「死ぬ」という動詞のつかい方は難しい。私の授業のときではないのだが、ある生徒が「かわいがっていた犬が亡くなってしまった」という文章を書いた。それに対して、「動物の場合は、亡くなったとは言わない」と別の先生が教えた。これは、まあ、正しい。そのあと「死ぬ、死亡、死去、逝去、崩御」というようなヒエラルキー(?)も学んだらしい。
まあね。
動物は「死ぬ」。「死亡」は「豪雨で7人死亡」(名前を具体的に出さない、自己や災害のおおきさをあらわす)。「ミラン・クンデラ氏死去」(固有名詞とともにつかわれる。有名人だ)。「エリザベス英女王逝去」(ミラン・クンデラよりも偉い、といっていいかどうかわからないが、肩書がかなり違う限られた人)。「天皇崩御」(天皇クラスにしかつかわない)。
で、ね。
これからが問題。日本語検定試験ならそれでいいけれど、ことばは「生きもの」だから簡単に割り切れないのだ。
たとえば父親。私は「きのう私の父親が亡くなりました」ということばを聞くと、ぞっとする。何か、違う。これは「かわいがっていた犬が亡くなってしまった」よりも、ぞっとする。「かわいがっていた犬が亡くなってしまった」には犬に対する愛情が感じられるが、「きのう私の父親が亡くなりました」には愛情が感じられないのだ。「他人行儀」な感じがしてしまうのだ。肉親の場合、とくに憎しみがこもっていない限りは「父が死んだ」がふつうなのではないか。少なくとも、私は、そう言う。
「死んだ」ということばを発するとき、何か身を切られる思いがある。こころが強く結びついているとき、「死んだ」と言うのではないか。
これは、こう考えてみるとわかる。
私はちょっと意地悪な質問を生徒にしてみた。死なない存在が神なのかもしれないが、「もし、神が死んだら、何という?」
「ことばのヒエラルキー」に従ってだろうが、「神が崩御」という答えが返ってきた。でも、そんな言い方は絶対にしない。「神が死んだ」としか言わないだろう。なぜか。神とは、こころと直接、しっかり結びついた存在だからである。そういう「親密」な関係にある存在に対しては「死亡/死去/逝去/崩御」などとは絶対に言わない。
ことばの奥には「こころのルール」がある。そして、それは「文法(形式?ルール)」では説明できないのである。「かわいがっていた犬が亡くなってしまった」には、こころがある。「父が死んだ」にもこころがある。「父が亡くなった」にもこころがある。その「こころ」をどう読み取るかは、これまた、ひとりひとり違うから、まあ、ことばはほんとうにおもしろい。
「検定試験」の合格が目的なら「犬は死んだ」と覚えないといけない。しかし、いま日常的に、「犬に餌をやる」ではなく「餌をあげる」という人が増えているし、数学の計算でも、「まず、括弧のなかの掛け算をしてあげて、それから括弧の外の数字を足してあげる」(これとこれを先に計算してあげて、それから……)という言い方をする教師もいる。昔なら「あげて」とは言わず「やって」と言っただろう。
脱線したが。
「死ぬ」ということばをどうつかうかは、ほんとうに難しい。私は、私が尊敬する人物について書くときは「死んだ」と書いてしまう。ミラン・クンデラが死んだ、という具合に。ミラン・クンデラが死亡した、とは書けないなあ。