神原芳之「熱帯夜」(「午前」2023年10月25日発行)
神原芳之「熱帯夜」、荒川洋治「枇杷の実の上へ」、工藤正廣「賛歌」と読み進んで、あれ、三人は申し合わせでもしたのだろうか、と思ってしまった。書いていることは違うのだが、私には、同じことをことを書いているように思えた。簡単に要約すれば、とりかえしのつかないことをしてしまった、という気持ちが、ことばの奥に動いている。とりかえしがつかないことは忘れてしまえばいいのだが、忘れられない。そのときの、忘れられないという気持ちのどうしようもなさ。
荒川洋治の作品が、いつものながらに手が込んでいて(ことばが、論理=意味になる前に肉体の方へ引き返してきて)刺戟的なのだが、神原芳之「熱帯夜」について書くことにする。
眠りに入ったと思ったら
眠りから放り出されてしまった
夢の門が開きかけたが 姿が見えたのは
会いたくない人たちばかり
はっと身構えた途端に
夢の門は閉じ その人たちの姿も消えた
浜辺に打ち上げられた魚は
なかなか眠りの海に戻れない
一行目の「思ったら」は、二連目の一行目で「途端に」と言い換えられている。「途端」はそのあとも出てきて、最後には「瞬間に」ということばに言い換えられている。熱帯夜の「長い夜」は「瞬間」でもある、という、まあ、どうしようもなさ。
荒川は、それを「一つ」、あるいは、そこから派生する「一同」と交錯させるのだが、これが、とてもおもしろい。
生涯の思い出は
数えてみればきりがないと思ったのに
ぼくにはたった一つだ
見たくなかったかげろうの
黄色い羽をはねあげる
ああ、ここにも「思った」があるね。「思う」とは、ことばにすること。
工藤は、こんな具合。
愛しい丘の上の
たった一人ぼっちのパヴロヴニア
高貴なあなたが不死の限り
わたしもまた不死を生きるだろう
工藤は「思った」と書いてはいないが、生きるだろうと「思った」がことばの奥に潜んでいる。
で。
脱線しながら、神原の詩に戻るのだが、「会いたくない人たち」というのは、死んだ人だろうなあ、とも、私は勝手に思うのである。誤読するのである。
そうすると、神原、荒川、工藤のことばは、死でもつながっているなあ、と感じる。
神原は、死ということばをつかっていないが。
浜辺に打ち上げられた魚は
なかなか眠りの海に戻れない
「浜辺に打ち上げられた魚は」は、きのう読んだ石毛の作品に出てきた「馬鹿貝」に似ている。
この詩では、まあ、神原自身が、一種の「臨死体験」をしているのだが、「魚」と眠りの「海」の呼応が平凡だけれど、この平凡がいいなあと思う。
荒川の作品では「枇杷のある家は病人が絶えない」という俗信と強い関係があるのだけれど、その平凡さが、やはり、とても効果的だ。作為的ではない。奇をてらっていないところが、読者を(私を)安心させる。
この奇をてらっていない感じは、神原の作品にも言える。
詩のつづき。
そのまま虚空を 薄墨色の空間を見つめた
岩戸のような頑丈な夢の門のことを思う
そこには意地の悪い小人の番人がいて
その夜にみる私の夢を決めるらしい
救急車のサイレンが遠くから聞こえてくる
その音はどんどん大きくなり
目標はうちではないかと胸騒ぎした途端
サイレンの音は止んだ
短編小説の「予定調和」の展開みたいだけれど、私は、けっこう「予定調和」が好きである。
でもね。
最終連は、かなり、嫌い。
そして、私は、実は、この「嫌い」を書きたくて神原の作品についての感想を書いている。
一連省略するので、ちょっとわかりにくいかもしれないが、問題の最終連。
気がつくと刺客が私に迫ってくる
逃げる足は何故か鉛のようで
たちまち追いつかれ
背中をぐさりと刺された
その瞬間に目が覚めて
刺された痕がひりひり痛んだ
最初に取り上げた「思った(ら)」は、「気がつく(と)」と変化している。「思う」と「気がつく」は似ているかもしれない。「思った途端」「気づいた途端」「思った瞬間」「気づいた瞬間」。どのことばも、とても似ている。
でも。
私は、「思った」と「気がつく(気づく)」には大きな違いがあるように感じる。「気がつく」には何か反省的なところがある。言い換えると「意識の操作」がある。それは、ことばを「肉体」ではなく、「理性」に従属させてしまう。
神原の作品は、「肉体」が刺され、「痕がひりひり痛んだ」と書かれているのだが、私にはどうも、その「肉体」(痛み)が感じられない。「主観」ではなく「客観」になってしまっている感じがする。
荒川の詩の中に、
こうなってしまうと 取り分けにくい
という、なんというか「理性」を拒んで、「肉体」そのものに判断を迫ってくることばがあるのに対して、神原は、「理性」で「思い」と「肉体」を「区分け」してしまっていると感じるのだ。
ことばが「整理」されてしまうと、「意味」はわかるが、味気ない。
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