村上春樹『海辺のカフカ』(新潮社、2002年09月10日発行、2017年03月05日26刷)
もし外国人に日本語の小説の読み方を教えるとしたら、どんな教材がいいか。私は村上春樹が大嫌いなくせに、教材には村上春樹が適していると思う。これはカンにすぎないのだが。
で、ためしにを『海辺のカフカ』をめくって、その「第一章」の書き出し。
これを読んで、こんな質問を考える。
1 僕(主人公)は何歳くらいだと思いますか? なぜ、その年齢を想像しましたか?
2 父親は何歳くらいで、どういう人間だと思いますか? なぜ、そう想像しましたか?3 僕が、父の書斎から持ち出したものは、何と何ですか?
4 僕が、父の書斎から持ち出さなかったものは何ですか?
5 それを持ち出さなかった理由はなぜですか? なぜ、持ち出さなかったのですか?
6 持ち出したものの中で、僕が一番大事だと考えているものは何ですか?
7 なぜ、それが一番大事だと、あなたは考えますか?
質問の「要点」は6と7。
質問というのは、たいてい「答え」を想定してつくるものだが、この質問と答えをくみあわせて考えながら、私はもう、小説のつづきを読む気力をなくしていた。
僕が持ち出したものの中で一番大事なのは、「僕と姉との写真」。それは「非実用的」なのに、長々と説明している。僕が実用性を重視していることは、二段落眼に「実用性を考えれば」ということばが明記されていることからもわかる。それなのに実用性を無視して(つまり、他者と自分との関係において何の意味も持たないと知りながら)、それについて語る。言い換えると、それが自分にとって大事であるということを語るからなのだ。
村上春樹の小説は、驚くほど「合理的」に書かれていて(実用性ということばを、前もって書いている部分にそれが端的にあらわれている)、「速読」できるようになっている。「速読」しても、読み落としがないように書かれている。また、絶対に読者がつまずかないように書かれている。なぜ、僕が写真を持っていくか。「実用的ではない」。つまり、「個人的に必要だ」からだとわかるように書いている。
この「合理性」は、こんなふうに問いかけると、より明確になる。
8 「家を出るときに父の書斎から黙って持ちだしたのは、現金だけじゃない。」とはじまるのは、なぜだろう。
答え ほかにも持ち出したものがある、ということを暗示するためである。そして、その他のものかと読者の関心を引っ張っていくため(物語の展開をスムーズにするため)である。
9 「父が大事にしているロレックスのオイスターを持っていこうかとも思ったけれど、迷った末にやめた。」という文章から、僕の性格を想像してみよう。どういう人間だろうか。
答え 自分の行動を常に見直し、他人の視点を意識する人間である。自分がどうみられているかを基準にして、自分の行動を制御することができる人間である。言い換えると、つねに「自己対話」をする人間でもある。
そして、ここから「僕と姉との写真」へと世界が変わった瞬間に、小説のテーマがくっきりと見えてくる。「暗示」(象徴的言語)であるけれど、誤解の入る余地がないくらいに明示される。
「二重の意味」ということばが三段落目に出てくるが、「二重」であることによって世界が完成するというテーマである。主人公の僕は、自分を探しに世界へ飛び出すのではない。僕とだれか(姉が、まず書かれているが)と二重になること、出会い、まじわることで、世界が生まれると同時に、世界が完結する。このときの二重は、似た者同士の重なりあいではなく、まったく反対のものが「二重」になることで完結するのである。「重なりあい」の中に、それまで存在しなかった運動があり、その運動そのものが世界なのだという哲学が村上の中にあるのだろう。
読まずに書くのだが。
こんなふうに、書き出しを読んだだけで小説世界がどう展開していくかわかってしまう作品というのは「退屈」ではないだろうか。ことばとはこんなふうに書くもの(語るもの)という「手本」にはなっても、それ以上のものにはなり得ないのではないだろうか。
読まずに書くのだが。
私が村上春樹の「ことば」に関する疑問は、そこにある。何が起きても、それは前に書かれていることをきちんと踏まえていて、どこにも間違いがない(嘘や飛躍がない)というのは、ことばを読んで「だまされる」という快感から遠いのではないか。
私は、だまされたい人間である。そんなことありえないだろう。でも、そうあってほしい、と小説を読んだときは思いたいのだ。
**********************************************************************
「現代詩通信講座」開講のお知らせ
メールを使っての「現代詩通信講座」です。
メール(宛て先=yachisyuso@gmail.com)で作品を送ってください。
詩への感想、推敲のヒントを1週間以内に返送します。
定員30人。
週1篇、月4篇以内。
料金は1篇(40字×20行以内、1000円)
(20行を超える場合は、40行まで2000円、60行まで3000円、20行ごとに1000円追加)
講評後の、質問などのやりとりは、1回につき500円です。
費用は月末に 1か月分を指定口座(返信の際、お知らせします)に振り込んでください。
作品は、A判サイズのワード文書でお送りください。
少なくとも月1篇は送信してください。
お申し込み・問い合わせは、
yachisyuso@gmail.com
また朝日カルチャーセンター福岡でも、講座を開いています。
毎月第1、第3月曜日13時-14時30分。
〒812-0011 福岡県福岡市博多区博多駅前2-1-1
電話 092-431-7751 / FAX 092-412-8571
**********************************************************************
「詩はどこにあるか」6月号を発売中です。
132ページ、1750円(送料別)
オンデマンド出版です。発注から1週間-10日ほどでお手許に届きます。
リンク先をクリックして、「製本のご注文はこちら」のボタンを押すと、購入フォームが開きます。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168079402
*
オンデマンドで以下の本を発売中です。
(1)詩集『誤読』100ページ。1500円(送料別)
嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072512
(2)評論『中井久夫訳「カヴァフィス全詩集」を読む』396ページ。2500円(送料別)
読売文学賞(翻訳)受賞の中井の訳の魅力を、全編にわたって紹介。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073009
(3)評論『高橋睦郎「つい昨日のこと」を読む』314ページ。2500円(送料別)
2018年の話題の詩集の全編を批評しています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168074804
(4)評論『ことばと沈黙、沈黙と音楽』190ページ。2000円(送料別)
『聴くと聞こえる』についての批評をまとめたものです。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073455
(5)評論『天皇の悲鳴』72ページ。1000円(送料別)
2016年の「象徴としての務め」メッセージにこめられた天皇の真意と、安倍政権の攻防を描く。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072977
問い合わせ先 yachisyuso@gmail.com
もし外国人に日本語の小説の読み方を教えるとしたら、どんな教材がいいか。私は村上春樹が大嫌いなくせに、教材には村上春樹が適していると思う。これはカンにすぎないのだが。
で、ためしにを『海辺のカフカ』をめくって、その「第一章」の書き出し。
家を出るときに父の書斎から黙って持ちだしたのは、現金だけじゃない。古い小さな金色のライター(そのデザインと重みが気にいっていた)と、鋭い刃先をもった折り畳み式のナイフ。鹿の皮を剥ぐためのもので、手のひらにのせるとずしりと重く、刃渡りは12センチある。外国旅行をしたときのみやげものなんだろうか。やはり机の引き出しの中にあった強力なポケット・ライトももらっていくことにした。サングラスも年齢をかくすためには必要だ。濃いスカイブルーのレヴォのサングラス。
父が大事にしているロレックスのオイスターを持っていこうかとも思ったけれど、迷った末にやめた。その時計の機械としての美しさは僕を強くひきつけたが、必要以上に高価なものを身につけて人目をひきたくはなかった。それに実用性を考えれば、僕がふだん使っているストップウォッチとアラームのついたカシオのプラスチックの腕時計でじゅうぶんだ。むしろそちらのほうがずっと使いやすいはずだ。あらためてロレックスを机の引き出しに戻す。
ほかには小さいころの姉と僕が二人並んでうつった写真。その写真も引き出しの奥に入っていた。僕と姉はどこかの海岸にいて、二人で楽しそうに笑っている。姉は横を向き、顔の半分は暗い影になっている。おかげで笑顔がまんなかで分断されたみたいになっている。教科書の写真で見たギリシャ演劇の仮面みたいに、その顔には二重の意味がこめられている。光と影。希望と絶望。笑いと哀しみ。信頼と孤独。一方の僕はなんのてらいもなくまっすぐにカメラのほうを見ている。海岸には僕ら二人のほかに人の姿はない。僕と姉は水着を着ている。姉は赤い花柄のワンピースの水着を着て、僕はみっともないブルーのぶかぶかのトランクスをはいている。僕は手になにかをもっている。それはプラスチックの棒のように見える。白い泡になった波が足もとを洗っている。
これを読んで、こんな質問を考える。
1 僕(主人公)は何歳くらいだと思いますか? なぜ、その年齢を想像しましたか?
2 父親は何歳くらいで、どういう人間だと思いますか? なぜ、そう想像しましたか?3 僕が、父の書斎から持ち出したものは、何と何ですか?
4 僕が、父の書斎から持ち出さなかったものは何ですか?
5 それを持ち出さなかった理由はなぜですか? なぜ、持ち出さなかったのですか?
6 持ち出したものの中で、僕が一番大事だと考えているものは何ですか?
7 なぜ、それが一番大事だと、あなたは考えますか?
質問の「要点」は6と7。
質問というのは、たいてい「答え」を想定してつくるものだが、この質問と答えをくみあわせて考えながら、私はもう、小説のつづきを読む気力をなくしていた。
僕が持ち出したものの中で一番大事なのは、「僕と姉との写真」。それは「非実用的」なのに、長々と説明している。僕が実用性を重視していることは、二段落眼に「実用性を考えれば」ということばが明記されていることからもわかる。それなのに実用性を無視して(つまり、他者と自分との関係において何の意味も持たないと知りながら)、それについて語る。言い換えると、それが自分にとって大事であるということを語るからなのだ。
村上春樹の小説は、驚くほど「合理的」に書かれていて(実用性ということばを、前もって書いている部分にそれが端的にあらわれている)、「速読」できるようになっている。「速読」しても、読み落としがないように書かれている。また、絶対に読者がつまずかないように書かれている。なぜ、僕が写真を持っていくか。「実用的ではない」。つまり、「個人的に必要だ」からだとわかるように書いている。
この「合理性」は、こんなふうに問いかけると、より明確になる。
8 「家を出るときに父の書斎から黙って持ちだしたのは、現金だけじゃない。」とはじまるのは、なぜだろう。
答え ほかにも持ち出したものがある、ということを暗示するためである。そして、その他のものかと読者の関心を引っ張っていくため(物語の展開をスムーズにするため)である。
9 「父が大事にしているロレックスのオイスターを持っていこうかとも思ったけれど、迷った末にやめた。」という文章から、僕の性格を想像してみよう。どういう人間だろうか。
答え 自分の行動を常に見直し、他人の視点を意識する人間である。自分がどうみられているかを基準にして、自分の行動を制御することができる人間である。言い換えると、つねに「自己対話」をする人間でもある。
そして、ここから「僕と姉との写真」へと世界が変わった瞬間に、小説のテーマがくっきりと見えてくる。「暗示」(象徴的言語)であるけれど、誤解の入る余地がないくらいに明示される。
「二重の意味」ということばが三段落目に出てくるが、「二重」であることによって世界が完成するというテーマである。主人公の僕は、自分を探しに世界へ飛び出すのではない。僕とだれか(姉が、まず書かれているが)と二重になること、出会い、まじわることで、世界が生まれると同時に、世界が完結する。このときの二重は、似た者同士の重なりあいではなく、まったく反対のものが「二重」になることで完結するのである。「重なりあい」の中に、それまで存在しなかった運動があり、その運動そのものが世界なのだという哲学が村上の中にあるのだろう。
読まずに書くのだが。
こんなふうに、書き出しを読んだだけで小説世界がどう展開していくかわかってしまう作品というのは「退屈」ではないだろうか。ことばとはこんなふうに書くもの(語るもの)という「手本」にはなっても、それ以上のものにはなり得ないのではないだろうか。
読まずに書くのだが。
私が村上春樹の「ことば」に関する疑問は、そこにある。何が起きても、それは前に書かれていることをきちんと踏まえていて、どこにも間違いがない(嘘や飛躍がない)というのは、ことばを読んで「だまされる」という快感から遠いのではないか。
私は、だまされたい人間である。そんなことありえないだろう。でも、そうあってほしい、と小説を読んだときは思いたいのだ。
**********************************************************************
「現代詩通信講座」開講のお知らせ
メールを使っての「現代詩通信講座」です。
メール(宛て先=yachisyuso@gmail.com)で作品を送ってください。
詩への感想、推敲のヒントを1週間以内に返送します。
定員30人。
週1篇、月4篇以内。
料金は1篇(40字×20行以内、1000円)
(20行を超える場合は、40行まで2000円、60行まで3000円、20行ごとに1000円追加)
講評後の、質問などのやりとりは、1回につき500円です。
費用は月末に 1か月分を指定口座(返信の際、お知らせします)に振り込んでください。
作品は、A判サイズのワード文書でお送りください。
少なくとも月1篇は送信してください。
お申し込み・問い合わせは、
yachisyuso@gmail.com
また朝日カルチャーセンター福岡でも、講座を開いています。
毎月第1、第3月曜日13時-14時30分。
〒812-0011 福岡県福岡市博多区博多駅前2-1-1
電話 092-431-7751 / FAX 092-412-8571
**********************************************************************
「詩はどこにあるか」6月号を発売中です。
132ページ、1750円(送料別)
オンデマンド出版です。発注から1週間-10日ほどでお手許に届きます。
リンク先をクリックして、「製本のご注文はこちら」のボタンを押すと、購入フォームが開きます。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168079402
*
オンデマンドで以下の本を発売中です。
(1)詩集『誤読』100ページ。1500円(送料別)
嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072512
(2)評論『中井久夫訳「カヴァフィス全詩集」を読む』396ページ。2500円(送料別)
読売文学賞(翻訳)受賞の中井の訳の魅力を、全編にわたって紹介。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073009
(3)評論『高橋睦郎「つい昨日のこと」を読む』314ページ。2500円(送料別)
2018年の話題の詩集の全編を批評しています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168074804
(4)評論『ことばと沈黙、沈黙と音楽』190ページ。2000円(送料別)
『聴くと聞こえる』についての批評をまとめたものです。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073455
(5)評論『天皇の悲鳴』72ページ。1000円(送料別)
2016年の「象徴としての務め」メッセージにこめられた天皇の真意と、安倍政権の攻防を描く。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072977
問い合わせ先 yachisyuso@gmail.com