詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

詩はどこにあるか(60)

2005-11-03 01:01:03 | 詩集
荒川洋治「心理」(みすず書房)

 「葡萄と皮」。62ページ。

詩「ジャワ島の、ある地図をみていると」
さきほど七つの都市が記載されているのに
ミカブミ(二一四万)が、ぬけおちていることがわかった

 「ぬけおちていることがわかった」が荒川の「詩」である。荒川は私たちの意識から抜け落ちているものを掬い上げる。ただ掬い上げるのではなく「ぬけおちていることがわかった」と明確につげる。「わかった」が荒川の長所でもあり欠点でもある。長所と欠点を分離できない「個性」である。
 「わかった」という部分がめざわりなとき、たとえば「水駅」を批判した飯島耕一の指摘となる。頭のいい詩人――という感想が生まれる。「わからないもの」を手探りで探り続ける――それが文学である、という視点に立てば、当然の指摘である。

 荒川は飯島の指摘が完全に理解できたと思う。だからこそ、荒川は長い間「わかった」を隠すように詩を書いてきた。「わかった」を隠すことが、荒川のことばの運びのひとつの特徴だった。その、遠回りをするような文体、文体を維持する意識のなかに「詩」があった。
 その意識を、なぜか、荒川はこの行では維持できなくなっている。破綻している。こうした行、ことば、書くたくないけれど書かざるを得ない行、ことばも「キイワード」「キーライン」というものだ。書き手の「真実」(正直)を告げるものだ。

 「宝石の写真」――郵便番号と秩父事件の登場人物の動き、それをつないでみるとき、現在と過去からぬけおちているものがわかる。
 わかる、あるいは、わかった。だからこそ、荒川は、その周辺をゆったりと歩き回る。そして、その歩みそのものを「詩」にしたのだった。
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