日本学術会議の会員任命問題で、不可解な反応のひとつに、こういうのがある。
「学術会議は不要だ。」
単独の主張ならば、これは意味を持つだろう。
だが、菅の6人任命拒否という問題と絡めて言うならば、「学術会議は不要だ」というひとたちは、なぜ、菅が99人も任命したことに対して黙っているのか。
99人と6人を比較すれば、99人の方がはるかに多い。
さらに。
なぜ、学術会議を存続させてきた安倍を批判しないのか。
もしほんとうに「学術会議」の存在を批判するならば、同時に学術会議存在させている菅を、存在させるために99人を任命した菅を批判すべきだろう。
「学術会議不要論」を持ちだした人がやっていることは、「学術会議不要論」を盾に、「菅批判を許さない」という「論理のすりかえ」である。
ほんとうに「学術会議不要論」を主張するなら、「6人を任命しなかったことを追及するだけでは手ぬるい。99人も任命した菅を許さない」という論理になるはずだが、私は「学術会議不要論」と「菅批判」をいっしょに展開しているひとの発言を、まだ、読んだことがない。
「学術会議は不要だ。」
単独の主張ならば、これは意味を持つだろう。
だが、菅の6人任命拒否という問題と絡めて言うならば、「学術会議は不要だ」というひとたちは、なぜ、菅が99人も任命したことに対して黙っているのか。
99人と6人を比較すれば、99人の方がはるかに多い。
さらに。
なぜ、学術会議を存続させてきた安倍を批判しないのか。
もしほんとうに「学術会議」の存在を批判するならば、同時に学術会議存在させている菅を、存在させるために99人を任命した菅を批判すべきだろう。
「学術会議不要論」を持ちだした人がやっていることは、「学術会議不要論」を盾に、「菅批判を許さない」という「論理のすりかえ」である。
ほんとうに「学術会議不要論」を主張するなら、「6人を任命しなかったことを追及するだけでは手ぬるい。99人も任命した菅を許さない」という論理になるはずだが、私は「学術会議不要論」と「菅批判」をいっしょに展開しているひとの発言を、まだ、読んだことがない。
少し具体的に書くと、退任する人が、自分の後任を推薦していて、推薦された方を総理大臣が必ず任命しなければならないとしたら、貴重な税金の使途について国民の代表である総理大臣がチェック出来ないことになり極めて不適切だからです。
また、2010年8月を最後に勧告が行われていないので、この組織の必要性の無さを証明していると感じる国民が多いのだと思います。
「勧告」というのは「勧告を受けた」ということが必ず問題にある。公取委の勧告、労基署の勧告がわかりやすいが、企業に問題行動があったとき、勧告がおこなわれる。
勧告がおこなわれないとしたら、企業に問題がないとき。
政府に対して「勧告」がおこなわれないとしたら、それは政府がきちんと施策を実施していると学術会議が認めているということ。
国民が学術会議に対して、政府の施策をもっと厳しく監視しろという意味で「勧告なし」が問題だというのならわかるけれど。
(他の投稿も合わせて読んでいただけると助かります。)