詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

野沢啓「大岡信、ことばのエロス」

2023-07-15 15:17:00 | 詩(雑誌・同人誌)

野沢啓「大岡信、ことばのエロス」(「イリプスⅢ」、2023年07月10日発行)

 野沢啓「大岡信、ことばのエロス--言語隠喩論のフィールドワーク」を、野沢は、こう要約している。

大岡信の詩の魅力について、とくにその言語のエロス性について言語暗喩論的に論じてみた。

 しかし、大岡の書いている詩の、どの部分がエロスなのか、それがよくわからない。「翼あれ 風 おおわが歌」という詩の一部を引いて、

(大岡は)実際あったことかもしれない生の断片を詩の思想に変えることができる(略)。事実や事件をことばに置き換えるのではなく、ことばのなかでひとつの生を開き、まっさらなことばを新たに生み落とすことができる(略)。

 と書いている。たぶん「ことばのなかでひとつの生を開き、まっさらなことばを新たに生み落とす」がポイントなのだが、どのことばが「まっさらなことば」なのか具体的に示していないので、私には何が書いてあるのか理解できない。野沢が引用した行全部が「まっさらなことば」なのか。
 何度繰り返し読んでみても「まっさらなことば」というよりも、全部、私の知っていることばである。
 もし「まっさらな」もの(いままで存在しなかったもの)があるとしたら、それは「ことば」ではなく「ことば」の組み合わせである。
 これに関してだろうと思うけれど、大岡は、こう書いている。野沢は、次のことばを引用している。大岡自身の詩の立場を書いたものである。

詩というものを、感受性自体の最も厳密な自己表現として、つまり感受性そのもののてにをはのごときものとして自立させるということ、これがいわゆる一九五〇年代の詩人たちの担ったひとつの歴史的役割だといえるだろう。 (注、てにをは、には傍点がある)

 感受性の「文章構造(文体)」を自立させる、ということか。このことばには、荒地派(具体的には鮎川信夫か)への批判を含んでいるのだが、その荒地派を大岡は、では、どうとらえていたのか。野沢は、次の文章を引用している。

(荒地派の仕事は)語の組合わせによる言葉の秩序、つまり意味の秩序の新しいあり方を提示したということであり、別の言葉で言えば言葉のパタンを変えたということである。
 これを参考にすれば、大岡の主張は(大岡がめざしたのは)

語の組合わせによる言葉の秩序、つまり「感受性」の秩序の新しいあり方を提示したということであり、別の言葉で言えば言葉のパタンを変えたということである。

 「言葉の秩序」は日本語の場合「助詞(てにをは)」によるところが大きい。助詞によって主語、目的語が明確になると同時に「動詞」が限定される。つまり「助詞+動詞」には一定の決まり(文型/文体)が存在する。これは英語などが「動詞+前置詞」によってことばの秩序ができるのに似ている。
 大岡は、「意味」ではなく、「感受性」を中心にして、ことばを新しくしようとした、新しい感受性のあり方を示そうとしたということだろう。(私は、そう理解している。)「意味」に拘束されたくなかった。感受性を解放したかった。そのための「文体」を模索したということだろう。
 「新しくなる」のは「ことば」ではなく、「文体」である。それは「新しいことば」を「生み出す/産み出す」というよりも、いままのことばのつかい方を変更し、「新しいいのち」を吹き込むということであり、それは「ことば」というよりも「文体」そのものに「新しいいのち」を吹き込むという方がいいかもしれない。私は、そう思う。「てにをは」は「てにをは」のままである。しかし、その「てにをは」によって生まれる、ことばの「組合わせ(組み合わせ)」「秩序」「パタン」が変わる。「パタン(文体/文型)」が変わることで、いままで表現が難しかった「感受性のあり方」が表現できるようになる。その結果として、いままでつかっていたことばが「新しい感受性をあらわすことば」として見直される。「新しさ」の発見である。「新しいことば」の発見ではなく、ことばのなかに「新しさ」を発見する。組み合わせの「新しさ」が、「感受性」をも「新しく」する。
 野沢は、こう書いている。

大岡は敗戦によってゼロと化したかのような日本語にみずからの世代的感受性をたよりに、そこに「てにをは」の知にもとづく言語の振舞いの可能性を探ろうとした。大岡信の《感受性のてにをは》とは詩的言語の来たるべき方向性を示す指標だったのである。
                       (注、てにをは、には傍点がある)

 大岡が「敗戦によってゼロと化したかのような日本語」と感じていたかどうか、私にはわからない。だいたい、ことばは敗戦ぐらいで「ゼロ」になどならないだろう。
 それよりもわからないのは、大岡が《感受性のてにをは》ということばで目指した「詩的言語の来たるべき方向性」と、野沢の「言語隠喩論」の関係である。
 最初に戻るが、

大岡信の詩の魅力について、とくにその言語のエロス性について言語隠喩論的に論じてみた。

 と野沢は書いているだが、どの部分で「言語のエロス性」と「言語隠喩論」の関係を、どう書いているのか、それがどうにもわからない。
 野沢が書いている「言語のエロス性」とは、《感受性のてにをは》によって表現された、鮎川信夫とは違う「エロス性」をさしていると思うが、それは何をさしているのか。
 「エロス」に関していえば、「感受性のエロス」もあれば、「意味のエロス」もあるだろう。「論理的エロス」や「音階的エロス」「色彩的エロス」「労働的エロス」もあるかもしれない。「言語のエロス」と言われてもなあ、と私は考え込んでしまう。

 今回の文章はいつもの、博覧強記の「引用」がなく、他人への批判もなく、とても読みやすかったが、やっぱり野沢の「論理」展開がわからない。
 野沢が大岡を、《感受性のてにをは》の文体を確立すること(実現すること)によって、新しい詩の領域を開いたと感じているのだと推測はできるが、いままで書いてきた「言語隠喩論」のどの部分が《感受性のてにをは》とつながっているか、いままで野沢が引用してきた古今東西の哲学者たちのことばと大岡はどうつながっているのか、私には、見当がつかない。

 

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頭と肉体(感覚、あるいは実感)

2023-07-15 10:44:30 | 考える日記

 たとえば、東京の、とても見晴らしのいい高層ホテルに泊まったと仮定する。窓からスカイツリー(の頂点)と金星と北極星が見える。その3点を結ぶ。三角形ができる。その三角形の内角の和は? 簡単に考えてしまうと180度。でも、実際に測るとそうではないね。頭は180度を思い浮かべる。たしかに自分が立っている位置を無視して3点を結ぶ「平面」を想定すれば180度になるかもしれないが、自分の立ち位置がつくりだす「場の歪み」のようなものが影響して180度にならない。
 もっと簡単なわかりやすい例で言い直すと。
 たとえば、東京の、とても見晴らしのいい高層ホテルに泊まったと仮定する。(ごくふつうのホテルでもいいし、自分の部屋でもいいのだが。)天井と壁の三面がつくりだす天井のコーナー。それぞれの面のコーナーは90度。三つ重なれば、それは270度。でも、ベッドに寝転んで(あるいは椅子に座って)、その三面のつくりだす角度を見ると、なんと270度ではない。どの角も90度を超えている。(視覚の問題。)さらに、それを紙に描いて見ると(平面上に展開してしまうと)、その合計は360度になる。
 なぜ、どうして? 「立体だから」(空間だから)と言えばそれまでだが、立体だから(空間だから)を、それではわかるように数学的に説明できるか。三角形の内角の輪は180度、立方体のひとつの隅の角度の合計は270度のように説明できるか。まあ、証明できる人もいるだろう。でも、ふつうは、できない。
 そういうことは、「日常」にはたくさんある。
 きのう「神は死んだ」という日本語について書いたが、「無意識」が修正する「正しさ」のようなものが、どこかにあって、それは「正しい」と同時に「まちがい」でもある。それが「世の中」を動かすことがある。
 私は日本語を教える一方、スペイン語を勉強している。その教室で「わいろ」についての「ディベート」というと大袈裟だが、考えていることをスペイン語で話さなければならないことになった。その前に「政治」の話、「国際関係」、日本の「組織」の話をしていたので、私は、ふと田中角栄のことを思い出した。
 田中角栄の失脚の引き金は、立花隆が「金脈」を告発したことにあるが、問題は、そんなに簡単ではない。その前に、ベトナム戦争があり、アメリカは日本に自衛隊の派遣を要請した。角栄は、憲法9条を盾に拒否した。(韓国は派兵している。)怒ったアメリカは、角栄を追放することを決めた。(首相を交代させることを画策した。)それがどんなふうに実行されたか、それは知らないが、ともかく角栄は逮捕され、失墜した。これを見た政治家は、アメリカに逆らえば失墜するということを「頭」ではなく「肉体」で感じた。そして、それは多くのジャーナリズムのトップにも感染した。ここから、ずるずると「論調」はアメリカべったりになっていった。
 「頭」では、自分がアメリカによって、いまある地位からひきずり降ろされるということは起きないとはわかっていても、もしかしたらという「不安」が、肉他のどこかに残ってしまう。それは、人間をじわじわと蝕んでいく。いろいろなトップだけではなく、トップの姿勢は、その下で働く人にも。
 あ、少し脱線したか。あるいは、非常に脱線したか。
 私は、角栄に起きたのと同じこと(あるいは、それに近い圧力)が、世界中で動いていないか、疑問に感じている。それは何も、「中立」であることをやめて、NATOに加わわろうとするいくつかの国のことだけではなく、ロシアそのものにおいても。プーチンは、アメリカがプーチンをひきずり降ろそうとしているという「動き」ではないのか。それに対抗する形でウクライに侵攻した、ということもあるのではないだろうか。習近平や金日恩は、そうした「圧力」、同じように「追い込まれようとしている」と感じていないか。
 このアメリカの、すべてをアメリカの思うがままにという「圧力」は、多くの国が(多くのリーダーが)感じているかもしれない。なんとか、アメリカに対抗して、自分の国を守りたい(独自路線を貫きたい)と思っている国は多いだろう。ベネズエラは石油資源を盾にアメリカに抵抗している。南米で多くの左翼系の政権が誕生している。これは、アメリカへの「抵抗」ではないだろうか。この「抵抗」を感じるからこそ、アメリカはヨーロッパやアジアでアメリカの「圧力」を強めようとしているのかもしれない。

 飛躍しすぎる論理かもしれないが。

 アメリカの帝国主義は、たとえば三角形の内角の輪は180度、立方体のひとつの角の角度の輪は270度というのに似ている。それは、現実(立体空間、世界のなか)で「体感すること」とは違うのではないか。「頭」で考えるだけではなく、何か、私たちは「体」で感じるものを抱えて生きている。そして、それは「正しい」ことなのか、「まちがっている」ことなのかわからないが、人間を深いところで動かしている。「肉体」で感じることを、自分に言い聞かせるようにして、自分の見ている世界を受け入れている。
 なぜ、部屋の片隅の、三つの面の角は90度であるはずなのに、90度に見えないのか。一つ一つの角を測れば90度なのに、離れて見た瞬間90度ではなくなるのはなぜなのか。そして、90度ではないのに、それは90度であると判断できるのはなぜなのか。この問題を、いろいろな「世界」にあてはめるようにして考えてみたいと私は思っている。
 別の言い方で言えば。
 どちらが「正しい」か「まちがっている」か、簡単に判断しない。いま、自分は、どちらを選んでいるのか、どの立場で世界を見ているのか、それを忘れないようにしたいと思う。


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