ヤン・エーリク・ヴォル/谷川俊太郎「階段の階段以前/単なる事実」(「現代詩手帖」2013年03月号)
ヤン・エーリク・ヴォル/谷川俊太郎「階段の階段以前/単なる事実」は対詩である。「ヴォルのスタイルを真似て、対詩を試みてみた。」と谷川が書いている。
そのヴォルの詩がとてもおもしろかった。ヴォルは俳句が好きだということだが、まさにそれは俳句の世界だ。
「きみ」と「僕」が会話している。ふたりの発言は1連4行ずつの構成のなかで、どれがだれの発言か、よくわからなくなる。たぶん、「僕」は「踏み外すこと(自分の意志で自分という「枠」を越えて自分ではなくなること)が問題なのだ(重要なのだ)と君に言うのだが、君は「そんなことをしたら自分というものがバラバラなる。それはいやだ。木の階段のように形(枠)のあるものでいたい。」と答える。それに対して僕はもう一度言う。「木の階段は壊れてバラバラになったとしても、それは階段以前の、森の中の一本の松の木という原型にもどるだけだ。木であることにかわりはない」。
この階段が壊れても、それは森の中の木であったこと、そして思い出すとき、その木という存在になることにかわりはない。--この木と階段と森の中の松が、ことばのなかで往復し、そうすることで世界の2点、つまり階段のある場所と森の中が、松の木という存在に結晶する。そして、その松の木は松の木でありながら森そのものとも呼吸をかわす。それは階段が森と呼応するのに重なり合う。うまくいえないが、そこには求心と遠心がある。出会って、ぶつかって、ぶつかりあいのなかで求心(階段)と遠心(森)に分裂し、同時に一つになる。そういう「錯覚(?)」のようなものが、瞬間的にあらわれる。
矛盾のなかに、何か、ビジョン(幻)を見てしまう。そしてそれが、二人の会話のどれをだれが言ったのかよくわからないのと混じり合い(わたしは便宜上整理してみたけれど……)、この美しい幻が「僕」と「君」とで共有されるのを感じる。言った瞬間、聞いた瞬間、そのことばは二人のものになる。同じようにそれを読んだ瞬間、それは読者(私、谷内)のものにもなる。瞬間的に共有が置き、すべてが融合し、「宇宙」になる。
まさに、遠心・求心。
ほう、と私はため息がもれた。
谷川は、この詩に、次の詩を向き合わせている。
わたしが求心・遠心と呼んだものを谷川は「下から上へ/上から下へ」という往復運動で表現している。そうすることでヴォルの詩と重なる。もちろん「木の階段」という「もの」でも重なり合うのだが、ウォルが「ここ」と「ここではない森」の水平方向での遠心・求心を展開するのに対して、谷川は上下(垂直)の方向に遠心・求心の運動をぶつけることで、世界を立体的にする。(上下が立体ではないかという人もいるかもしれないけれど、一本の糸の上下もある。水平と垂直が出会うことで、立体的な世界になる。)
ほう。
ちょっと感心するけれど、ちょっと意味が強すぎない?
たぶん、この詩はもっと違う感じ、もっと多角的に読まれるべきなのだろう。読むべきなのだろう。
谷川の書いている「詩人」とはだれのことだろうか。2連目の詩人はヴォルに見える。そのとき、「私」とは谷川自身である。谷川はヴォルに、あの詩は「暗喩」として書いているのかと質問した。それに対してヴォルは「単なる事実」と答えた。
遠心・求心の運動は「暗喩」ではなく、「事実」である。あ、これこそ、俳句の精神なのだが。
その「事実」について、谷川は別の「事実」をぶつける。階段を木にもどすのではなく、階段のもう一つの「事実」、「通路」という「機能」をぶつける。そうすると「上下運動」という「事実」が「ある」。
ヴォルの遠心・求心は、いわば精神の運動。谷川の上下は肉体の運動。--のように見えて、実は逆かもしれない。ヴォルを読んだとき、わたしは肉体が解放される感じ、私自身の肉体が消えて、森と木に融合し一体になっているのを感じ、そこで起きていることを肉体的に理解したけれど、谷川のことばではそうい有漢字になれない。谷川のことばは精神的(頭脳的?)で、それを読むとき、私は「頭」で一生懸命「意味」を追っている。「意味」を追いながら、「意味」のなかでヴォルの世界と結び合わせている。
重なり合いながら、重なり合わない。ここに、なんとも不思議な「ずれ」のようなものがある。
これが、この詩の変なところ(?)なのだが、この変なところが、また変に魅力的である。ヴォルに単に「調和」してみせるのではなく、ずれをわざとつくりだして見せる。
そして、それは「この詩の変なところ」と私は書いたのだが、谷川の詩を奇妙に感じさせることで、よりヴォルの詩を美しく感じさせる。(これは、私が「頭」よりも「肉体」に親近感を覚えるからかもしれない。私の「性癖」かもしれない。)
で、なんといえばいいのだろうか。谷川の書いている詩は「あいさつ」に見える。あなたの詩に感動しました。それで私はこんな詩を書いてみましたが、という感じ。
というのも(というのは、私独特の、とんでもない「飛躍」と「誤読」なのだが。)
というのも最後の連を読みながら、私は「詩人」が入り混じっているように感じるのだ。最後の「詩人」って、だれ? ヴォル? それでは、「言葉は嫌だ/と階段は言う」はだれのことば? ヴォル? 谷川? いや、それは「階段」が言ったこと。
でも、その階段はだれの階段? ヴォルの階段? 谷川の階段?
これは、入り混じっていて、どっちでもいいのだ。どっちでも好きなふうに読んでいいのだ--というのは乱暴だけれど、私は好きなふうに読む。それが「正解」(谷川の意図した通り)かどうかは気にしない。気にできない。
谷川は、ヴォルの詩にあわせて詩を書いてみた。でも、それは私にはちょっと奇妙な感じ。谷川もそう感じているのかも……。うまく調和しているとはいえない。
その詩を読んだ「階段(これは、ヴォルの階段でも、谷川の階段でもいい)」は、谷川の詩の「言葉」は「自分(階段)」にはずれてしまって感じられる。「嫌」だ、と言っている。
そう主張しているのだが、その詩を書いた詩人(谷川)には、聞こえなかった。--と、谷川は「わざと」書いている。誇張して書いている。
あ、でも……。
聞こえたから、それを階段の不満として谷川はことばにしている。自分(谷川)に対する不満を「階段」に語らせている。
階段(木)と森(松の木)の遠心・求心があり、階段の上下の運動としての遠心・求心があり、事実と言葉(暗喩)の遠心・求心があり、さらにヴォルと谷川の遠心・求心(?)があり、--つまり、瞬間的な往復運動、だれがだれであるか区別は必要はなく、往復するという運動、遠心・求心という運動があり……。
そういうことをしながら、谷川は、ヴォルの詩に敬意を払っている。ヴォルの階段は、谷川の階段の詩・言葉を嫌だと言っているけれど、谷川にはそれは聞こえなかった、という形でヴォルの詩に軍配を上げるというかたちで「あいさつ」をしているように感じられる。「階段」も「木」も「森」も、きっと谷川の詩よりもヴォルの詩の方を好きだよというに違いない、と「あいさつ」しているように思える。
ヤン・エーリク・ヴォル/谷川俊太郎「階段の階段以前/単なる事実」は対詩である。「ヴォルのスタイルを真似て、対詩を試みてみた。」と谷川が書いている。
そのヴォルの詩がとてもおもしろかった。ヴォルは俳句が好きだということだが、まさにそれは俳句の世界だ。
私は
そんなに
強くない、君は言う。僕は言う:それは
違う
強い弱いの
問題
じゃない、
問題は
別:踏み外すこと
君自身の
意志
踏み外そうとする
踏み外している限り
私はバラバラに
なりたくない
君は
言う、木の階段
のように。
木でできた
階段は
ずっと
木の
ままだ、僕は言う、万一
壊れたとしても
バラバラに。階段が
階段であった以前、
それは一本の松の木だった
森の中の。
「きみ」と「僕」が会話している。ふたりの発言は1連4行ずつの構成のなかで、どれがだれの発言か、よくわからなくなる。たぶん、「僕」は「踏み外すこと(自分の意志で自分という「枠」を越えて自分ではなくなること)が問題なのだ(重要なのだ)と君に言うのだが、君は「そんなことをしたら自分というものがバラバラなる。それはいやだ。木の階段のように形(枠)のあるものでいたい。」と答える。それに対して僕はもう一度言う。「木の階段は壊れてバラバラになったとしても、それは階段以前の、森の中の一本の松の木という原型にもどるだけだ。木であることにかわりはない」。
この階段が壊れても、それは森の中の木であったこと、そして思い出すとき、その木という存在になることにかわりはない。--この木と階段と森の中の松が、ことばのなかで往復し、そうすることで世界の2点、つまり階段のある場所と森の中が、松の木という存在に結晶する。そして、その松の木は松の木でありながら森そのものとも呼吸をかわす。それは階段が森と呼応するのに重なり合う。うまくいえないが、そこには求心と遠心がある。出会って、ぶつかって、ぶつかりあいのなかで求心(階段)と遠心(森)に分裂し、同時に一つになる。そういう「錯覚(?)」のようなものが、瞬間的にあらわれる。
矛盾のなかに、何か、ビジョン(幻)を見てしまう。そしてそれが、二人の会話のどれをだれが言ったのかよくわからないのと混じり合い(わたしは便宜上整理してみたけれど……)、この美しい幻が「僕」と「君」とで共有されるのを感じる。言った瞬間、聞いた瞬間、そのことばは二人のものになる。同じようにそれを読んだ瞬間、それは読者(私、谷内)のものにもなる。瞬間的に共有が置き、すべてが融合し、「宇宙」になる。
まさに、遠心・求心。
ほう、と私はため息がもれた。
谷川は、この詩に、次の詩を向き合わせている。
釘は嫌だ
と木は言った、
が その声は鋸には
聞こえなかった。
これは暗喩かね
私は訊く、
詩人は言う
落ち葉の上で
単なる事実です。
やがていつか
木は階段として
小学生たちの通路
となる、
下から上へ
上から下へ
それが自由。
言葉は嫌だ
と階段は言う、
が その声は詩人には
聞こえなかった。
わたしが求心・遠心と呼んだものを谷川は「下から上へ/上から下へ」という往復運動で表現している。そうすることでヴォルの詩と重なる。もちろん「木の階段」という「もの」でも重なり合うのだが、ウォルが「ここ」と「ここではない森」の水平方向での遠心・求心を展開するのに対して、谷川は上下(垂直)の方向に遠心・求心の運動をぶつけることで、世界を立体的にする。(上下が立体ではないかという人もいるかもしれないけれど、一本の糸の上下もある。水平と垂直が出会うことで、立体的な世界になる。)
ほう。
ちょっと感心するけれど、ちょっと意味が強すぎない?
たぶん、この詩はもっと違う感じ、もっと多角的に読まれるべきなのだろう。読むべきなのだろう。
谷川の書いている「詩人」とはだれのことだろうか。2連目の詩人はヴォルに見える。そのとき、「私」とは谷川自身である。谷川はヴォルに、あの詩は「暗喩」として書いているのかと質問した。それに対してヴォルは「単なる事実」と答えた。
遠心・求心の運動は「暗喩」ではなく、「事実」である。あ、これこそ、俳句の精神なのだが。
その「事実」について、谷川は別の「事実」をぶつける。階段を木にもどすのではなく、階段のもう一つの「事実」、「通路」という「機能」をぶつける。そうすると「上下運動」という「事実」が「ある」。
ヴォルの遠心・求心は、いわば精神の運動。谷川の上下は肉体の運動。--のように見えて、実は逆かもしれない。ヴォルを読んだとき、わたしは肉体が解放される感じ、私自身の肉体が消えて、森と木に融合し一体になっているのを感じ、そこで起きていることを肉体的に理解したけれど、谷川のことばではそうい有漢字になれない。谷川のことばは精神的(頭脳的?)で、それを読むとき、私は「頭」で一生懸命「意味」を追っている。「意味」を追いながら、「意味」のなかでヴォルの世界と結び合わせている。
重なり合いながら、重なり合わない。ここに、なんとも不思議な「ずれ」のようなものがある。
これが、この詩の変なところ(?)なのだが、この変なところが、また変に魅力的である。ヴォルに単に「調和」してみせるのではなく、ずれをわざとつくりだして見せる。
そして、それは「この詩の変なところ」と私は書いたのだが、谷川の詩を奇妙に感じさせることで、よりヴォルの詩を美しく感じさせる。(これは、私が「頭」よりも「肉体」に親近感を覚えるからかもしれない。私の「性癖」かもしれない。)
で、なんといえばいいのだろうか。谷川の書いている詩は「あいさつ」に見える。あなたの詩に感動しました。それで私はこんな詩を書いてみましたが、という感じ。
というのも(というのは、私独特の、とんでもない「飛躍」と「誤読」なのだが。)
というのも最後の連を読みながら、私は「詩人」が入り混じっているように感じるのだ。最後の「詩人」って、だれ? ヴォル? それでは、「言葉は嫌だ/と階段は言う」はだれのことば? ヴォル? 谷川? いや、それは「階段」が言ったこと。
でも、その階段はだれの階段? ヴォルの階段? 谷川の階段?
これは、入り混じっていて、どっちでもいいのだ。どっちでも好きなふうに読んでいいのだ--というのは乱暴だけれど、私は好きなふうに読む。それが「正解」(谷川の意図した通り)かどうかは気にしない。気にできない。
谷川は、ヴォルの詩にあわせて詩を書いてみた。でも、それは私にはちょっと奇妙な感じ。谷川もそう感じているのかも……。うまく調和しているとはいえない。
その詩を読んだ「階段(これは、ヴォルの階段でも、谷川の階段でもいい)」は、谷川の詩の「言葉」は「自分(階段)」にはずれてしまって感じられる。「嫌」だ、と言っている。
そう主張しているのだが、その詩を書いた詩人(谷川)には、聞こえなかった。--と、谷川は「わざと」書いている。誇張して書いている。
あ、でも……。
聞こえたから、それを階段の不満として谷川はことばにしている。自分(谷川)に対する不満を「階段」に語らせている。
階段(木)と森(松の木)の遠心・求心があり、階段の上下の運動としての遠心・求心があり、事実と言葉(暗喩)の遠心・求心があり、さらにヴォルと谷川の遠心・求心(?)があり、--つまり、瞬間的な往復運動、だれがだれであるか区別は必要はなく、往復するという運動、遠心・求心という運動があり……。
そういうことをしながら、谷川は、ヴォルの詩に敬意を払っている。ヴォルの階段は、谷川の階段の詩・言葉を嫌だと言っているけれど、谷川にはそれは聞こえなかった、という形でヴォルの詩に軍配を上げるというかたちで「あいさつ」をしているように感じられる。「階段」も「木」も「森」も、きっと谷川の詩よりもヴォルの詩の方を好きだよというに違いない、と「あいさつ」しているように思える。
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