高橋睦郎「いまここにこれらのことを」(「現代詩手帖」2011年06月号)
ことばを聞く。声を聞く。それは、しかし、聞こえない。高橋睦郎「いまここにこれらのことを」もまた、そういうことを書いている。
「無言」「沈黙」「ただならぬ静けさ」--これは、和合亮一が「詩の礫」に書いていた「静かな夜です」の「静か」につながる。
和合は大震災が「ここまで私たちを痛めつける意味はあるのでしょうか」と問いかけ、その問いに対して誰も答えない--その静けさと向き合っていた。耳を澄ませ、「声」を聞こうとしていた。
それは無念の死を死んで行った人の聞きたいということだったのだ。「意味」というものがあるとしたら、それはたしかにことばを発することもなく死んで行ったひとたちの「声」にこそ意味がなければならない。
このことばは重い。この世に「無名」のひとはいない。だれもが自分の愛している子どもに名前をつける。名前を呼ぶ。それは野村が書いていたように、他人に簡単に教えることのできない大切なものだ。自分と息子をつなぐ「いのち」そのものである。
それが「無名」となる。そして「無言」でいる。ほんとうは名前があり、ほんとうは声を出しているのに、それを受け止めることばがないのだ。
ことばは生まれていないのだ。
高橋は、そう気づいて、次のように書く。
「私」は「高橋睦郎」であってはならない。「無名」でなければならない。書く人が「無名」になるとき、「無名」のまま死んで行った人が「無名ではない人」になるのだ。「無」であることによって、高橋は死者と「一体」になる。
この「一体」を高橋は「直結」ということばで具体化している。
そして、その「直結」は、「ことば」を超越していく。
書き記す--と高橋は書くが、それは「ことば」ではない。いや、「ことば」なのだが、それは既成のことばではない。まだ生まれていないことば、未生のことばを書く。未生のことばであるから、それは「声」にはならない。それは「のど」を通らない。
「目」と「手」が「直結」して、手が目の「ことば」を書き記すのである。未生であり、かつ、特権的なことば、「発声器官」を超越したことば。
そんなものは、ない。ない、ということによって、ある。
「直結」ということばで高橋がつかみとっているのは、そういう「矛盾」である。ない、ないことによって、ある--この「矛盾」のなかに、「思想」がある。
その思想は、ふつうの目では見ることができない。だから高橋は「瞶」という文字を探してきて、そこに記す。ことばの過去を掘り起こし、ことばの過去に帰り、「あの日」よりも過去へ、「生前」へ、さらに「未生」へと。
今回の高橋の詩は、詩としては「意味」が強い。意味の強いことばで構成されている。しかし、そういう強い意味でもまだたどりつけない意味が、そのことばの生まれる前にあるのだ。
高橋は、その「無」を「肉眼」で見ている。そして、直接掴んでいる。
ことばを聞く。声を聞く。それは、しかし、聞こえない。高橋睦郎「いまここにこれらのことを」もまた、そういうことを書いている。
幸いなるかなそれでもなお耳を澄ますべきもの
目を向けるべきものが私たちには残されてある
波にさらわれた無数の死者たちの無言
不自由に耐える膨大な流亡者たちの沈黙
加えるに無為から立ちあがった若者たちの眩しさ
その眩しさを支えているのは死者たち流亡者たちの只ならぬ静けさ
私たちが学ばなければならないのは彼らの無名・彼らの無償
「無言」「沈黙」「ただならぬ静けさ」--これは、和合亮一が「詩の礫」に書いていた「静かな夜です」の「静か」につながる。
和合は大震災が「ここまで私たちを痛めつける意味はあるのでしょうか」と問いかけ、その問いに対して誰も答えない--その静けさと向き合っていた。耳を澄ませ、「声」を聞こうとしていた。
それは無念の死を死んで行った人の聞きたいということだったのだ。「意味」というものがあるとしたら、それはたしかにことばを発することもなく死んで行ったひとたちの「声」にこそ意味がなければならない。
無名
このことばは重い。この世に「無名」のひとはいない。だれもが自分の愛している子どもに名前をつける。名前を呼ぶ。それは野村が書いていたように、他人に簡単に教えることのできない大切なものだ。自分と息子をつなぐ「いのち」そのものである。
それが「無名」となる。そして「無言」でいる。ほんとうは名前があり、ほんとうは声を出しているのに、それを受け止めることばがないのだ。
ことばは生まれていないのだ。
高橋は、そう気づいて、次のように書く。
私はいまここにこれらのことを書き記す
書き記す私は特定の誰かであってはならないだろう
名前も個性も持たないものでなければならないだろう
顔のない目であり目に直結した手である者
手は闇の中で書き記すすべを憶えなければならないだろう
目は希望でも絶望でもなく真実を瞶(みつ)めなければならないだろう
「私」は「高橋睦郎」であってはならない。「無名」でなければならない。書く人が「無名」になるとき、「無名」のまま死んで行った人が「無名ではない人」になるのだ。「無」であることによって、高橋は死者と「一体」になる。
この「一体」を高橋は「直結」ということばで具体化している。
そして、その「直結」は、「ことば」を超越していく。
書き記す--と高橋は書くが、それは「ことば」ではない。いや、「ことば」なのだが、それは既成のことばではない。まだ生まれていないことば、未生のことばを書く。未生のことばであるから、それは「声」にはならない。それは「のど」を通らない。
「目」と「手」が「直結」して、手が目の「ことば」を書き記すのである。未生であり、かつ、特権的なことば、「発声器官」を超越したことば。
そんなものは、ない。ない、ということによって、ある。
「直結」ということばで高橋がつかみとっているのは、そういう「矛盾」である。ない、ないことによって、ある--この「矛盾」のなかに、「思想」がある。
その思想は、ふつうの目では見ることができない。だから高橋は「瞶」という文字を探してきて、そこに記す。ことばの過去を掘り起こし、ことばの過去に帰り、「あの日」よりも過去へ、「生前」へ、さらに「未生」へと。
今回の高橋の詩は、詩としては「意味」が強い。意味の強いことばで構成されている。しかし、そういう強い意味でもまだたどりつけない意味が、そのことばの生まれる前にあるのだ。
高橋は、その「無」を「肉眼」で見ている。そして、直接掴んでいる。
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