詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

永島卓『水に囲まれたまちへの反歌』

2011-04-22 23:59:59 | 詩集
 永島卓『水に囲まれたまちへの反歌』の最初の詩は「左岸」である。そして、その1行目は、

七月のあなたを待っていました昔からこのサガンのなかで

 である。私は、この1行目が好きである。この1行を読んだ瞬間から永島の詩について書きたいと思った。
 何が書きたいのか。わからないけれど、書きたいのである。
 この1行目で私がわかること。それは、この1行が2行であるということ。ここには2行がある。「七月のあなたを待っていました」という行と、「昔からこのサガンのなかで」という行と。いや、これは倒置法であり、「昔からこのサガンのなかで七月のあなたを待っていました」という1行であるというひとがいるかもしれない。学校教科書的にはたしかにそうなのだと理解できるけれど、私は、そういう読み方に違和感を感じるのである。

七月のあなたを待っていました
昔からこのサガンのなかで

 普通なら(倒置法なら?)、こんなふうに改行を挟んで書くと思う。けれど、永島はそんなふうには書かず1行にしてしまう。
 そして、これから私が書くことは矛盾以外の何者でもないのだが、それが1行だからこそ、私は2行だと感じるのである。1行のなかに2行が離れがたく結びついている。切り離せないで、そこにある。
 倒置法なら、

七月のあなたを待っていました。昔からこのサガンのなかで、

 と「呼吸」(息継ぎ)が動くと思う。けれど、永島の1行のなかには「呼吸」(息継ぎがない)。「待っていました」と「昔から」のあいだに「間」はないのである。倒置法ならあるべきはずの「間」がない。息継ぎ、呼吸がない。
 この不思議な密着感のなかに、私は永島の「肉体」を感じる。二つのことを「ひとつ」にしてしまう「肉体」を強く感じる。「頭」はこの1行を「二つ」にわけて、そして「倒置法」ということばで整理し直して「意味」を明確にするだろう。
 だが、そんなふうにして「意味」を明確にした瞬間、何かが消える。
 「呼吸」「息継ぎの間」が「ない」ということが消える。「ない」が消えてしまうと、不思議なことに、そこに「ある」が生まれてしまう。「息継ぎ」「呼吸」が生まれてしまう。
 だが、それは違うのだ。「呼吸」「息継ぎ」は永島の「肉体」ではないのだ。それは、読者の「頭」にすぎないのだ。「倒置法」という考えは、永島のことばの運動とはまったく違うものだと思う。
 「七月のあなたを待っていました」とことばが動いた瞬間、そのことばを追いかけて「昔からこのサガンのなかで」という別のことばが動く。そして、それは「七月のあなたを待っていました」を突き破ってしまう。「七月のあなたを待っていました」ということばを破壊するために「昔からこのサガンのなかで」ということばが突っ走る。
 2行目。

あなたが川の水を求めてみえることは知っていましたよ

 こう永島が書くとき、この「知っていましたよ」の「話者」は「あなたを待っていました」を完全に遠くへ突き放している。「話者」は「あなた」を待ってなどいない。「あなたが川の水を求めてみえることは知って」いるだけなのである。
 そして、この行のなかにも、実は二つの文がある。しかし、それは「あなたが川の水を求めてみえる」と、「話者」がその「ことを知っていました」ではない。「あなたが川の水を求めてみえることは知っていました」と「よ」である。ここに隠された「呼吸」(息継ぎ)がある。分離できない「間」がある。

 「よ」は何か。
 「よ」は、それ以前のことばが、「話者」が「あなた」に伝えたいことである、と告げるためのことばである。「よ」によって、「よ」以前を告げるのである。告げる「内容」を念おしするのである。つまり、この1行には「あなたが川の水を求めてみえることは知っていました」という事実と、それを念おしする「話者」の「気持ち」がぴったりくっついているのである。
 「事実」と「気持ち」。それが「呼吸」(息継ぎ)の「間」を消すことで結びついて動いていく--その「事実」と「気持ち」を結びつける「肉体」が永島のことばなのだ。「思想」なのだ。

 1行目に戻る。

七月のあなたを待っていました昔からこのサガンのなかで

 このことばの「七月のあなたを待っていました」と「昔からこのサガンのなかで」のどちらが「事実」で、どちらが「気持ち」か。
 考えると、わからない。わからないけれど、たしかにここには「事実」と「気持ち」があるのだ。そして、それは「七月のあなたを待っていました昔からこのサガンのなかで」という1行そのままに「間」を持たない。
 「事実」と「気持ち」に「間」はないのである。
 だから、この1行を「倒置法」として「理解」し、「頭」のなかで反芻してはいけないのだ。わからないまま1行を一気に読み、そして、同時にその1行のなかに「ふたつ」の「もの」(二つの文、ひとつの「事実」と別のひとつの「気持ち」)があると、自分自身の「肉体」で感じるしかないのだ。

 私はまたまた変なことを書いてしまうが……。

 この1行は、二つのものが結びついて一つになっていると私は書いたのだが、それは実は、一つのものが1行のなかで二つのものとしてあらわれるということの言い直しなのである。
 それは「往復」なのである。「同時」なのである。「呼吸」(息継ぎ)の「間」の不在により、それは「頭」では整理できない何かになる。もう、そのことばをただ自分の肉体でくりかえしてなぞってみるしかないものになる。
 ここにあるのは、「声」。ここにあるのは「音」と「リズム」なのである。「意味」ではないのだ。私は「意味」ではなく、「音」と「リズム」が私のなかで「声」になるのを感じる。その瞬間が好きなのだ。

 変だなあ。どうもうまく書けない。
 書けないけれど、それが私の感じていることなのだ。

 この詩には不思議な行がある。

捨てられてゆくものを許してしまう今日は不思議な暦ですね

 これは、どこで区切ればいい? どこで「呼吸」(息継ぎ)をすればいい? わからないでしょ? そのまま「音」にして「リズム」に乗って、「声」にするしかないでしょ?

昔の哀しい物語を詰めこんだ傷ついた道具や布袋が
路地に山積みにされあなたを此処からお通しすることができません

 「昔の哀しい物語を詰めこんだ」、そして物語を詰め込むことで「傷ついた道具や布袋が」「路地に山積みにされ」ているので、そのために道が塞がれているので「あなたを此処からお通しすることができません」と読めば「意味」が通るかもしれない。
 けれど、永島が書きたいのはそういう「意味」ではないと私は感じる。
 ここに書かれているままの「音」と「リズム」、ことばとことばの粘着力のある結びつき、そしてその粘着力がそのまま他のものを引きこんでしまう「声」のあり方--そいううものこと、永島は書きたいのだと思う。

 いや、私は正直に、私は永島の書いていることがわからない。わからないけれど、そのことばに触れると、自分の「呼吸」(ことばを読むときのリズム、音、声など)が、自分のものではなく、永島の「肉体」に吸い寄せられて、そこで動くような感じがして、不思議にうれしくなる、と言うべきなのか。永島のことばの「肉体」、「肉体」のことばに、私が反応して、魅せられてしまう--と書くと、なんだか変にエロチックなことを書いているような、「私は男色ではないぞ」と永島に叱られそうな感じもするのだが、どうしようもない。私が感じるのは「意味」ではない。そこに書かれていることばの「音」と「リズム」なのだから。

ほらっ庭を横切ろうとしているカゲロウはあなたのお母さんです
目を閉じてごらんなさい水の木を裂く音が聞こえてくるでしょう
目を開けてみてください使われてしまった水が逆流してきましたよ
泡の襞を作る小魚たちがあなたの耳を愛撫しようとしています
あなたは水中でタバコをくわえ浮いたり沈んだりしているのですね
水が首に巻きつきあなたを見失いそうになります

 あ、この「水が首にまきつきあなたを見失いそうになります」の「主語」はだれ? 「話者」が「あなたを見失いそうにな」るのか。それとも「水が首にまきつ」いたために、「あなた」が「あなたを見失いそうにな」るのか。
 わからないまま、私のなかで「あなた」と「話者」がひとりになる。
 1行目について書いたことをくりかえすと(?)、「あなた」と「話者」の「間」が消えてしまって、ふたりがひとりになる。そして、そのふたりがひとりになるということばの運動のなかに、読者である私ものみこまれてしまって、区別がなくなる。
 あ、この1行かっこいい。盗んでしまいたい。自分のものとして、どこかに書き記したい。そんな思いにかられる。

 盗んでしまいたい。自分のものとして、どこかに書き記したい--そういう思いを呼び起こすことば、それこそが私にとって詩である。
 私はそのとき、きっと、まだ私の知らない何か、ことばにらならないもの、未生のことばと出会っている。



永島卓詩集 (1973年)
永島 卓
国文社

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