詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

誰も書かなかった西脇順三郎(229 )

2011-09-06 09:59:37 | 誰も書かなかった西脇順三郎
 『壌歌』のつづき。「Ⅲ」の部分。
 西脇のことばは「哲学」を語るときも、とても軽い。

なんと言つても生物は生物だ
でも生物としての宿命もあるが
生物であるということは
センザイ一隅の瞬間的な存在である
太陽系の宇宙では他に
ない存在であると思うと
なにか神秘的な意識に襲われる
スモモをかじつてソバをたべているときも

 生物、つまりいのちのあるものは「宇宙(鉱物の永久的運動?)」からすると「瞬間的」なものである、というのだが「センザイ一隅」ということばがここに結びつけられるとき、一種の「文体の脱臼」のようなものを感じる。えっ、そういうとき、そう言うの? 違うんじゃない? 「千載一遇」というのは、もっと違うときにつかうんじゃない? 「センザイ一隅」とカタカナと漢字を組み合わせた表記にも驚かされる。
 驚き--これが、西脇のことばを軽くする。ことばの「重力」から解放される。「意味」の重力から解放される。
 そうした純粋な(?)意味的驚きとは別に、西脇のことばにはもうひとつ特徴がある。
太陽系の宇宙では他に
ない存在であると思うと

 改行の仕方が独特である。「太陽系では他にない」と言えばふつうの表現である。(「意味」を読むときは、西脇の改行をねじ伏せる形で「他にない」とつづけて読んでしまうのだが……。)
 そのふつうの「文体」を解体して、「ない」を独立させる。
 さらに「ない存在である」と、えっ、これって矛盾していない。「ない存在」が「ある」--って、ないの? あるの? いや、それは「ない」ということが「ある」ということなんですよ。えっ、「ない」が「ある」って、変じゃない? 「ない」なら「ない」だけでいいんじゃない? なぜ、「ない」が「ある」と言わないといけない?
 そんなふうに、論理的に考えると、論理的にならないんだよ。ことばをぱっと瞬間的につかんで、ぱっと消えていくものをつかんでしまえよ。

 まあ、いいのだけれど。

 と、いうような具合に、ことばが右往左往する。それは「重く」なってもかまわない、というより、重くならざるを得ないことばの運動なのだけれど、西脇の場合は、なぜか、とても軽い。
 「他にない存在である」という散文の形式ではなく、「他に/ない存在である」という改行の「呼吸(息継ぎ)」が、「頭」ではなく「肉体」を揺さぶって、「頭」で考えることなんか、適当なことだと思わせてくれる。
 この「呼吸(息継ぎ)」は「意味」から言うと「乱れ」だが、「肉体」からみると新しいリズムの刺激である。みだれを利用して新しいリズムのなかで、ことばが「意味」から自由になるのである。「意味」が「音」になって、飛び散るのである。
 そして、「スモモをかじつてソバをたべているときも」という、とても「俗(身近な)」で具体的なことばが、「頭」を完全に吹き飛ばし、人間を一個の「肉体」にしてしまう。
 こういうとき、まさに「天体」(宇宙)が「人間」と対峙する形であらわれる。そして、そこに「さびしい」があらわれる。
 「人間存在(生物)」について考えることと、スモモをかじること、ソバをたべることは、同じことなのである--というと「哲学」(思考すること)が軽くなるでしょ? そこに、とてもおもしろみがある。


西脇順三郎コレクション (1) 詩集1
西脇 順三郎
慶應義塾大学出版会

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