詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

北爪満喜『奇妙な祝福』

2015-02-02 09:38:48 | 詩集
北爪満喜『奇妙な祝福』(思潮社、2014年09月30日発行)

 家、あるいは家族の記憶(記録)。もう誰も住んでいない。「掃除」は、その家に久し振りにやってきて、掃除をする詩である。

誰も住まない家

雑巾を絞る

めったに開けないトイレの小窓の
薄いカーテンに触れると
幻のように布が崩れて 粉になって舞い散った

布なのに崩れて舞い散った
触れたら 粉になるなんて そんな

ここで育った時間までも崩れて粉になるようで
眼を見開いたまま動けない

それでも 家事のしみた手が
私を置き去りにしたままで
雑巾を開き四つにたたみ
床の粉を拭き取った

 前半部分。「雑巾を開き四つにたたみ/床の粉を拭き取った」が美しい。2連目の「雑巾を絞る」と対応している。絞った雑巾は丸まっている。それを開いて「四つにたたむ」。ここには書いていないが「四つにたたむ」と何度もたたみ直して雑巾がけをできるからである。「家事のしみた手が」そういうことをおぼえていて、自然とそうしてしまう。
 「肉体」がおぼえていることは、いつでも合理的で美しい。ととのえられた力がある。そのととのえられた力が、ことばにそのまま反映してきている。
 この「肉体」がおぼえていることと、「頭」がおぼえていること(「頭」で理解していること)の交錯がこの詩を動かしている。
 布が崩れて粉になるということを知った北爪は二階で紙の束を見つける。その古い束を見つけて、母は「持ち上げたら崩れてしまいそう」と言っていた。

ぜったいに紙は崩れない
そんなことない
と子どものように
胸の中で言い張って

ここに残ると思えなかった
女子高生の私に出会った

 カーテンが崩れて粉になるのを見て、二階の紙も崩れると想像する。そうして、紙が崩れるはずはないと思った日を思い出す。女子高生だった日を思い出す。
 脈絡はとれている。きちんと書かれている。でも、なぜか、雑巾を四つにたたんだという描写ほどには、迫ってこない。
 むしろ、雑巾を四つにたたんで拭くということを、いつ、どんな具合に母から教わったのか、そういうことを読みたいと感じた。雑巾は何で作ったのか、雑巾はどれくらい汚れるまでつかったのか--そういう「暮らしのなかの、他人と共有した時間」を描いた方が「家」というものが見えてくるのでは、と思った。

奇妙な祝福
北爪 満喜
思潮社

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