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詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

誰も書かなかった西脇順三郎(228 )

2011-09-05 12:42:19 | 誰も書かなかった西脇順三郎
 『壌歌』のつづき。「Ⅲ」の部分。

鉄砲うちがヤマドリを売りに来た
店先きには褐色のウサギや
眼から血を出したイノシシが
ぶらさがつている南天もニンニャクと
いつしよにたらいの中にかすんでいる
来年は幸いイノシシの年だから
ヒエイ山のふもとに住むサクライの
タダヒトにタノンデイノシシの
ひもろぎを送つてもらうか
トラ年でもトラの肉はたべられない
自転車のブレーキのにおいがする
ベドウズの自殺論を読んだのか
投身した男の橋を渡つてミヤマス坂を
いそいでのぼつてみる--
あの古本屋のを精細にのぞいてみた
結局買つたのは中学生の使つた百人一首の
註釈本とバークレイの「視覚の新原理その他」と
「スカンポと息子」という日本語の表題が
ついている英国の本

 いろいろなものが同居している。「ヤマドリ」「ウサギ」「イノシシ」は、山の風景を思い起こさせる。「褐色」「眼から血を出した」という荒々しい感じが風景をさっぱりした感じにさせる。「血を流した」だと、たぶん、「さっぱり」とは感じない。「眼から……流した」が涙を思い起こさせるからだ。「流した」ということばの抱え込んでいる「文体」が「涙」を呼び出してしまう。何気なく書かれているようだが、西脇は、そういうセンチメンタルな「文体」を破壊し、ことばを動かしている。センチメンタルな「文体」を破壊しているところから清潔さが生まれ、また新鮮な音楽が生まれる。センチメンタルが拒絶された「場」だから、南天、コンニャクとイノシシ、ウサギ、ヤマドリが同居できるのだ。この同居を西脇は「いつしよ」という簡単なことばであらわしている。この素朴さが美しい。
 この「いつしよ」に「ヒエイ」や「サクライのタダヒト」という固有名詞もひきこまれていく。人間も動物も植物も区別がなくなる。そういう世界ができあがる。
 で、そういう世界には、それでは何がある?
 音がある、ことばが音としてただそこにある--というのが私の感じなのだが、そのことばがただ音としてある状態が詩なのだ、と言ったとき、誰かの共感を得られるかどうか私にはわからないが、こういう瞬間に、私は詩をたしかに感じるのである。
 西脇のように、ことばが「意味」によごれていない状態でことばをつかってみたいと思うのである。

 途中「トラ年でもトラの肉はたべられない」という冗談(だじゃれ?)のようなことばがあって、その次、

自転車のブレーキのにおいがする

 うーん、びっくりする。はっとする。
 自転車のブレーキのにおい、自転車にブレーキをかけたときゴムと鉄(金属)がこすれあって、焦げるような瞬間的なにおいがある--というのはたしかだが、そんなことを私は忘れていた。忘れていたことが、何の脈絡もなく(あるのかな?)、突然、ことばとなってあらわれる。そのことに驚く。
 それだけではない。
 前の行の「たべられない」ということばのなかの「たべる」という動詞と「におい」が刺激し合うのだ。
 「たべる」ということばがあるために、ヤマドリにはじまりウサギ、イノシシ、コンニャクと食べ物が刺激する肉体の「感覚」に「におい」が飛び込んでくる。ブレーキは食べられるものではないが、そうか、食べるときは「におい」を食べることでもあるのだと急に思い出すのである。もしかすると、イノシシにはブレーキの匂いがするかもしれない。あるいはトラにブレーキの匂いがするのかもしれない。--そんなことはないかもしれないが、「におい」ということばが、それまで眠っていた「感覚」を一気にたたき起こす。そのとき「食べる」という肉体の動きが同時に新しく目覚める。
 「たべる-においがする」が、肉体そのものを、肉体の中から新しく甦らせる感じがする。
 「自転車のブレーキのにおいがする」という1行は、なぜ、ここにあるのかわからないが、わからないけれど、その1行に目が覚めるのである。

 「自転車のブレーキのにおいがする」という1行は「無意味」かもしれない。けれど、その「無意味」がいいのだ。「無意味」に出会ったとき、「肉体」が目覚める。たよるものは「肉体」しかない。その、驚き。

 「結局買つたのは中学生の使つた百人一首の/註釈本」ということばにも驚く。なんとも美しい。「自転車のブレーキ」のように、素朴な「肉体」を感じる。人間の「肉体」のなかにある素朴なものが刺激される感じがする。「肉体」のなかの「時間」を思い出すのである。
 西脇にとって中学生の使った註釈本など、意味がないだろう。そんなものを読む必要はないだろう。必要はない、ということろに、大切なものがある。「百人一首の/註釈本」ではなく「中学生の使つた」ということばのなかにある音楽と時間がおもしろいのである。
 「スカンポと息子」というタイトルの本がほんとうにあるかどうかわからないが、このことばもいいなあ。「スカンポ」という音がいい。野生の美しさがある。野生の「さびしさ」がある。

 振り返れば(?)、自転車のブレーキのにおいも、野生のさびしさだなあ。説明はできないのだが……。


Ambarvalia/旅人かへらず (講談社文芸文庫)
西脇 順三郎
講談社

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