『壌歌』のつづき。
西脇の音楽は乱調の音楽、異質なもののぶつかる音楽である。簡単に言うと「精神世界」と「物質世界」の衝突。あるいは西洋と東洋の衝突。聖と俗の衝突。こういう異質なものがぶつかると「文体」が乱れる。混乱する--というのが一般的である。収拾がつかなくなる。けれど、西脇の場合は違う。衝突は衝突として輝く。強い光を放つ。それだけである。乱れない。混乱しない。
「記憶の喪失」と「永遠」。ふたつのことばが並ぶと、あ、記憶を喪失することは永遠に触れることなのか、と直感的に思う。何かしら、ここには「哲学」がある。「精神世界」の「本質」に触れるものがある。
そして、そういう「本質」の「場」は「祭り」なのである。「記憶の喪失」「永遠」「祭り」とつながれば、どうしたって「酔っぱらいの祝宴」「バッカスの永遠」というようなことを思い出すし、そこから「祭り」の「哲学」を考えてみたい気持ちに誘われるが……。
これを、西脇は、さらに「精神的ことば」あるいは「哲学的なことば」で追いかけるというような窮屈なことをしない。「精神」が「精神」を追いかけると世界が閉じてしまって息苦しい。この息苦しさ(息が詰まる、息ができなくなる)が、精神を「死」のむこうの(息が詰まると死ぬでしょ?)、「死」の「愉悦」にまで人間を高めるのかもしれないけれど--そういう錯乱が「哲学」の魅力だよね--西脇は、ことばを閉鎖してそういう世界へ没入するのではなく、そういう動きを叩き壊す。
「夏祭り」の「夏」の方に重心を移し、そこで「日常」(俗)で「哲学」を叩き壊す。「ナスのみそ汁」。ね、「哲学」とは関係ないでしょ? こういう関係ないものがぶつかった瞬間、そこに「無意味」というもうひとつの「新しい哲学」が誕生するともいえるけれど(この詩のⅠの後半に出てくることばを借りて言えば「本当の哲学は哲学を軽蔑することだ」)、そんなことは考えなくていいのだ。ただ、あ、「ナスのみそ汁」か、と夏の「もの」を思うだけでいいのだ。
生姜を擦っていれるとおいしいよ、とかね。
この瞬間、ことばの「リズム」が乱れるね。「精神」のことばを追い掛けるときの「緊張」がぱっと解放される。この差。そこに、私はいつも「音楽」を感じる。斬新すぎて、どう定義していいかわからないが、突然新しい「音」--しかも「音のない音」、「音以前の音」が入りんできた感じに驚き、笑いだしたくなるのだ。
そして、さらにおもしろいと思うのは、
この1行の「それから」。これ、何? 必要なことば?
この方がすっきりする。すばやくことばが動いていて気持ちがいい。「それから」なんて、変にもったりしている。
のだけれど。
この変にもったりしているところが、また、おもしろい。
西脇はすぐに「タデのテンプラとユバと」ということばが出てきたわけではないのだ。考えているのである。「ナスのみそ汁」と「俗」をぶつけてみたけれど、さて、次はどうしよう。これから「音楽」をどんなふうに動かしていくか……。
西脇の改行(行をわたることば)も、ある意味では、こうした「思考」の瞬間の揺らぎをそのまま反映している。そして、そこから独特の西脇調のリズムが生まれるのだが。
悩んでいる。考えている。
このときの「脳髄のリズム」、その痕跡が、私には楽しい。
このつまずき(?)があるから、
「思わせる」「考える」という「精神のことば」の、乱れたつながりが、乱れたまま説得力(?)をもつのだ。「それから」の「ことばの呼吸」の乱れが、「精神のことば」に引き継がれ、動いていく。
西脇のことばは、意味ではなく「リズム」(音楽)で動いていくと強く感じるのはこういう瞬間である。
西脇の音楽は乱調の音楽、異質なもののぶつかる音楽である。簡単に言うと「精神世界」と「物質世界」の衝突。あるいは西洋と東洋の衝突。聖と俗の衝突。こういう異質なものがぶつかると「文体」が乱れる。混乱する--というのが一般的である。収拾がつかなくなる。けれど、西脇の場合は違う。衝突は衝突として輝く。強い光を放つ。それだけである。乱れない。混乱しない。
記憶の喪失ほど
永遠という名の夏祭りにたべる
ナスのみそ汁とそれから
タデのテンプラとユバと
シイタケを極度に思わせる
ものはないと深く考えるのだ
「記憶の喪失」と「永遠」。ふたつのことばが並ぶと、あ、記憶を喪失することは永遠に触れることなのか、と直感的に思う。何かしら、ここには「哲学」がある。「精神世界」の「本質」に触れるものがある。
そして、そういう「本質」の「場」は「祭り」なのである。「記憶の喪失」「永遠」「祭り」とつながれば、どうしたって「酔っぱらいの祝宴」「バッカスの永遠」というようなことを思い出すし、そこから「祭り」の「哲学」を考えてみたい気持ちに誘われるが……。
これを、西脇は、さらに「精神的ことば」あるいは「哲学的なことば」で追いかけるというような窮屈なことをしない。「精神」が「精神」を追いかけると世界が閉じてしまって息苦しい。この息苦しさ(息が詰まる、息ができなくなる)が、精神を「死」のむこうの(息が詰まると死ぬでしょ?)、「死」の「愉悦」にまで人間を高めるのかもしれないけれど--そういう錯乱が「哲学」の魅力だよね--西脇は、ことばを閉鎖してそういう世界へ没入するのではなく、そういう動きを叩き壊す。
「夏祭り」の「夏」の方に重心を移し、そこで「日常」(俗)で「哲学」を叩き壊す。「ナスのみそ汁」。ね、「哲学」とは関係ないでしょ? こういう関係ないものがぶつかった瞬間、そこに「無意味」というもうひとつの「新しい哲学」が誕生するともいえるけれど(この詩のⅠの後半に出てくることばを借りて言えば「本当の哲学は哲学を軽蔑することだ」)、そんなことは考えなくていいのだ。ただ、あ、「ナスのみそ汁」か、と夏の「もの」を思うだけでいいのだ。
生姜を擦っていれるとおいしいよ、とかね。
この瞬間、ことばの「リズム」が乱れるね。「精神」のことばを追い掛けるときの「緊張」がぱっと解放される。この差。そこに、私はいつも「音楽」を感じる。斬新すぎて、どう定義していいかわからないが、突然新しい「音」--しかも「音のない音」、「音以前の音」が入りんできた感じに驚き、笑いだしたくなるのだ。
そして、さらにおもしろいと思うのは、
ナスのみそ汁とそれから
この1行の「それから」。これ、何? 必要なことば?
ナスのみそ汁と
タデのテンプラとユバと
シイタケ
この方がすっきりする。すばやくことばが動いていて気持ちがいい。「それから」なんて、変にもったりしている。
のだけれど。
この変にもったりしているところが、また、おもしろい。
西脇はすぐに「タデのテンプラとユバと」ということばが出てきたわけではないのだ。考えているのである。「ナスのみそ汁」と「俗」をぶつけてみたけれど、さて、次はどうしよう。これから「音楽」をどんなふうに動かしていくか……。
西脇の改行(行をわたることば)も、ある意味では、こうした「思考」の瞬間の揺らぎをそのまま反映している。そして、そこから独特の西脇調のリズムが生まれるのだが。
悩んでいる。考えている。
このときの「脳髄のリズム」、その痕跡が、私には楽しい。
このつまずき(?)があるから、
シイタケを極度に思わせる
ものはないと深く考えるのだ
「思わせる」「考える」という「精神のことば」の、乱れたつながりが、乱れたまま説得力(?)をもつのだ。「それから」の「ことばの呼吸」の乱れが、「精神のことば」に引き継がれ、動いていく。
西脇のことばは、意味ではなく「リズム」(音楽)で動いていくと強く感じるのはこういう瞬間である。
西脇順三郎コレクション〈第3巻〉翻訳詩集―ヂオイス詩集 荒地/四つの四重奏曲(エリオット)・詩集(マラルメ) | |
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