嵯峨信之を読む(71)
118 生の確証
この作品にも「ぼく」と「きみ」が出てくる。この「ぼく」と「きみ」も同一人物だろう。
書き出しに突然「無」が出てくる。しかも「羽根」という具体的な存在として書かれている。形而上学的な詩である。「内側」とは「肉体の内側」であり、それは「精神」と言い換えることもできる。「無」を意識する精神が「内側からぼくを撫でる」。しかし、このとき「撫でている」のは「肉体」ではないだろう。「無の羽根」が「無」そのものであるように、「内側」から撫でるのは「内側」そのものである。提示された存在と比喩が同一であるように、提示された「内側」は「内側」そのもの、つまり精神そのものである。
これは「ぼく」と「きみ」との区別の仕方と同じである。それは同じものの「別称」である。区別するための「方便」である。
「大きな時空」と「一万米の海底」も区別して書かれているが同じものを別の比喩で呼んでいるのである。
非論理的な構文だともいえるが、非論理的だから詩なのである。
「ぼく」を対象化して「きみ」と呼ぶことに多くの人は慣れている。「ほんとうの自分」という考え方が誰にもあるからだろう。その「ほんとうの自分」のかわりに、あるときは「大きな時空」ということばがつかわれ、あるときは「一万米の海底」という表現がつかわれ、さらには「墜ちていく小石」という比喩がつかわれる。「大(きな時空)」と「小(石)」ではイメージがかけ離れすぎるが、そういうかけ離れたものを瞬間的に「ひとつ」と感じ取るのが詩なのである。
「ぼく」と「きみ」、「ぼく」と「比喩」の関係は、「我思う、ゆえに我あり」のふたつの「我」の関係である。
118 生の確証
この作品にも「ぼく」と「きみ」が出てくる。この「ぼく」と「きみ」も同一人物だろう。
無の羽根が
内側からやわらかにぼくを撫でる
書き出しに突然「無」が出てくる。しかも「羽根」という具体的な存在として書かれている。形而上学的な詩である。「内側」とは「肉体の内側」であり、それは「精神」と言い換えることもできる。「無」を意識する精神が「内側からぼくを撫でる」。しかし、このとき「撫でている」のは「肉体」ではないだろう。「無の羽根」が「無」そのものであるように、「内側」から撫でるのは「内側」そのものである。提示された存在と比喩が同一であるように、提示された「内側」は「内側」そのもの、つまり精神そのものである。
これは「ぼく」と「きみ」との区別の仕方と同じである。それは同じものの「別称」である。区別するための「方便」である。
大きな時空がぼくの隣りで動いている
ふと一万米の海底へ遠く墜ちていく小石が見える
「大きな時空」と「一万米の海底」も区別して書かれているが同じものを別の比喩で呼んでいるのである。
非論理的な構文だともいえるが、非論理的だから詩なのである。
「ぼく」を対象化して「きみ」と呼ぶことに多くの人は慣れている。「ほんとうの自分」という考え方が誰にもあるからだろう。その「ほんとうの自分」のかわりに、あるときは「大きな時空」ということばがつかわれ、あるときは「一万米の海底」という表現がつかわれ、さらには「墜ちていく小石」という比喩がつかわれる。「大(きな時空)」と「小(石)」ではイメージがかけ離れすぎるが、そういうかけ離れたものを瞬間的に「ひとつ」と感じ取るのが詩なのである。
それこそぼくが生きているひとつの確証だときみは云う
その時
きみの眼の中をなおもその小石は落下をつづけている
「ぼく」と「きみ」、「ぼく」と「比喩」の関係は、「我思う、ゆえに我あり」のふたつの「我」の関係である。
![]() | 嵯峨信之全詩集 |
嵯峨 信之 | |
思潮社 |