詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

アルメ時代28 冬の水たまり

2020-01-23 21:53:17 | アルメ時代
28 冬の水たまり



 冬の水たまりをのぞきこんだとき「沈滞した空虚」ということばが脳を切り裂いた。衰弱の発作がまたやってきたのだ。ビルの背後にある傾斜した空を映す水の薄い膜、水のたわみを隠している不確かな存在に叙情的懐疑を投げ込み、ことばは何を引き出すつもりなのか。美しい形に整えたい主題などもちあわせていないのに。
 「あるいは欲望の放棄」と執拗にことばにしてみる。放射冷却で白くなったアスファルトよりも繊細に浮かぶ断片の密度が薄れていく。網膜には空の青さに侵入してきた雲がすみつき、不可解な形で動いている。意識も不定形に揺れはじめる。虚構を構造化しなければ、水たまりを覗いたときの、水とことばの密着度は維持できなくなった。
 あのとき、最初の光が網膜の深部をつらぬき、ことばの内部にひそむ本能を照らしたときこそ否定の計画を実行するときだった。幼年期の無邪気さで踏み砕いてしまえばよかった。「明晰さを希求するものは判断停止という罠に飛びこまなければならない」という箴言に従うべきだった。そうすれば沈黙と和解できたのだ。古くさい象徴を探して、視界が脳髄の色に染まるのを見ている必要もなかった。水は静かな平面を失い、雲の形を乱反射する光のなかに吸収していたはずだ。そしてことばは、その乱反射の暗さ、光のなかの鋭角的な闇に封印されたはずなのだ。
 郷愁の冷たさ、発芽の脅迫--それは確かに存在した。ことばはいま、思い出すことができるのだから--を、ことばはなぜ誤読したのか。氷の割れる音、足裏にこめる力を逆にたどって脳へのぼりつめる音を利用すべきだった。それが、救済不能の精神から、感覚を生成する器官の豊饒な闇へと避難する唯一の方法だと認識しながら、なぜ普遍という不毛性の誘惑に負けたのか。
 一定の強度という口実、重力のように存在と運動に解体されていくものが、後悔や啓示のようにことばの不徹底を照らす。「錯覚が帰属する相対的逆説」ということばが実体を求めて浮遊する。氷をみつめ、筋肉を動かすときに体内を走る電流という幻を盲目的に反芻すれば、平衡が消失する。模造の困惑が器官を放任する。感覚の形状的説得力。誤謬の不確実的限界。未消化の装飾節に拘束されて、ことばは動けなくなる。水たまりのなかで雲が形を変えるのをみつめたまま。


(アルメ248 、1987年03月25日)

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