水木ユヤ「わたし」、山本純子「いいことがあったとき」(「ヘロとトパ」2、2018年02月25日発行)
水木ユヤ「わたし」について何が書けるか。どういう感想が書けるか。とてもむずかしい。
これは水木自身のことでも、水木のことばでもない。「小学生」の一日を書いている。そして、このなかに「ほんとう」があるとすれば、まあ、「わたしはあさおきてがっこうへいきます」だろうなあ。
いや、すべて「ほんとう」かもしれないけれど、私は、そうは読まない。読めない。
授業中に居眠りして、よそみして、先生と目をあわせない。友だちとけんかし、掃除はてきとうに手抜き。家に帰ることは、もう暗くなっている。宿題は遊んだあとでやる。父や母に生意気な口をきき、兄弟喧嘩をする。ふろも、てきとう。なかなか寝床に入らない。書いてあることは全部嘘。「いいこ」なんかではない。
きっと叱られたことだけが書いてある。最初の「わたしはあさおきてがっこうへいきます」も、「早く起きて、さっさと学校へ行きなさい」と言われているのだ。
で、こんな「嘘」ばっかり書いてあるのに、なぜか、おもしろい。
ひとは「叱られたこと」をおぼえているのだ。「うらんで」いるかもしれない。それが「ことば」となってしみついている。叱られたことを、いちいち、おぼえている。その全部を一気に書いている。この「一気」がおもしろい。
そして、この「一気」のなかには、もうひとつ不思議なことがある。たとえば「じゅぎょうちゅうにねていません」だけなら「わたしいいこです」は「ほんとう」になるのかもしれないが、「一気」に全部言うから「嘘」が丸見えになる。「いいこと」を重ねれば重ねるほど「嘘」が大きくなる。やっていることが「裏目」にでる。全部嘘じゃないか、と言われてしまう。たとえそのなかにひとつ「ほんとう」が書かれていたとしても。この関係が、なんともいえず、おかしい。楽しい。
「ことばの肉体」がくっきりと見える。「見えすぎる」。まるで、自分自身の「肉体」そのものを見るみたいに。
で、どうということはない、特に感想も書く必要もないことなんだけれど、やっぱり書いてみたいという気持ちになる。この詩の感想をきちんと書けたらいいだろうなあ、と刺戟される。
いま書いたことが、感想になっているのかどうか、とてもあやしいが。
特別な体験をことばにすれば詩になるのではない。
あたりまえのこと、誰もがしていること(したこと)でも、書き方次第で詩になる。詩は、ことばの運動なのだ。
「書き方」が詩ということになる。
*
山本純子「いいことがあったとき」は、水木の作品に比べると「詩」と言いたくなる部分がある。
一連目は「実景」。だれもが見たことがあると思う。二連目は、ことばでしか「見えない」ものを書いている。「ことば」にすることによって初めて見えるものが書かれている。これは「詩」だね。
水木の詩には「初めて」のことばがない。だれもがみんな知っていることばしか書かれていない。だから、ここが「新鮮」、ここが「発見」と言えない。「詩」がないとさえ、いえるかもしれない。
でも、そこにも詩はある。
山本の詩にもどる。
これは、また「実景」。「何もなかったかのように」というのは山本の感想。この感想が差し挟まれることで、「実景」が「実景」ではなく、山本だけが見た「新しい世界」になる。「新しい世界」といっても、それはすでにあった。あったけれど、だれも書かなかった。山本が書くことによって生み出された世界。
「書き方」が詩になっているのだ。
ちょっと、そういう楽しい「揺れ動き」があって、最終連。
これは完全な「嘘」。そんな帽子屋があるはずがない。そういう帽子もあるはずがない。でも、この嘘によって、そうか、いま山本は帽子が空に浮かんでしまうくらいうれしいんだ、とわかる。「書かれていること」は「事実(ほんとう)」ではないが、そのことばのなかに「ほんとう」がある。「書き方」のなかに詩がある。ことばが動くと詩になるのだ。
*
「詩はどこにあるか」2月の詩の批評を一冊にまとめました。
詩はどこにあるか1月号注文
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目次
小川三郎「沼に水草」2 岩木誠一郎『余白の夜』8
河邉由紀恵「島」13 タケイ・リエ「飯田橋から誘われる」18
マーティン・マクドナー監督「スリー・ビルボード」再考21 最果タヒ「東京タワー」25
樽井将太「亜体操卍」28 鈴木美紀子『風のアンダースタディ』32
長津功三良『日日平安』37 若竹千佐子「おらおらでひとりいぐも」40
草森紳一/嵩文彦共著『「明日の王」詩と評論』47 佐伯裕子の短歌54
石井遊佳「百年泥」64 及川俊哉『えみしのくにがたり』67
吉貝甚蔵「翻訳試論――漱石のモチーフによる嬉遊曲」72
西岡寿美子「ごあんない」76
*
谷川俊太郎『聴くと聞こえる』(上)83
オンデマンド形式です。
注文してから1週間程度でお手許にとどきます。
*
以下の本もオンデマンドで発売中です。
(1)詩集『誤読』100ページ。1500円(送料250円)
嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
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(2)評論『中井久夫訳「カヴァフィス全詩集」を読む』396ページ。2500円(送料450円)
読売文学賞(翻訳)受賞の中井の訳の魅力を、全編にわたって紹介。
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(3)評論『天皇の悲鳴』72ページ。1000円(送料250円)
2016年の「象徴としての務め」メッセージにこめられた天皇の真意と、安倍政権の攻防を描く。
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問い合わせ先 yachisyuso@gmail.com
水木ユヤ「わたし」について何が書けるか。どういう感想が書けるか。とてもむずかしい。
わたしはあさおきてがっこうへいきます
じゅぎょうちゅうにねていません
せんせいのめをみておへんじします
おともだちとけんかしません
だれもみてなくてもおそうじします
ゆうがたおうちにかえります
しゅくだいしてからあそびます
おとうさんおかあさんになまいきなくちをききません
きょうだいなかよくおてつだいします
おふろにはいってきれいにからだをあらいます
さっさとねどこにはいります
わたしはいいこです
これは水木自身のことでも、水木のことばでもない。「小学生」の一日を書いている。そして、このなかに「ほんとう」があるとすれば、まあ、「わたしはあさおきてがっこうへいきます」だろうなあ。
いや、すべて「ほんとう」かもしれないけれど、私は、そうは読まない。読めない。
授業中に居眠りして、よそみして、先生と目をあわせない。友だちとけんかし、掃除はてきとうに手抜き。家に帰ることは、もう暗くなっている。宿題は遊んだあとでやる。父や母に生意気な口をきき、兄弟喧嘩をする。ふろも、てきとう。なかなか寝床に入らない。書いてあることは全部嘘。「いいこ」なんかではない。
きっと叱られたことだけが書いてある。最初の「わたしはあさおきてがっこうへいきます」も、「早く起きて、さっさと学校へ行きなさい」と言われているのだ。
で、こんな「嘘」ばっかり書いてあるのに、なぜか、おもしろい。
ひとは「叱られたこと」をおぼえているのだ。「うらんで」いるかもしれない。それが「ことば」となってしみついている。叱られたことを、いちいち、おぼえている。その全部を一気に書いている。この「一気」がおもしろい。
そして、この「一気」のなかには、もうひとつ不思議なことがある。たとえば「じゅぎょうちゅうにねていません」だけなら「わたしいいこです」は「ほんとう」になるのかもしれないが、「一気」に全部言うから「嘘」が丸見えになる。「いいこと」を重ねれば重ねるほど「嘘」が大きくなる。やっていることが「裏目」にでる。全部嘘じゃないか、と言われてしまう。たとえそのなかにひとつ「ほんとう」が書かれていたとしても。この関係が、なんともいえず、おかしい。楽しい。
「ことばの肉体」がくっきりと見える。「見えすぎる」。まるで、自分自身の「肉体」そのものを見るみたいに。
で、どうということはない、特に感想も書く必要もないことなんだけれど、やっぱり書いてみたいという気持ちになる。この詩の感想をきちんと書けたらいいだろうなあ、と刺戟される。
いま書いたことが、感想になっているのかどうか、とてもあやしいが。
特別な体験をことばにすれば詩になるのではない。
あたりまえのこと、誰もがしていること(したこと)でも、書き方次第で詩になる。詩は、ことばの運動なのだ。
「書き方」が詩ということになる。
*
山本純子「いいことがあったとき」は、水木の作品に比べると「詩」と言いたくなる部分がある。
いいことがあったとき
帽子をつかんで
空へ 思いっきり
ほうりあげる人がいる
喜びが
空のあのへんまで
わき上がっているんだ
と はっきり
目に見えるように
一連目は「実景」。だれもが見たことがあると思う。二連目は、ことばでしか「見えない」ものを書いている。「ことば」にすることによって初めて見えるものが書かれている。これは「詩」だね。
水木の詩には「初めて」のことばがない。だれもがみんな知っていることばしか書かれていない。だから、ここが「新鮮」、ここが「発見」と言えない。「詩」がないとさえ、いえるかもしれない。
でも、そこにも詩はある。
山本の詩にもどる。
もちろん 帽子は
すぐに落ちてくるから
その人は
帽子をかぶりなおして
また 何もなかったかのように
歩いていく
これは、また「実景」。「何もなかったかのように」というのは山本の感想。この感想が差し挟まれることで、「実景」が「実景」ではなく、山本だけが見た「新しい世界」になる。「新しい世界」といっても、それはすでにあった。あったけれど、だれも書かなかった。山本が書くことによって生み出された世界。
「書き方」が詩になっているのだ。
ちょっと、そういう楽しい「揺れ動き」があって、最終連。
注文した帽子を
受けとりに行くと
帽子が
空に浮かんでしまう
ことがあります
と書いた
領収書をくれる
これは完全な「嘘」。そんな帽子屋があるはずがない。そういう帽子もあるはずがない。でも、この嘘によって、そうか、いま山本は帽子が空に浮かんでしまうくらいうれしいんだ、とわかる。「書かれていること」は「事実(ほんとう)」ではないが、そのことばのなかに「ほんとう」がある。「書き方」のなかに詩がある。ことばが動くと詩になるのだ。
*
「詩はどこにあるか」2月の詩の批評を一冊にまとめました。
詩はどこにあるか1月号注文
↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑
ここをクリックして1750円の表示の下の「製本のご注文はこちら」のボタンをクリックしてください。
目次
小川三郎「沼に水草」2 岩木誠一郎『余白の夜』8
河邉由紀恵「島」13 タケイ・リエ「飯田橋から誘われる」18
マーティン・マクドナー監督「スリー・ビルボード」再考21 最果タヒ「東京タワー」25
樽井将太「亜体操卍」28 鈴木美紀子『風のアンダースタディ』32
長津功三良『日日平安』37 若竹千佐子「おらおらでひとりいぐも」40
草森紳一/嵩文彦共著『「明日の王」詩と評論』47 佐伯裕子の短歌54
石井遊佳「百年泥」64 及川俊哉『えみしのくにがたり』67
吉貝甚蔵「翻訳試論――漱石のモチーフによる嬉遊曲」72
西岡寿美子「ごあんない」76
*
谷川俊太郎『聴くと聞こえる』(上)83
オンデマンド形式です。
注文してから1週間程度でお手許にとどきます。
*
以下の本もオンデマンドで発売中です。
(1)詩集『誤読』100ページ。1500円(送料250円)
嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072512
(2)評論『中井久夫訳「カヴァフィス全詩集」を読む』396ページ。2500円(送料450円)
読売文学賞(翻訳)受賞の中井の訳の魅力を、全編にわたって紹介。
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(3)評論『天皇の悲鳴』72ページ。1000円(送料250円)
2016年の「象徴としての務め」メッセージにこめられた天皇の真意と、安倍政権の攻防を描く。
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