那珂太郎『俳句と人生』(東京四季出版)
飯島耕一との対談のなかに蛇笏の「をりとりてはらりとおもきすヽかな」が出て来る。このすすきを白い穂になったすすきと読んだ上で那珂太郎は次のように発言する。
私もそう思う。「はらりと」は副詞。ものが軽く落ちたり、散らばったりするときにつかうことばだ。もともと「重き」とは対極にある。相反する二つのことばが出会って、いままで気がつかなかった存在を浮かび上がらせている。ここに「詩」がある。
この蛇笏の句の鑑賞に限らず、那珂太郎が対談集でとりあげている話題は、ことばの奥(ことばの広がり)をどう読むかという視点だ。
その奥を、たとえば那珂太郎は「謎」と呼んでみたりもする。(真鍋呉夫との対談)その謎を別のことばで飯島耕一は次のように言う。
ことばの「色・匂い・響き」。飯島はそうしたものに「詩」を感じている。
別のことばで言えば、それは日本語の「伝統」のなかに生きている人間の感覚というものだろう。
ひとつのことばには必ずそのことばに対応した現実がある。そして、その現実はほんとうは一つではなく個人個人の体験によって微妙に違っている。その違いが積み重なって(対話、読書などを通じて)、ことばに奥行きをつくる。
*
黛まどかとの対談で、那珂太郎は黛の句を深読みしている。(その深読みのすべてが私の深読みともほとんど合致する。)それと同じことを、私は蛇笏の句に対してもしてみたい。
をりとりてはらりとおもきすヽかな
一本の枯れた白いススキを手にとってそのはかない重さを感じた――というふうに植物を題材にしている句ではあるけれど、私はその奥に女性を思い浮かべてしまうのだ。
私とは別の大地に生きる一本のすすき。その命。略奪するとき、はらりと落ちるのは涙か。はらりと散らばるのは結っていた髪か。はらりと乱れるのは華麗な裾か。はらりと動くのは涙、髪、裾だけではない。それを統合しているおんなそのものが、その一瞬に動くのである。隠されていた柔肌が手のひらに思いがけない重さ(充実感)として伝わって来る……。
私の読み方は「深読み」を通り越して「誤読」の類である。
那珂太郎の対談のなかでは、こうした「誤読」も文学の楽しみとして取り上げられている。イマジネーションの自由な運動、そのエネルギーについて語られている。文学はイマジネーションの遊びである。その遊びが私たちの人生を豊かに広げてくれる。そして、その自由な運動は、実は、伝統(古典)を深くくぐることで鍛えられる――そうしたことが語られている。
ことばにつまずいて、イマジネーションを広げ、対話する楽しみ。それが伝わって来る対談集である。
*
那珂太郎は黛まどかとの対談のなかで次のように語る。
このことばは重い。重要な宿題を与えられた気持ちになった。
飯島耕一との対談のなかに蛇笏の「をりとりてはらりとおもきすヽかな」が出て来る。このすすきを白い穂になったすすきと読んだ上で那珂太郎は次のように発言する。
普通は重いというほどの重みを感じないのを、「はらりとおもき」と言ったところが面白いとおもうんですけどね。 (127ページ)
私もそう思う。「はらりと」は副詞。ものが軽く落ちたり、散らばったりするときにつかうことばだ。もともと「重き」とは対極にある。相反する二つのことばが出会って、いままで気がつかなかった存在を浮かび上がらせている。ここに「詩」がある。
この蛇笏の句の鑑賞に限らず、那珂太郎が対談集でとりあげている話題は、ことばの奥(ことばの広がり)をどう読むかという視点だ。
その奥を、たとえば那珂太郎は「謎」と呼んでみたりもする。(真鍋呉夫との対談)その謎を別のことばで飯島耕一は次のように言う。
年代が僕らよりあとになるほど、何というか、味とか、香りとか、色とか、僕らが詩というものに対して、最も大きく関心をもつ、その一番根にある、色と匂いと響きでもいいかな、そういうものがだんだん無くなってきて。 (120ページ)
ことばの「色・匂い・響き」。飯島はそうしたものに「詩」を感じている。
別のことばで言えば、それは日本語の「伝統」のなかに生きている人間の感覚というものだろう。
ひとつのことばには必ずそのことばに対応した現実がある。そして、その現実はほんとうは一つではなく個人個人の体験によって微妙に違っている。その違いが積み重なって(対話、読書などを通じて)、ことばに奥行きをつくる。
*
黛まどかとの対談で、那珂太郎は黛の句を深読みしている。(その深読みのすべてが私の深読みともほとんど合致する。)それと同じことを、私は蛇笏の句に対してもしてみたい。
をりとりてはらりとおもきすヽかな
一本の枯れた白いススキを手にとってそのはかない重さを感じた――というふうに植物を題材にしている句ではあるけれど、私はその奥に女性を思い浮かべてしまうのだ。
私とは別の大地に生きる一本のすすき。その命。略奪するとき、はらりと落ちるのは涙か。はらりと散らばるのは結っていた髪か。はらりと乱れるのは華麗な裾か。はらりと動くのは涙、髪、裾だけではない。それを統合しているおんなそのものが、その一瞬に動くのである。隠されていた柔肌が手のひらに思いがけない重さ(充実感)として伝わって来る……。
私の読み方は「深読み」を通り越して「誤読」の類である。
那珂太郎の対談のなかでは、こうした「誤読」も文学の楽しみとして取り上げられている。イマジネーションの自由な運動、そのエネルギーについて語られている。文学はイマジネーションの遊びである。その遊びが私たちの人生を豊かに広げてくれる。そして、その自由な運動は、実は、伝統(古典)を深くくぐることで鍛えられる――そうしたことが語られている。
ことばにつまずいて、イマジネーションを広げ、対話する楽しみ。それが伝わって来る対談集である。
*
那珂太郎は黛まどかとの対談のなかで次のように語る。
二十世紀というのは神なしの物質文明の世界、ニヒリズムの時代ですよね。それに代わるものとして、僕らは若い頃から文学というものを考えたんですよ。文学こそ宗教に代わって、根源的に魂の問題にかかわるものと……。 (187ページ)
このことばは重い。重要な宿題を与えられた気持ちになった。