詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

藤井晴美『大顎』

2018-08-25 12:23:12 | 詩集
藤井晴美『大顎』(七月堂、2018年08月01日発行)

 藤井晴美『大顎』は、不気味だ。だが、藤井晴美が男であるとわかってからは、私の中で「不気味さ」がいくぶん減ってきた。名前だけ見て、男か女かわからなかったときの方が不気味だった。そうすると、「不気味」とは「わからない」と定義できるのだとわかった。「わかる」と「不気味」は「抒情」になってしまう。
 「抒情の中絶」という作品。

 殺人には沈黙させることのできない、一瞬にして 偏りの遍在がある。今日詩とは、その殺人を予告するものだ。

 「偏りの遍在」が美しい。「偏り」と「遍在」は矛盾するが、矛盾であることが美しい。でも、これは「男の論理」だな、と感じてしまう。もしこのことばを女が書いたのだとしたら、それは「女の論理」ではなく「女の真理」になる。
 男とは「論理」を組み立てるけれど、「真理」というものをつかみとることはない。女は「論理」をすてて「心理」をつくりあげる。捏造すると言い換えてもいい。「真理」はときどき「心理」へとねじれていく。女は「心理」を「真理」にする。それ以外を認めない。だからこそ、これを書いたのは男かなあ、女かなあ、とわからないときは、それが「事実」としてそこに存在する。藤井のことばを借りて言えば「遍在する」。その「存在感」に圧倒されることになる。「わかる」と、「既視感」になってしまうときがある。
 というような読み方(感じ方)は、私が男と女を固定観念でみているからなのかもしれないが。
 詩の続き。

 殺人という黒い凹み。黒い音符。鍋の凹み。金槌で陥没。ゴッホの絵。呼吸するランプ。呼吸する電球としての殺人。他者を受け入れない女の腹から産まれる殺人出産。
 文章と文章の間が不可解に抉れて殺人現場のようになっている、一個の現実。

 「殺人」と「黒い」の調和。「音符」という抽象の美しさ。「ゴッホ」「呼吸するランプ」という調和は「定型の抒情」に感じられる。「他者を受け入れない女の腹」というのは強いことばだが、「殺人出産」が論理的すぎるなあと思う。
 「文章と文章の間が不可解に抉れて殺人現場のようになっている、一個の現実。」は「批評」になっているが、そう感じるのは私が男だからかもしれない。女は「説明」と読むかもしれない。「いま、ここにない現実」が噴出してきていないからだ。つまり、完結しているからだ。

 「完結」と、ことばはどう戦うか。これはむずかしい課題だ。「ことば」のなかの時間をどう突き破るかということなのだが。
 あ、でも、こんな抽象を書いてみても、感想にならないか。
 私が「完結」を感じるのは、たとえば「ショートした足は手から抜けない」の最初の部分。

 メス井猿美を刺身にして、箸でつまんで食ったが、腐っていた。鼻をつまむように、時間をつまんだら小人の殺戮が始まった。
 ぼくはその小人に心が痛むほどの美を感じた。他者を裏切り、責め立てる苦痛美を。他者を存在させているのはそのようなぼくなのだ。不潔な苦しみの微々たるもの。

 「時間をつまむ」という「比喩」。それが「殺戮」にかわる。さらに「美」に昇華し、「苦痛/美」という矛盾を突き破って、「他者を存在させているのはそのようなぼくなのだ」と定義してしまうところ。
 とても美しいが、その美しさに「感動した」と書いてしまうと、もうほとんど読まずに書いた感想みたいになってしまう。

 詩を読むのはむずかしい。




*

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