詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

詩はどこにあるか(67)

2005-11-18 21:11:22 | 詩集
高橋睦郎『語らざる者をして語らしめよ』(思潮社)

 「4」を読む。ここに登場する母と父は不思議だ。知らない母のことが多く語られ、知っている父についてはひとつのことしか語られない。

俺たち 火の息子たちを
つぎつぎにいきみ出し ひり出し
焼けただれて かあさんは死んだ
だが かあさんとは何だろう
笑みかける目のことなら
俺たち かあさんを知らない
甘い汁をあふれさせる乳首なら
俺たち 吸ったことがない
いとおしげに愛撫する指なら
俺たち いとおしまれたことがない
俺たちにとって かあさんとは
耐えがかい臭(にお)いを立てて 開ききった穴
とうさんなら よく知っている
押さえきれない怒りで赤黒い顔
立ちはだかって わななく脛(すね)こぶら
振りあげて ふるえる腕
重い鋼(はがね)のにぶい光を振りまわし
俺たちをめった打ち 切りこまざかれて
俺たち 無限に分裂し 増殖する
増殖し 分裂し 炎えながら
不在のかあさんを捜す 捜しつづける


 母は無数に分裂することで「俺たち」をひとつにする。「不在のかあさんを捜す」という行為に収斂させる。
 一方、父は「俺たち」(すでに複数)をさらに「無限に分裂」させる。
 「不在のかあさんを捜す」という行為が父の怒りを呼び覚まし、その怒りが「俺たち」を分裂させ、その分裂が「不在のかあさんを捜す」という行為を切実にする。
 ひとつと無数は緊密な関係にある。切り離せない。
 この緊密な力が「詩」である。

 不在の母――それは不在(無)ゆえに、無数に描かれる。母の不在(無、という場所)を通って、想像力はさまざまな母を描き出す。だが、そのさまざまな母という複数は、複数になることによって、より強烈に「ひとり」の母を浮かび上がらせる。
 「笑みかける目」「甘い汁をあふれさせる乳首」……それは複数の母の姿だが、複数に描かれることによって真にひとりの母になる。

 無数と一つと無。
 高橋の今回の詩集には、その変容が繰り返しあらわれる。
コメント
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