詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

詩はどこにあるか(71)

2005-11-22 14:46:54 | 詩集
高橋睦郎『語らざる者をして語らしめよ』(思潮社)

 「7」。この作品にも「鏡」が登場する。

姉は自分の本質が鏡だと
やっきになって主張する
だが ほんとうは私こそが鏡
熱い火をつめたい水に変容する鏡  (20ページ)

 高橋にとって「鏡」とはある存在を正確に映し出すものではない。むしろ逆に、今ここにあるものの対極にあるものを映し出す。別なことばでいえば肉眼で直視したときは見えないもの(隠れているもの)を浮かび上がらせる。
 この作品の「詩」は、しかし、そうした「鏡」の説明、構造分析にあるのではない。

熱い火をつめたい水に変容する鏡  

 この行の「変容する」ということばに「詩」がある。
 論理的に書けば(頭で考えて書けば)、普通は「熱い火をつめたい水に変容させる鏡」になるだろう。しかし高橋は「変容させる」ではなく「変容する」と書く。
 「鏡」がある存在を「変容させる」のではなく、「鏡」の前で、今、ここにあるものが「変容する」のである。
 「変容」は「鏡」の意思、意図ではない。

 そうであるなら、「鏡」は実在しなくても「鏡」たりうる。
 暗闇の中でも脳(想像力)はあらゆるものを見る。肉眼には見えないものを見る。太陽が去ったあとの暗い海という「鏡」に人は夜通し自分の脳を映し出す。そして、その像は波のゆらぎのようにゆらぎ、波に乗って漂うもののように漂う。

変容の過程には 数限りない挿話  (20ページ)

 「数限りない」とは「無数」と同義である。そして、「無数」の「無」は、想像力を縛り付けるものが「無い」の「無」に通じる。混沌とした想像力の場、「無」の場に通じる。

 高橋の今回の詩集の帯には「この国では神神と詩人があらかじめ断絶している。この詩(ポエジー)にとって根源的な不毛を救済すべく、詩人は敢然、自ら口寄せとなって、神神一柱ずつに一人称で語らせることを試みる。」とある。
 「無」は神ゆえに変容する。「無」の現場での生成は、それぞれの神をめざしての変容である。
 このとき、詩は「神話」になる。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする