渡辺玄英「火曜日になったら戦争に行く」(思潮社)
「(三日月」を読む。84ページ。
渡辺の詩集のキーセンテンスは「それって……(なんだろーか?」であるキーワードは「(なんだろーか?」である。この詩集では一度だけしか登場しないが、詩集に収められているどの詩のどの部分に挿入しても何の不自然さもないだろう。
ある存在を別の存在に置き換える。これを一般に比喩という。詩に比喩はつきものである。(比喩を詩と勘違いしている読者もいるかもしれない。)
比喩とは想像力の産物である。想像力とは実在のものを歪めて見る力である。
「それって……」で終わってしまえば単なる比喩である。単なる詩である。
ところが「(なんだろーか?」と疑ってしまえば単なる詩や比喩ではなくなる。「詩」になる。ことばになりえない実在のもの、今ここにある揺らぎ、揺らぎの運動になる。
渡辺にとっては「詩」とは不確かな揺らぎである。
「(三日月」のなかには、渡辺の詩のもう一つの重要な要素があらわれている。
「暗い身体のなかの」という表現だ。
「身体性」というのは人間にとって不可欠なものである。精神や感覚といった不確かなものではなく、今ここにあることが誰にでもわかる存在である。だからこそ、たとえば
と身体(声)を頼りに自分を確かめもする。
確かめはするけれど、その存在さえも渡辺は疑っている。不確かと感じている。
「それって/身体のなかの」と語り始めながら、「身体」をくぐりぬけたものを確実な存在として提出しない。あくまで「(なんだろーか?」と疑問をつけて提出する。
それが渡辺の「詩」である。
「ヨル(深い水」に「それって……(なんだろーか?」を補ってみよう。そうすると渡辺の「詩」の世界がくっきりと見えてくるはずだ。
文脈の都合上「(ものなんだろーか?」としてみた。
「指をあてて」と身体をくぐらせて何かを感じる。感じながらも、「それって/(なんだろーか?」と揺らぎとしてしか提出しない。
現代において希薄になっているのは「ことば」というよりも「身体性」そのものかもしれない。
あるいは「身体性」は希薄になり、それにかわって「携帯電話」のような「利便性」がのさばっているということかもしれない。
「詩」は、そうしてみると、「利便性」を否定する存在でなければならない。つまり、何かを伝えるというより、伝えることを拒むものが「詩」でなくてはならないのかもしれない。
渡辺はおそらく「伝える」ことを拒絶し(揺らぎを提出することで、確実性を拒絶し)、その拒絶をとおして、今ここにことばにならないもの、「詩」が存在するということを証明しようとしているのかもしれない。
表題作「火曜日になったら戦争に行く」に次の行が出て来る。
「ことばが届かない」こと、つまり何も伝達しないこと――それが「詩」である。戦争での「実弾」が敵の身体に「届く」のように有効な唯一のあり方である。
*
この詩集には「栞」がついている。そこに書かれた野村喜和夫の詩はとてもすばらしい。おそらく野村の詩の代表的な一篇になるだろうと思う。
「(三日月」を読む。84ページ。
目をとじたはずなのに
三日月が見えている
それって
暗い身体のなかの (すきとおって
夜空に浮かんでいる 月
(なんだろーか?
渡辺の詩集のキーセンテンスは「それって……(なんだろーか?」であるキーワードは「(なんだろーか?」である。この詩集では一度だけしか登場しないが、詩集に収められているどの詩のどの部分に挿入しても何の不自然さもないだろう。
ある存在を別の存在に置き換える。これを一般に比喩という。詩に比喩はつきものである。(比喩を詩と勘違いしている読者もいるかもしれない。)
比喩とは想像力の産物である。想像力とは実在のものを歪めて見る力である。
「それって……」で終わってしまえば単なる比喩である。単なる詩である。
ところが「(なんだろーか?」と疑ってしまえば単なる詩や比喩ではなくなる。「詩」になる。ことばになりえない実在のもの、今ここにある揺らぎ、揺らぎの運動になる。
渡辺にとっては「詩」とは不確かな揺らぎである。
「(三日月」のなかには、渡辺の詩のもう一つの重要な要素があらわれている。
「暗い身体のなかの」という表現だ。
「身体性」というのは人間にとって不可欠なものである。精神や感覚といった不確かなものではなく、今ここにあることが誰にでもわかる存在である。だからこそ、たとえば
じぶんがいま地球のどのあたりにいるんだか
わからなくて
かすれた声をすこし出してみたり
する
「ヨル(深い水」 54ページ
と身体(声)を頼りに自分を確かめもする。
確かめはするけれど、その存在さえも渡辺は疑っている。不確かと感じている。
「それって/身体のなかの」と語り始めながら、「身体」をくぐりぬけたものを確実な存在として提出しない。あくまで「(なんだろーか?」と疑問をつけて提出する。
それが渡辺の「詩」である。
「ヨル(深い水」に「それって……(なんだろーか?」を補ってみよう。そうすると渡辺の「詩」の世界がくっきりと見えてくるはずだ。
ヨル部屋にもどって
TVをつけて 音を消す
硬いガラスに指をあてて
向こう側にはいけないことをたしかめる
それって
(消えかかったビデオのゆうれいみたく
深いヨルにしずんだりして
る
(ものなんだろーか?
57ページ
文脈の都合上「(ものなんだろーか?」としてみた。
「指をあてて」と身体をくぐらせて何かを感じる。感じながらも、「それって/(なんだろーか?」と揺らぎとしてしか提出しない。
現代において希薄になっているのは「ことば」というよりも「身体性」そのものかもしれない。
あるいは「身体性」は希薄になり、それにかわって「携帯電話」のような「利便性」がのさばっているということかもしれない。
「詩」は、そうしてみると、「利便性」を否定する存在でなければならない。つまり、何かを伝えるというより、伝えることを拒むものが「詩」でなくてはならないのかもしれない。
渡辺はおそらく「伝える」ことを拒絶し(揺らぎを提出することで、確実性を拒絶し)、その拒絶をとおして、今ここにことばにならないもの、「詩」が存在するということを証明しようとしているのかもしれない。
表題作「火曜日になったら戦争に行く」に次の行が出て来る。
(ぼくの弾丸は届くだろうか?
(ぼくのことばが届かないように?
「ことばが届かない」こと、つまり何も伝達しないこと――それが「詩」である。戦争での「実弾」が敵の身体に「届く」のように有効な唯一のあり方である。
*
この詩集には「栞」がついている。そこに書かれた野村喜和夫の詩はとてもすばらしい。おそらく野村の詩の代表的な一篇になるだろうと思う。