『壌歌』のつづき。
詩は「意味」ではない--とわかっているけれど「意味」のあることばも私は好きである。
「存在の絶望」「天体の音楽」。こういう強い「意味」を持ったことばに出会うと立ち止まってしまう。詩人が何を言いたいか--それを感じる前に、私は自分勝手にあれこれ考えてしまう。
こういうことばを、西脇は、「意味」に引っ張られずに動かす。ことばから「意味」を引き剥がしてしまう。「意味」が動きだす前に、ことばを違う方向へ動かしていく。
「モトヨヨギ」がふいにあらわれて「元代々木」を外国の地名か何かのようにしてしまう。「地名」が消える。その瞬間、「青物屋」もどこの土地の青物屋かわからなくなるし、プラムもどこのプラムかわからなくなる。抽象的になる。抽象的になることで、また逆に土俗的になる。「元代々木」という都会にしばられない。野の木になったままの野生のプラムさえ想像してしまう。野の木から直接もいできて店頭に並べられたプラムのように思えてくる。
その瞬間。
「存在の絶望」「天体の音楽」というものが、野生とぶつかる。自然とぶつかる。そうし、「存在の絶望」や「天体の音楽」から、なんといえばいいのだろう、洗練されたというか、アカデミックなものが消えて、「非情」が響いてくる。(非情というのは「情け」を考慮しない、つまり人間を考慮しない、ということである。)
「存在の絶望」「天体の音楽」--ということばが「無意味」になる、といえばいいのかもしれない。「意味」が消え、ただプラムの丸い光が存在するだけになる。
「存在の絶望」「天体の音楽」ということばのもっている「記憶」が消えてしまう。かわりに、新しい記憶「プラム」がやってくる。「存在の絶望」「天体の音楽」が「プラム」にとってかわられる。
「もの」が「もの」としてただ存在する。そこにある、というのは美しい。
詩は「意味」ではない--とわかっているけれど「意味」のあることばも私は好きである。
存在の絶望は
天体の音楽としてモトヨヨギの
青物屋のプラムの一つ一つに
なめらかに光つている
記憶の喪失は
新しい記憶だ
「存在の絶望」「天体の音楽」。こういう強い「意味」を持ったことばに出会うと立ち止まってしまう。詩人が何を言いたいか--それを感じる前に、私は自分勝手にあれこれ考えてしまう。
こういうことばを、西脇は、「意味」に引っ張られずに動かす。ことばから「意味」を引き剥がしてしまう。「意味」が動きだす前に、ことばを違う方向へ動かしていく。
「モトヨヨギ」がふいにあらわれて「元代々木」を外国の地名か何かのようにしてしまう。「地名」が消える。その瞬間、「青物屋」もどこの土地の青物屋かわからなくなるし、プラムもどこのプラムかわからなくなる。抽象的になる。抽象的になることで、また逆に土俗的になる。「元代々木」という都会にしばられない。野の木になったままの野生のプラムさえ想像してしまう。野の木から直接もいできて店頭に並べられたプラムのように思えてくる。
その瞬間。
「存在の絶望」「天体の音楽」というものが、野生とぶつかる。自然とぶつかる。そうし、「存在の絶望」や「天体の音楽」から、なんといえばいいのだろう、洗練されたというか、アカデミックなものが消えて、「非情」が響いてくる。(非情というのは「情け」を考慮しない、つまり人間を考慮しない、ということである。)
「存在の絶望」「天体の音楽」--ということばが「無意味」になる、といえばいいのかもしれない。「意味」が消え、ただプラムの丸い光が存在するだけになる。
「存在の絶望」「天体の音楽」ということばのもっている「記憶」が消えてしまう。かわりに、新しい記憶「プラム」がやってくる。「存在の絶望」「天体の音楽」が「プラム」にとってかわられる。
「もの」が「もの」としてただ存在する。そこにある、というのは美しい。
西脇順三郎コレクション (1) 詩集1 | |
西脇 順三郎 | |
慶應義塾大学出版会 |