山之口獏「大儀」、すぎえみこ「かたえくぼ」ほか(朝日カルチャーセンター、2023年10月02日)
受講生が、みんなと一緒に読みたいという作品、山之口獏「大儀」を持ってきた。
大儀 山之口獏
躓づいたら転んでゐたいのである
する話も咽喉の都合で話してゐたいのである
また、
久し振りの友人でも短か振りの友人でも誰とでも
逢へば直ぐに、
さよならを先に言ふて置きたいのである
あるいは、
食べたその後は、口も拭かないでぼんやりとしてゐた
いのである
すべて、
おもふだけですませて、頭からふとんを被って沈殿し
てゐたいのである
言いかえると、
空でも被って、側には海でもひろげて置いて、人生か
何かを尻に敷いて、膝頭を抱いてその上に顎をのせ
て背中を丸めてゐたいのである。
「空でも被って、何かを尻に敷いて、がいいなあ。面倒なことを放り出していたい。後半が大きくていい」という。「自然体がいい。最後の三行がいい」「ゐたいのである、で統一している。何が起きてもかまわない感じ、悠然としている」と感想がつづく。
私は意地悪な人間なので、こういう質問をしてみる。「大儀って、どういう意味?」
すると、「めんどう」「億劫」「何もしたくない」という答えが当然のことのようにして返って来る。
さて。
「めんどう」「億劫」「何もしたくない」という気持ちが、どうして「大きな感じ」、「悠然とした感じ」、あるいは「自然体」というような印象に変わっていくのか。
これは、なかなか難しい。「めんどうなこと、おっくうなこと」に出合うと、そんなことはしたくなくなる。「何もしたくない」。それが「大儀」だとして、その大儀の瞬間、最後の三行に書いてあるような「気持ち」にはない。「ああ、いやだ、いらいらするなあ」と言う感じが強いと思う。
少なくとも、「大儀」と感じた瞬間は。
そこから出発して、ことばが、少しずつ変わっていく。ことばが変わると、書いた人も変わってしまう。
その変化が、この詩の、実は一番おもしろいところではないだろうか。
そういうところに注目すると、この詩のなかで何が起きているかがわかる。
この詩には「また、」「あるいは、」「すべて、」「言いかえると、」という、それ自体は何も伝えないことばが、威張って一行を独占している。この独立した一行でいちばん重要なのは「言いかえると、」だろう。
そこで、私は質問するのである。
「どういうとき、言いかえると、ということばをつかう?」
「別のことを言いたいとき」「もっと伝えたい」「深く伝えたい」
そうだね、この詩は単に「大儀である」ということだけを伝えたいのではなく、つまり「面倒である」というようなことだけを伝えたいのではない。誰もが知っている「大儀」とは別のものを伝えたいのである。「大儀だなあ」と言うだけでは伝わらない何かを伝えたい。考えてみれば、転んだときに起き上がるのも大儀である。食べたあと、口を拭くのも面倒である。そういうことは「おもふだけですませて」、ほかのことをしたい。それくらい「大儀である」。
大儀なことは、「おもうだけですませて」、本当は別のことがしたい。思うだけでは終わらせたくない。それが最後のことばなのだ。
何気なくつかわれているように見えるけれど、この詩では「おもうだけですませて、」ということばを「起承転結」の「転」にして、すべてを「言いかえる」。ここには、信じられないくらいの「大転換」が隠されている。
最後の三行は、もちろん詩そのものだけれど、その詩の奥には、「また、」「あるいは、」「すべて、」「言いかえると、」という短いことばを動かしていくエネルギーがあって、そのエネルギーが最後に爆発し、解放されているのだと思う。
だから、感動的。
*
かたえくぼ すぎえみこ
さびしいこころは みみをすます
たのしいこころは かぜをさがす
わたしは わたしのきおくを
ととのえながら
いまの じかんをととのえる
きおくをやみに けすこともなく
ゆがめることもなく
まんなかにおいて
ちんもくでつつむ
そのちんもくのなかには
ささやかな よろこびを
わすれないうちにと
かきとめる かみがある
かろやかなこころは みちをさがす
かぜをうけるこころは たびをする
「ひらがなで書かれていて、それが非常になめらかで、心地よい。四連目、特に、ちんもくでつつむ、がいい。詩でつつむ感じ」「最初の二行と最後の二行がとても印象的」「対になった構造は、すぎさんの詩では、あまりみない手法だと思う。詩の入り方がさっと入り、終わりがさりげなく終わるのがいい」
作者は、四連目がいちばん書きたかった、と言う。
私は、そのあとの五連目「そのちんもくのなかには」は、とても印象に残った。この一行が好きである。(講座で読んだときは「その ちんもくのなかには」と、一字の空白、空きがあった。)「その」ということばはなくても意味は同じである。「その」がなくても、読者は、直前の「ちんもく」以外の沈黙を考えない。
しかし、「その」がある。
「その」があると、意識がぐいと直前に書かれている「ちんもく」に引きつけられる。粘着力というか、牽引力が強く、ことばがその沈黙に集まって来る。ブラックホールのように、すべてを飲みこんで、ビッグバン(爆発)を起こす。
この動きがいい。
タイトルも、なかなかおもしろい。受講生は「思いつかないタイトル」という。作者は、両えくぼだと百%になってしまうので、それが避けた、と言った。
*
水蜜 青柳俊哉
古代の朝 緑の雨がふる
桃やかえるが囁く
畝(うね)の中のこみちを
口ずさみながら渡っていく天使の少年
ほぐされた黒い土に滴がはねる
うかびあがる水蜜を農夫が素早く掬い取る
いくすじか土や草に光が点り
瞼をひらくように
誰かが囁きかえす
古代の神性を ひとがうまれるころの
情感を 野に灯しながら少年が
霊歌を奏でる
「自然、農夫のイメージを抱くことができた」「桃が囁く、というのはおもしろい。古代というのは、どれくらいの古代かなあ、吉野ヶ里くらいかなあ」と言う声に対し、作者は「人が生まれる前、あるいは生まれるころ」を想定している。天使はおおげさすぎたかな、という」
たぶん「天使の少年」とことばが重なっているから、イメージが濃くなりすぎるのかもしれない。
しかし三連目には「少年」があり、それと呼応させるためには「天使の少年」と書かなければならなかったのかもしれない。呼応といえば、「囁く」と「囁きかえす」という呼応もあるが、「緑の雨」に対して「滴」があり、「うかびあがる」には「掬い取る」がある。「緑の雨」は「いくすじ」と呼応するし、「滴」は「光(が点り)」と呼応するだろう。「光が点り」は「野に灯し」と呼応する。ことばの呼応が、情景が立体的にしている。
最終行の「霊歌」がよくわからないという声が聞かれた。「霊歌」に呼応することばがないからかもしれない。「囁く」に対して「霊歌を奏でる」が呼応している、かもしれない。「囁く」と「奏でる」が呼応しているかもしれないが、私も「霊歌」は「天使」以上に、全体の中では、ことばとして浮いていると思う。
*
風鈴 池田清子
風鈴が鳴っている
最近越してきた家からか
扇風機を止めてみる
虫の音を
かき分け かき消して
澄んで 届く
風鈴が鳴っている
?
泣いてる?
よしきりは鳴く
ひぐらしは鳴く
とか 詩われてきたのに
ごめんごめん
風鈴も 鳴っている
「朗読を聞いて、風鈴が生きているものとしてあつかわれているのを感じた。黙読したときは二連目が詩的だと思った。朗読を聞いたあとは、最終行に向かって意識が動いているのがわかった」「風鈴の音から静かさが伝わって来る。鳴ると泣くの書き分けもおもしろい」
風鈴が鳴っている。虫の声は泣くか鳴くか。風鈴は、どっちだろう。泣くだろうか。よしきりは鳴く、ひぐらしは鳴く。そうであるなら、風鈴も鳴る。この「も」に作者のいいたいことが集約されているのだと思うが、少し論理的すぎないだろうか。
ほんとうは、どう思いたいのだろうか。
思ったことを書くのも詩だが、思いたいことを書くのも詩である。山之口獏の「大儀」のように。山之口獏の書いている最後の三行は、思ったことというよりも、思いたいこと、つまり、そこには欲望がこめられている。「大儀」なとき、つまり私たちが、あれやこれなのなかで生きる力を失いかけたとき、その失いかけた欲望を呼び覚ます何かが書かれている。
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