高橋睦郎『語らざる者をして語らしめよ』(思潮社)
「7」。この作品にも「鏡」が登場する。
高橋にとって「鏡」とはある存在を正確に映し出すものではない。むしろ逆に、今ここにあるものの対極にあるものを映し出す。別なことばでいえば肉眼で直視したときは見えないもの(隠れているもの)を浮かび上がらせる。
この作品の「詩」は、しかし、そうした「鏡」の説明、構造分析にあるのではない。
この行の「変容する」ということばに「詩」がある。
論理的に書けば(頭で考えて書けば)、普通は「熱い火をつめたい水に変容させる鏡」になるだろう。しかし高橋は「変容させる」ではなく「変容する」と書く。
「鏡」がある存在を「変容させる」のではなく、「鏡」の前で、今、ここにあるものが「変容する」のである。
「変容」は「鏡」の意思、意図ではない。
そうであるなら、「鏡」は実在しなくても「鏡」たりうる。
暗闇の中でも脳(想像力)はあらゆるものを見る。肉眼には見えないものを見る。太陽が去ったあとの暗い海という「鏡」に人は夜通し自分の脳を映し出す。そして、その像は波のゆらぎのようにゆらぎ、波に乗って漂うもののように漂う。
「数限りない」とは「無数」と同義である。そして、「無数」の「無」は、想像力を縛り付けるものが「無い」の「無」に通じる。混沌とした想像力の場、「無」の場に通じる。
高橋の今回の詩集の帯には「この国では神神と詩人があらかじめ断絶している。この詩(ポエジー)にとって根源的な不毛を救済すべく、詩人は敢然、自ら口寄せとなって、神神一柱ずつに一人称で語らせることを試みる。」とある。
「無」は神ゆえに変容する。「無」の現場での生成は、それぞれの神をめざしての変容である。
このとき、詩は「神話」になる。
「7」。この作品にも「鏡」が登場する。
姉は自分の本質が鏡だと
やっきになって主張する
だが ほんとうは私こそが鏡
熱い火をつめたい水に変容する鏡 (20ページ)
高橋にとって「鏡」とはある存在を正確に映し出すものではない。むしろ逆に、今ここにあるものの対極にあるものを映し出す。別なことばでいえば肉眼で直視したときは見えないもの(隠れているもの)を浮かび上がらせる。
この作品の「詩」は、しかし、そうした「鏡」の説明、構造分析にあるのではない。
熱い火をつめたい水に変容する鏡
この行の「変容する」ということばに「詩」がある。
論理的に書けば(頭で考えて書けば)、普通は「熱い火をつめたい水に変容させる鏡」になるだろう。しかし高橋は「変容させる」ではなく「変容する」と書く。
「鏡」がある存在を「変容させる」のではなく、「鏡」の前で、今、ここにあるものが「変容する」のである。
「変容」は「鏡」の意思、意図ではない。
そうであるなら、「鏡」は実在しなくても「鏡」たりうる。
暗闇の中でも脳(想像力)はあらゆるものを見る。肉眼には見えないものを見る。太陽が去ったあとの暗い海という「鏡」に人は夜通し自分の脳を映し出す。そして、その像は波のゆらぎのようにゆらぎ、波に乗って漂うもののように漂う。
変容の過程には 数限りない挿話 (20ページ)
「数限りない」とは「無数」と同義である。そして、「無数」の「無」は、想像力を縛り付けるものが「無い」の「無」に通じる。混沌とした想像力の場、「無」の場に通じる。
高橋の今回の詩集の帯には「この国では神神と詩人があらかじめ断絶している。この詩(ポエジー)にとって根源的な不毛を救済すべく、詩人は敢然、自ら口寄せとなって、神神一柱ずつに一人称で語らせることを試みる。」とある。
「無」は神ゆえに変容する。「無」の現場での生成は、それぞれの神をめざしての変容である。
このとき、詩は「神話」になる。