詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

詩はどこにあるか(70)

2005-11-21 15:14:34 | 詩集
高橋睦郎『語らざる者をして語らしめよ』(思潮社)

 「6」は「5」と互いに照らしあう。

私は母の子でなく 父の娘
けれど 冥界から逃げ帰った男の
死の穢(え)をそそいだ雫から生まれたのなら
どうして光であるはずがあろうか? (18ページ)

 「光」と「闇」はいつでも転換し得る。その想像力の場が、この作品では「鏡」と表現されている。

つめたくしめっぽい闇のきしきし詰まった
しんそこ暗い鏡が さしづめ私のありよう
鏡が光を集め 放射し返すからといって
同じく円盤の形をしているからといって
私を あの目つぶしの光体と間違えないこと (18、19ページ)

 想像力の場では、何かが何かを集める。放射する。そのとき何かが生成される。生成されるものは、あらかじめ存在しているものとは違う存在である。むしろ、あらかじめ存在するものの対極にあり、対極にあることで互いを相照らすものかもしれない。




鏡はほんとうは何も映したくないのだと
布にくるまれた箱にしまわれる時 最も落ち着くのだと
考えたこともない おまえがたの想像力の貧困 (19ページ)

 この行にあらわれた「想像力」ということばに私は驚く。
 なぜ高橋はこのことばをつかったか。
 「想像力」ということば、「おまえがたの想像力の貧困」ということば――これは、この詩集の根幹をつくる「思想」である。高橋は、日本語を読む私たちの「想像力の貧困」を告発している。想像力の貧困を告発し、想像力を揺さぶるようにして作品を書いている。
 高橋は「考えたこともない おまえがたの想像力の貧困」と書く代わりに「おまえがたは考えたこともなかろう」と書くこともできたはずだ。終わりから3行目の「おまえがたにはどうしてわからない?」というふうに、概念を剥き出しにしない形で書くこともできたはずだ。しかし、高橋はそうしなかった。なぜか。切羽詰っていたのだろう。日本語の読み手の「想像力の貧困」をひしひしと感じていたのだろう。

 作者が無意識に書いてしまうことば、書かずには次のことばを引っ張り出せないことば、作者に密着したことばを、私は「キーワード」と呼んでいるが、「想像力の貧困」はこの詩集で高橋が書こうとしていることの「キーワード」である。
 鏡のように、読者の姿を映した「キーワード」である。

おまえがたにはどうしてわからない?
鏡は溶けて 闇になりたいのだ
闇は分解して 無と消えたいのだ (19ページ)

 「鏡」(高橋)は「想像力の貧困」など映したくない。そんなものなど映さず、ただ闇になりたい。「無」になりたい。
 この「無」とは、しかし、何もないという意味ではない。

 「無」は混沌である。そこに何もないと思えるのは、今まで存在していたものと同じ形のものがないゆえにである。しかし、そこにはエネルギーがある。今まで存在していたものが「無」を通り抜けることで今まで存在していたものとは違ったもの、違いながらもそれまで存在していたもの、その隠された姿を照らし出す何かを生成する。その不定形(定まった形が無い)ゆえに「無」なのである。

 高橋は純粋な「想像力」、何にでも変わりうる可能性をもったエネルギーそのものになりたいと望んでいる。その切実な声が、この3行から響いて来る。
コメント
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