詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

アルメ時代 17 本

2019-04-25 16:00:35 | アルメ時代
17 本



 その本を読み始めたのはいつのことだったか。誰も登場せず、何もはじまりそうもない描写がつづいた。二ページと読みつづけられない本であった。しかし、別の本を読み、次に何を読もうかと思いあぐねたとき、ふと手にしてしまう本だった。疲れたときにだけ見えてしまう水錆びの描写とか、風が吹いていくときに見える水の深さとかが、確かな文体で書かれていた。
 くりかえしているうちに、徐々に描写がずれてくるのに気づいた。コップの水が乾燥した季節のために蒸発したり、午後の湿気にくずれたバラが夜明けに新しい風をひきよせたり。あるいはトラとして書かれていたものが膝の上の猫に姿を変え、汗ばんだ毛の闇へと指を滑り込ませてくれと懇願したり。さらには、夏の光にたたかれて麦わら帽子だけになった少女が、大人の顔で記憶を振り返ったり。
 一般に書物は私たちに刺戟を与えるものである。ある描写を手がかりに、あ、あれはこういうことだったのか、と気づいたりする。この作者は私が言いたくて言い切れなかったことを美しい形で表現してくれている。そうした発見の楽しさのために本は読まれる。しかし、この本は違った。逆に現実を呼吸して描写を変えていくようなのである。だから、次にどのような描写があらわれ、本の世界がどう変わるかといった予測はまったくつかない。
 一ページ、時として一行しか読み進めない理由はそこにある。逆に言えば激しい吸引力に耐えられるだけの現実が私にはなくなってしまったということかもしれない。幼年期のむごたらしさも思春期の猥雑さや気まぐれ、恋愛期の加虐性被虐性も吸収され、分離整頓されて、ささやかな陰影に変わってしまった。何の彩りも描写に与えることができないので、ことばが私を裏切るように次々に形を変えていくようである。本を閉じなければならない。しかし一行も読み通すことができないので閉じることもできない--そうした葛藤に激しい汗を流すことだけが現実となる日々もあった。
 本ほんらいの姿を求めて新刊本を取り寄せてみたが手遅れだった。あらゆる活字と文体がかよわくふるえている。記憶され、あの本にのみこまれてしまうことを恐れている。主人公の苦悩や絶望を生成するストーリー、時間を空間や存在に転換する構造だけは、けっしてのみこまれないことを悟ってか、強固に構えている。しかし、それは主人公の感情の充実が強い文体で新しいいのちを手にいれるということは別の問題である。その強固さはかえって空虚さをきわだたせるだけである。読者と筆者の感性、あるいはくらい情熱の接点である描写そのものは、読み進めば読み進むほど魅力がなくなっていくる。察するに、この筆者もあの本を読んでいるらしい。なまなましい感覚や錯誤といった知的発見はすべてのみこまれ、計算と学習によって表現できるストーリーしか残らなくなったらしい。
 ページを開かなくても、本が私を通して現実を吸収し、刻々と姿を変えているのがわかった。アスファルトの油膜が不気味な水たまり、女の乳房の影に汗という星が輝くときの宇宙に似た青さ、存在から抽出され、やがて全体をひとつの色調に変える強い印象、つまり解放された現実が、時として本を開けと命じるからである。読み返し、本の文体がどのように変化したか確かめよと命じるからである。




(アルメ239 、1986年2月10日)

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