三田洋『悲の舞 あるいはギアの秘めごと』(思潮社、2018年08月30日発行)
三田洋『悲の舞 あるいはギアの秘めごと』の表題作になっている「悲の舞」。
「悲しみ」と書かずに「悲」と書く。文字で読めば「悲しみ」とすぐにわかるが、声で聞いたときはわからないかもしれない。しかし「悲」を「悲しみ」と理解していいのかどうか。すこしなやましい。
「悲しみ」に「斜めうしろ」はあるか。「悲しみ」は「すくう」ことができるか。
「悲」は「悲しみ」に似ているかもしれないが、「悲しみ」ではない。それは三田の認識によって、特別な形をあたえられた何かである。
「悲」は「悲しみ」であって、「斜めうしろ」や「すくう」は、「比喩」であると考えることもできるが、「斜めうしろ」や「すくう」が現実であり、「悲」が比喩であるということもありうる。
一連目を、三田は、こう言いなおす。
「爪先」は「爪の先」だが、私は「足の爪先」を思い出す。手の「爪の先」とは思わなかった。だから、直後に「白すぎる紙の指」が出てきたときは、とても驚いた。
それとも「悲は日常の爪先ではなく」は「悲は日常の爪先ではない」という一行が、ことばとして独立せずに、文章のなかになだれていったのだろうか。
そうではなくて、やはり一連目の「すくう」が言いなおされているのだと思う。
「呼吸をほどこすように」は、悲しみで息をつまらせているものの、息が再び動き始めるように、寄り添うように、くらいだろう。
「すくう」は、このとき「掬う」ではなく「救う」にかわる。「救い出す」ことを「掬う」という一言で言っている。「悲しみ」を「悲」という一文字であらわすように。
そして三連目。
「すくう(救い出す)」という動詞は、ここでは省略され「やさしく包み込む」という動詞が代わりに動いている。「すくう(救い出す)」ということは「包み込む」ことである。
さて。
そうすると「悲(しみ)」というものは、自分のなかにあるのではなく、自分の外にあるものなのか。
他人の「悲(しみ)」を「すくう」と言っているのか。いや、そうは読むことができない。三田は自分の「悲(しみ)」と向き合っているとしか読むことができない。ことばは外へ向かって動くというよりも、内へ内へと動いている。
「すくう」は「ふさぐ」と言いなおされている。「ふさぐ」は「包み込む」を言いなおしたものでもある。自分の肉体から「こぼれる」「悲(しみ)」。感情とは、いつでも「肉体」から出ていってしまうものだ。しかも出て行くと、さらに感情を誘い出すのだ。だからこそ、こぼれないように「ふさぐ」。
三連目の「やさしく」は「ていねいに」と言いなおされている。
このあと詩は、こう展開する。
うーむ。
「奥の間」か。これは日本の家の構造をあらわしているのだが、それはそのまま「物理」の「構造」へとつながっていく。「ひかり」「粒子」。「粒子」は「分子」「原子」「中性子」などのことばにつながることばだ。
三田のことばの動きは、どこかで「科学」と通じている。展開の仕方が「論理」を感じさせる。
だから、この最終連が三田の書きたかったことなのだとわかるのだが。
「悲をすくう」というときの「主語」は「人間(三田)」だったのに、最終連では「人間」が消え、「悲」が主人公になって舞っている。
悲(しみ)が舞うことが、舞わせることが悲(しみ)をすくうことか。
うーむ。
私は、「悲(しみ)」が主人公にならずに、人間が主人公のままのところまでの方が好きだなあ。
他の作品もそうなのだが、「論理」が勝手に動き始める。論理とはもともとそういうものなのかもしれないけれど、その動きすぎは、言いなおすと「書きすぎ」ということになる。論理が自律運動をはじめる前にことばをたたききった方が、おもしろいのでは、と思う。
「結論」は詩人が書くのではなく、読者が書くもの。言い換えると、詩は読者が引き継ぐもの。「結論」を書かれてしまうと、その瞬間、手元に引き寄せたものか、ぱっと離れていく。
金魚すくいで、金魚が紙を破って逃げていくみたい。あ、逃がしてしまった。あと少しだったのに。悔しい、という感じが残ってしまうのににているなあ。
*
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三田洋『悲の舞 あるいはギアの秘めごと』の表題作になっている「悲の舞」。
悲は斜めうしろから
すくうのがよい
真正面からでは
身がまえられてしまう
「悲しみ」と書かずに「悲」と書く。文字で読めば「悲しみ」とすぐにわかるが、声で聞いたときはわからないかもしれない。しかし「悲」を「悲しみ」と理解していいのかどうか。すこしなやましい。
「悲しみ」に「斜めうしろ」はあるか。「悲しみ」は「すくう」ことができるか。
「悲」は「悲しみ」に似ているかもしれないが、「悲しみ」ではない。それは三田の認識によって、特別な形をあたえられた何かである。
「悲」は「悲しみ」であって、「斜めうしろ」や「すくう」は、「比喩」であると考えることもできるが、「斜めうしろ」や「すくう」が現実であり、「悲」が比喩であるということもありうる。
一連目を、三田は、こう言いなおす。
悲は日常の爪先ではなく
白すぎる紙の指で
呼吸をほどこすように
すくうのがよい
「爪先」は「爪の先」だが、私は「足の爪先」を思い出す。手の「爪の先」とは思わなかった。だから、直後に「白すぎる紙の指」が出てきたときは、とても驚いた。
それとも「悲は日常の爪先ではなく」は「悲は日常の爪先ではない」という一行が、ことばとして独立せずに、文章のなかになだれていったのだろうか。
そうではなくて、やはり一連目の「すくう」が言いなおされているのだと思う。
「呼吸をほどこすように」は、悲しみで息をつまらせているものの、息が再び動き始めるように、寄り添うように、くらいだろう。
「すくう」は、このとき「掬う」ではなく「救う」にかわる。「救い出す」ことを「掬う」という一言で言っている。「悲しみ」を「悲」という一文字であらわすように。
そして三連目。
太古から伝わる悲の器のように
やさしく抱え込みながら
静かな指のかたちで
「すくう(救い出す)」という動詞は、ここでは省略され「やさしく包み込む」という動詞が代わりに動いている。「すくう(救い出す)」ということは「包み込む」ことである。
さて。
そうすると「悲(しみ)」というものは、自分のなかにあるのではなく、自分の外にあるものなのか。
他人の「悲(しみ)」を「すくう」と言っているのか。いや、そうは読むことができない。三田は自分の「悲(しみ)」と向き合っているとしか読むことができない。ことばは外へ向かって動くというよりも、内へ内へと動いている。
すくってもすくっても
こぼれてしまうけれど
傷ついたいのちのすきまを
ていねいにふさぐように
「すくう」は「ふさぐ」と言いなおされている。「ふさぐ」は「包み込む」を言いなおしたものでもある。自分の肉体から「こぼれる」「悲(しみ)」。感情とは、いつでも「肉体」から出ていってしまうものだ。しかも出て行くと、さらに感情を誘い出すのだ。だからこそ、こぼれないように「ふさぐ」。
三連目の「やさしく」は「ていねいに」と言いなおされている。
このあと詩は、こう展開する。
だれもいない奥の間の
ひっそり開かれる戸から
陽がさしてくればなおよい
そのとき
悲はひかりの粒子にくるまれて
必然のつれあいのように
すくいのみちをめざしながら
秘奥の悲の舞を
ひそかに演じるのでしょうか
だれもいない開演前の舞台のように
うーむ。
「奥の間」か。これは日本の家の構造をあらわしているのだが、それはそのまま「物理」の「構造」へとつながっていく。「ひかり」「粒子」。「粒子」は「分子」「原子」「中性子」などのことばにつながることばだ。
三田のことばの動きは、どこかで「科学」と通じている。展開の仕方が「論理」を感じさせる。
だから、この最終連が三田の書きたかったことなのだとわかるのだが。
「悲をすくう」というときの「主語」は「人間(三田)」だったのに、最終連では「人間」が消え、「悲」が主人公になって舞っている。
悲(しみ)が舞うことが、舞わせることが悲(しみ)をすくうことか。
うーむ。
私は、「悲(しみ)」が主人公にならずに、人間が主人公のままのところまでの方が好きだなあ。
他の作品もそうなのだが、「論理」が勝手に動き始める。論理とはもともとそういうものなのかもしれないけれど、その動きすぎは、言いなおすと「書きすぎ」ということになる。論理が自律運動をはじめる前にことばをたたききった方が、おもしろいのでは、と思う。
「結論」は詩人が書くのではなく、読者が書くもの。言い換えると、詩は読者が引き継ぐもの。「結論」を書かれてしまうと、その瞬間、手元に引き寄せたものか、ぱっと離れていく。
金魚すくいで、金魚が紙を破って逃げていくみたい。あ、逃がしてしまった。あと少しだったのに。悔しい、という感じが残ってしまうのににているなあ。
*
評論『ことばと沈黙、沈黙と音楽』を発行しました。190ページ。
谷川俊太郎の『聴くと聞こえる』についての批評をまとめたものです。
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「詩はどこにあるか」8・9月の詩の批評を一冊にまとめました。
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オンデマンド形式です。一般書店では注文できません。
注文してから1週間程度でお手許にとどきます。
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(1)詩集『誤読』100ページ。1500円(送料250円)
嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
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