切抜帳 | |
江代 充 | |
思潮社 |
江代充『切抜帳』(3)(現代短歌社、2019年09月30日発行)
また、江代充『切抜帳』にもどってみる。「思い出す」について考えてみる。
「天使の詩」は、セッター犬と人間を描いている。
気持ちは飼い主のほうへ途切れるらしく
途中から小走りに走りながら
四つ足から後ろ足で立ち上がっては躍動し
まだかなり離れた人体のほうへ
その前足を持たせ掛けようとする
のちには白地にぶちの散った色違いのセッター犬を
かれが街なかでしばらくの間見続けるのは
この時の犬の動静に心うばわれ
そこから僅かな力を感じたからかも知れない
「飼い主」は「人体」と言い換えられることで「客観的」な風景(情景)になる。犬の後ろ足はまだ地面に残っている。前足は宙に浮いて飼い主の方に向かっている。その様子が、「人体」ということばによって、一枚の写真のように固定してしまう。固定してしまうけれど、そこに引きつけられるのは、犬の「肉体」の動きの中に「力」の移動があるからだ。「力の移動」に、この「風景(情景)」を見ているひと(書かれていない主語としての私/江代)の「肉体」が重なるからである。「犬の動静に心うばわれ/そこから僅かな力を感じたからかも知れない」は、そういう「意味」だろう。
問題は、それが最初に犬を見たときに感じたことではないということだ。
のちには白地にぶちの散った色違いのセッター犬を
この一行の中にある「のちに」と「違い」ということばが、非常に繊細で美しい。ここに江代の特徴の一つがある。
「のちに」ということばは「以前」と呼応する。つまり、ここでは明記されていない私が「以前」を思い出している。そして、「思い出」と「いま」とを比較して「違い」があることを発見する。同じ犬ではない。「色違い」の犬である。その「違い」の発見は、しかし、「同じ」を思い出させるための「補色」、あるいは「誘い水」のようなものである。
何が同じなのか。
犬が飼い主の(人体/肉体)方に、犬自身の「肉体」を「持たせ掛けようとする」動きだ。飼い主に向かって走ってる。そういう「力」が犬の動きの中に感じられる。それが「同じ」なのだ。
この「思い出し方」が、きのう読んだ作田教子『胞衣』の「思い出す」とは違う。
作田はあくまで「同じもの」を「思い出す」。そして、「同じ」をそのまま「いつでも、どこでも」という形にしてしまう。そして、「思い出す」ということ、それが「思い出」であることを強調しない。当然である。作田にとっては、「過去」はない。「永遠」があるだけだからだ。
けれど江代は違う。「のちに」ということば、「時間の差(時間の違い)」を明確にした上で、「思い出している」という人間の運動を明確に書き記す。「いま、ここ」があると同時に「かつて、どこか、何か」が存在する。それを共存させることが「思い出す」ということである。「いま、ここ」と「かつて、どこか」が二重になる。その「二重」をつなぎとめるもの、つまり何かが「動き(力の移動)」である
江代の詩は、つねに「移動」を含むが(視点が移動することによって、「物語」が変化していくが)、それは「いま、ここ」と「かつて、どこか」を「二重化」する運動(力)として江代が「存在している」ということを意味する。
これは、だから、とても微妙な問題を浮かび上がらせることになる。
かれが街なかでしばらくの間見続けるのは
このふいに登場する「かれ」とは誰なのか。たぶん最初に描かれている「飼い主」だろう。「かれ」はいまは犬を飼っていない。けれど街で犬を見かける。その犬はかつて彼が飼っていた犬のように、飼い主の肉体の方へ全身を預けようとしている。ああ、犬とは、こんなふうに飼い主を信頼するものなのか。
だが、ほんとうか。
最初の犬の動き(飼い主へ向かって走る姿)を見たのは、「書かれていない私/江代」ではないのか。江代は、同じ飼い主が別の犬を飼っているのを再び見ただけかもしれない。いや、書かれていなかった主人公が登場してきて、昔見たのと同じ情景(かつての飼い主は、かつての犬とは違った犬と遊んでいる)を見ている考える方が「かれ」ということばと自然につながるかもしれない。
けれども、私は、「かれ」を「あのときの飼い主」と思いたいのである。飼い主が「かつての情景」を思い出し、その思い出すという行為のなかで、自分自身を「客観化」している。
「客観としての思い出」。
たぶん、それが作田との違いだ。作田は「主観」としての「思い出」を書く。江代は「主観としての思い出」を書くのではなく「客観としての思い出」を書く。だから、いつでも「抒情」とは違ったものがそこに入ってきてしまう。「主観」を拒んだような何かが入り込み、「思い出」の細部に「エッジ」のようなもの、「違和感」をまといつかせる。
「人体」「動静」「僅かな力」ということばが、その「エッジ」をつくっている。「僅かな」も「力」も日常的につかうので「エッジ」という感じはしないかもしれないが、「僅かな」という修飾語で「力」のありようを限定し、細部に意識を向けさせている(強制している)部分が「エッジ」を感じさせる。
そしてこの「客観としての思い出」を江代(この詩には書かれていない「私」という主語)と「かれ」が共有する。共有されることで「永遠」になり、その「永遠」に読者も巻き込まれていく。
「客観」なのに「主観」のように複雑、あるいは「主観」なのに「客観」のように複雑に入り組んでいる(折れ曲がっている)のが江代のことばの動きなのだ。
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