉は腐らないものだと断定する目があれば、その目の存在、その断定の「ゆえに」肉は腐らないだろう。
 ある対象(実在)とそれを見つめる存在。ふたつの存在の間にある「無」。想像力の場。それが間接的に描かれた行である。

私は生きも死にもしない  (11ページ)

 この末尾の行は、したがって、私は私を生かす者によって(生かす者の存在ゆえに)生き、私を死なす者によって(死なす者の存在ゆえに)死ぬという意味合いで読まれるべき行である。



 「3」を読む。最終行

生と死は背きあって 久しい

 この行は哲学的だ。そして「生と死は背きあって 久しい」の1字空白が恐ろしく「詩」的である。「詩」を作り出している。

 高橋は生と死は本来背きあったものではなく、融合したものだと考えている。ところが今はそれが背きあっている。そうした「ねじれ」を1字空白が代弁している。
 ここには、まだことばにならないことばが潜んでいる。

 本来あるべき「ゆえに」の運動が捻じ曲げられ間違った「ゆえに」を通っているために生と死は背きあってしまったのだ。

帰ってきた男を定着するために
爾後 私は忘れられた男

 生は「帰ってきた男」である。死は「忘れられた男」である。
 この、忘れられた男がけっして忘れられず、帰ってきた男が忘れられてしまうという世界もあるはずなのである。正しい(高橋の信じている)「ゆえに」を正確にたどれば、本来そうなるはずである。

 そう気づいて

生と死は背きあって 久しい

 を読むと、1字空白のなかに、深い深い悲しみが見えて来る。高橋の精神の悲しみが見えて来る。



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