『壌歌』のつづき。「Ⅱ」の部分。
書き出しの4行。2行目の「たたり」がおもしろい。「法則」は科学的なことばだが「たたり」は宗教的というか、人間的なことばだ。ふたつのことばが出会うと、そこに違いと同時に何らかの共通性が浮かび上がってくる。この問題をことばをつくして書いていけば「哲学」になるかもしれない。西脇はそういう領域へは足を踏み込まない。実際はいろいろ考察しているかもしれないが、ことばのうえではさらりと駆け抜ける。この軽さがとても美しい。人は--まあ、私がそのいちばんの例かもしれないが、自分が気づいたとも思うことは延々と書きたがる。西脇は考えたいやつは考えればいい、という感じで「ヒント」だけ書くと、さっさと先へ進んでしまう。そこに軽さがある。
それにしても、この「たたり」はいいなあ。「音」に深みがある。「法則」よりも「肉体」に迫ってくる。「法則」が「頭」に響いてくるのに対し、「たたり」は「肉体」に響いてくる。「法則」が「高尚/聖/純」に対し「たたり」は「低/俗/濁」である。まあ、こんな「分類」は、ようするに「流通言語」の問題にすぎないが……。
前半の「哲学的(?)」なことばの動きと後半の俗な感じのぶつかりあいが気持ちがいい。「高尚」なのものは窮屈である。「頭」に働きかけてくるからである。この窮屈を西脇は「俗」で叩きこわし、解放する。
私の読み落としか--私が、無意識的にそうしているのかもしれないが、この逆はない。「俗」を「聖」がたたきこわすという楽しみ(?)は西脇のことばの運動にはない。必ず「聖」を「俗」がたたきこわし、窮屈なことばの運動をたのしい「音楽」に変えてしまう。
「俗」を「聖」たたきこわす--は、「俗」を「聖」に高める、というのが一般的な言い方かもしれない。--もし、そうだとすると、私が「聖」を「俗」がたたきこわすと書いたことは、ほんとうは「聖」を「俗」に高めると言っていいかもしれない。
実際、西脇の書いている「俗」は、私の知らない「俗」である。「俗」ととりええず私は書いているのだが、それは書かれた瞬間から「美」、それも「新しい美」になっている。「俗」が「美」に高められている。--この「高める」ということばを西脇が好むかどうかはわからないが、「俗」と思われていたものが、「俗」の範疇から超越して、新しい力を獲得しているのを感じる。
誰も気がつかなかったその「新しさ」--そこに、西脇の詩がある。
「セタ」というのは日本の地名である。瀬田か勢多か、もっとほかの文字か、私は東京(たぶん)の地名には詳しくないのでわからないが、西脇の住んでいた地名だろう。それをカタカナで書くことで、いったん「俗(現実、形而下)」から切り離して、ことばを軽くする。そのあと「アワモチとショウチュウを飲もうとする」という突然の飛躍がある。「俗」そのものの噴出がある。
しかし、それよりもおもしろいのは、
この行の「うららか」だ。それは冒頭の「たたり」と同じように、「肉体」につよく働きかけてくる。「音」そのものがひとつの世界を持っている。
その「うららか」の「か」の音の響きを引き継いで、せな「か」を「か」すつていつた、と音が動いていく。
「太陽は……」のことばは、いわば「哲学」。つまりそれは「頭」のことば。もしそのことばが「肉体」をかすっていくとしたら、それは「頭」をかすっていくはずである。実際、「頭をかすめた」という表現があるくらいだ。ところが、「あたま」では「うららか」の「か」がない。だから、西脇は「あたま」ではなく「せなか」を選んでいるのだが、この「頭」から「背中」への移行が、不思議だねえ。「頭をかすつて行つた」だったらがっかりするくらいつまらないのに、「背中をかすつて行つた」だと途端にたのしくなる。そうか、「頭」も「背中」も同じ「肉体」なのか、「肉体」であることおいて同じなんだという当たり前のことにふっと気がつき、何かしら安心するのである。
生存競争は自然の法則で
この生物のたたりは
ある朝ヒルガオの咲く時刻に
十字架につけられなければならない
書き出しの4行。2行目の「たたり」がおもしろい。「法則」は科学的なことばだが「たたり」は宗教的というか、人間的なことばだ。ふたつのことばが出会うと、そこに違いと同時に何らかの共通性が浮かび上がってくる。この問題をことばをつくして書いていけば「哲学」になるかもしれない。西脇はそういう領域へは足を踏み込まない。実際はいろいろ考察しているかもしれないが、ことばのうえではさらりと駆け抜ける。この軽さがとても美しい。人は--まあ、私がそのいちばんの例かもしれないが、自分が気づいたとも思うことは延々と書きたがる。西脇は考えたいやつは考えればいい、という感じで「ヒント」だけ書くと、さっさと先へ進んでしまう。そこに軽さがある。
それにしても、この「たたり」はいいなあ。「音」に深みがある。「法則」よりも「肉体」に迫ってくる。「法則」が「頭」に響いてくるのに対し、「たたり」は「肉体」に響いてくる。「法則」が「高尚/聖/純」に対し「たたり」は「低/俗/濁」である。まあ、こんな「分類」は、ようするに「流通言語」の問題にすぎないが……。
太陽は自然現象の一部に
すぎないがいまのところその領域で
人間の存在をたすけている
そういうことは昔セタで
アワモチとショウチュウを飲もうとする
瞬間に微風のようにうららかに
背中をかすつて行つた
前半の「哲学的(?)」なことばの動きと後半の俗な感じのぶつかりあいが気持ちがいい。「高尚」なのものは窮屈である。「頭」に働きかけてくるからである。この窮屈を西脇は「俗」で叩きこわし、解放する。
私の読み落としか--私が、無意識的にそうしているのかもしれないが、この逆はない。「俗」を「聖」がたたきこわすという楽しみ(?)は西脇のことばの運動にはない。必ず「聖」を「俗」がたたきこわし、窮屈なことばの運動をたのしい「音楽」に変えてしまう。
「俗」を「聖」たたきこわす--は、「俗」を「聖」に高める、というのが一般的な言い方かもしれない。--もし、そうだとすると、私が「聖」を「俗」がたたきこわすと書いたことは、ほんとうは「聖」を「俗」に高めると言っていいかもしれない。
実際、西脇の書いている「俗」は、私の知らない「俗」である。「俗」ととりええず私は書いているのだが、それは書かれた瞬間から「美」、それも「新しい美」になっている。「俗」が「美」に高められている。--この「高める」ということばを西脇が好むかどうかはわからないが、「俗」と思われていたものが、「俗」の範疇から超越して、新しい力を獲得しているのを感じる。
誰も気がつかなかったその「新しさ」--そこに、西脇の詩がある。
「セタ」というのは日本の地名である。瀬田か勢多か、もっとほかの文字か、私は東京(たぶん)の地名には詳しくないのでわからないが、西脇の住んでいた地名だろう。それをカタカナで書くことで、いったん「俗(現実、形而下)」から切り離して、ことばを軽くする。そのあと「アワモチとショウチュウを飲もうとする」という突然の飛躍がある。「俗」そのものの噴出がある。
しかし、それよりもおもしろいのは、
瞬間に微風のようにうららかに
この行の「うららか」だ。それは冒頭の「たたり」と同じように、「肉体」につよく働きかけてくる。「音」そのものがひとつの世界を持っている。
その「うららか」の「か」の音の響きを引き継いで、せな「か」を「か」すつていつた、と音が動いていく。
「太陽は……」のことばは、いわば「哲学」。つまりそれは「頭」のことば。もしそのことばが「肉体」をかすっていくとしたら、それは「頭」をかすっていくはずである。実際、「頭をかすめた」という表現があるくらいだ。ところが、「あたま」では「うららか」の「か」がない。だから、西脇は「あたま」ではなく「せなか」を選んでいるのだが、この「頭」から「背中」への移行が、不思議だねえ。「頭をかすつて行つた」だったらがっかりするくらいつまらないのに、「背中をかすつて行つた」だと途端にたのしくなる。そうか、「頭」も「背中」も同じ「肉体」なのか、「肉体」であることおいて同じなんだという当たり前のことにふっと気がつき、何かしら安心するのである。
西脇順三郎詩集 (岩波文庫) | |
西脇 順三郎 | |
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