ようやく「林達夫著作集」の再読を終えた。これから読み始める本(中井久夫や林達夫より古い本)のための、なんというか、「ウォーミングアップ」のつもりで、中井久夫のエッセイ、中井久夫著作集、林達夫著作集と読み進んできたのだが、正月から10か月もかかってしまった。このままでは、死ぬまでに読みたい本を読み終えることができない、とかなしくなる。
福大病院の検診には、診察券もマスクも忘れてしまった。物忘れが激しくなったし、検査の結果も、予想はしていたがつらいものがあった。
でも。
林達夫には励まされる。晩年になってから、ロルカに出会い、スペイン語の勉強をはじめている。NHKのラジオ講座で。かつて勉強したことがあるロシア語もラジオ講座で復習している。何歳になっても、勉強している。
そういえば。
林達夫の文章には、よく「勉強」ということばが出てくる。生涯、勉強をつづけた人なのだ。林達夫からはいろいろ学んだが、この「勉強」ということばは、林達夫の思想をとてもよくあらわしていると思う。
林達夫は、いろいろなことに対して、異論・反論を書いている。ある「学問」に対して、別の視点を提供している。それは、多くの「学問」が何ごとかを整理・要約するのに対して、その整理・要約された「学問の周辺」を勉強して、領域をひろげるという作業のように思える。
「山」には頂点がある。そして、山にはすそ野がある。それだけではなく、山には「周辺」がある。山は、思いもかけないところから始まっている。どこから山へ上りはじめるか。それは、「きり」がない。「きり」がないとわかっているのに、林達夫は、そんなことはない、と信じて「周辺」をひろげ、そのために勉強している。
「勉強」ということばに触れるたびに、私は、林達夫の書いているあれこれを思い出し、自然と、それをまねしたくなる。