詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

アルメ時代31 猿芝居

2020-01-26 10:01:06 | アルメ時代
31 猿芝居



原始の形をしている
すべては私から生まれた
と自負している猿
人間を不安がらせることを仕事と心得ている
何かの拍子で猿になったかもしれない
そう錯覚させることを使命と考えている
桜の季節にはセックスをしてみせる
ささやきも前戯もない
素人芝居の台詞回しのように
見つめ合い情を深めるフリなんてしない
後ろからあっという間
「猿の精液も白いのね」
まっすぐな視線で女がいう
男は少し話をずらす
「知ってるかい首吊りすると
激しく勃起するんだ そして
とめどもなく射精する」
これは目が合うことをおそれた大根芝居
あるいは知的会話という猿芝居
見られていると
見つめる奴らのスキが見えてくる
猿は猿だ 羞恥心を知らない
言ってしまえばおしまいなのに
昨夜が気になって話をかえる知恵が浮かばない
「脇の下にキスしてと言えばよかった」
「長く持たせようと数を数えたのが失敗だった」
反省などするから声がうわずっている
さて猿は猿 人間から生まれたわけではない
しかしおまえらの淫乱は私から生まれた
わからせるために再び背後にまわる
「ねえ、あの猿何しているの」
答えなくていい
ガキはみんな知っている
土曜の夜ごとのクスクス笑い
「やっと眠ったわね」
扉を閉めおわらないうちのくすぐりあい
みんな知っている
知っていることを知らせたい
自己主張して困らせたいだけなのだ
聞こえなかったフリをして歩いていけばいい
おまえなんか付録だと言い放って
腕でも組んで歩いていけばいい
捨てられやしないかと必死になって追いかけてくるはずだ
さのもの日々にうとし
さるもの追わず
などということはない
ないからこそそんな言い方をする
猿には木から落ちた経験がある
弘法にも書き損じたことがあるはずだ
能のない猿のように
真似してみせればわかる
「あいつは猿真似しかできない」
剥き出しの批評を待って
さて 反論の時間だ
「真似は批評の一種である
真似るだけの価値があると
世間に広めるべく努力をしているのである」
「論理をすりかえるな
オリジナル、その実現への努力に対して非礼じゃないか
それが猿真似の意味だ」
「真似されてはじめて
オリジナルという価値が生まれる
真に個性的なものに意味などない
真似されること、つまり自分の歩みが
常識となることを願わない
哲学者、科学者、芸術家がいただろうか」
中間派を装いながら
どこまでもごまかしていけばいい
引用を細工しながら自尊心をくすぐってやれ
真似されたと不機嫌になる奴なんか
くっきりと映りすぎる鏡に
欠点を見つけ出し
あばかれることを恐れているだけなのだ
横向きに鏡の位置をかえてやればいい
ちょっとからかって
「秘密を教えてくださいよ
どの手が最高ですかねえ
あれもこれもモテ方にあやかりたいと
真似しているだけなんですから」
ランチタイムに耳打ちしてやれよ
「ほら見ろよ、あいつまた
同じ奴と同じ体位でセックスしてらぁ」
童貞のニキビが笑う
本で読んだだけだと知られまいと
最初に口をきいたおまえのことだ
ハーフタイムを知らない欲望がいちばん嫌いだ
どうしていいかわからなくなって
一生の間にいくつできるか
眠らずに考えつづけたんだろう
ゲスなチンピラめ おまえだな
「猿にオナニー教えたら
やめられずに死じまった」
などといいふらしたのは
あらゆる進歩は消化不良のゲップにすぎない
いったいいくつ空想を信じるつもりなんだ
オナニーのために




(アルメ251 、1987年08月10日)

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