詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

詩はどこにあるか(72)

2005-11-23 13:17:13 | 詩集
高橋睦郎『語らざる者をして語らしめよ』(思潮社)

 「8」。闇と光の転換、あるいは鏡と実在の転換は、次のような形でも展開される。

だが ぼくは知っている
母に会うことは 母を喪うこと  (23ページ)

 真実の存在は「私」の外部に存在するのではない。また、私の内部に存在するのでもない。それは、私と一体の形で存在する。一元論的に存在する。

だが ぼくは知っている
母に会うことは 母を喪うこと
至り着いた時 母の国はないだろう
だから ぼくは父の光と母の闇
そのあいだを さすらいつづける
だから さすらうぼくとともに
道は どこまでもさすらいつづける
時は いつまでもさすらいつづける  (23ページ)

 「ぼく」は「道」であり、同時に「時」である。それは分離不能の存在である。
 「ぼく」がさすらうのでも、「道」がさすらうのでも、「時」がさすらうのでもない。「ぼく」は「道」となってさすらい、「道」は「時」となってさすらう。

 「無」とは「私」と他の存在が分離不能の状態である。切り離すものが何も「無い」。それは、とけあい、混沌としている。その混沌のなかから、ある瞬間には母になり、ある瞬間には父になる。また道になり、時になる。

 これは、あらゆる「詩」の生成の現場のありようだ。
コメント
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